口頭は無効
「サレナ・ド・ランジット、私とお前の婚約を破棄したい」
目の前の青年、この国の次期国王こと公爵家の嫡男リュイ・ド・コールデンは、はっきりと言い渡した。婚約者である、私に向かって。
―――思えば、当然のことだった。
たっぷりとした柔らかな金髪の、眩い美貌の女子に振り向かない男子がいるだろうか。ましてや侯爵家の令嬢という肩書の。
バーニー・ド・センシール。それが彼女の名前だ。私が通うこの王都国立学園へ、一年生の終わりに転校してきた。突如現れた彼女はあっという間にその美しさで評判になった。男子はもちろん、女子の取り巻きもすぐに現れた。特に進んで関わりたいと思わなかった私は、輪の中心で輝く彼女をぼんやりと「目立つなあ」と遠巻きに見ていたのだが。ある日突然バーニーの方から声をかけられたものだから、それはもうびっくりした。
「どうしてリュイ様の結婚相手が、伯爵家の娘なのかしら。しかもあなたのような」
話し出したかと思えば、なんだかすごく失礼なことを言うので私は更にびっくりした。彼女の言葉から察するに、私に対してあまりよろしくない印象を抱いているようだが、私はただただ自分の常識の範疇を超えた彼女の行動に引いていた。ほぼ初対面でこれはひどい。
さらに驚いたのは、私がリュイと二人で話しているところに鮮やかにカットインしてきたことだ。私たちの婚約は生まれる前から親が決めたものであり、周りにも知られている。今まで二人で話しているときは大体皆遠慮してくれたものだ。バーニーはその辺の事情をよく分かっていない顔でごく自然に話題を攫って行った。「転校生」という肩書の便利さを最大限に利用している彼女に慄く。彼女は『知らない』のだから、仕方がないのだ。そして恐ろしいことに、バーニーは私とサシで話した時とは別人のようであり、侯爵家の令嬢に相応しい話し方は上品で、にこにこと打つ相槌は愛らしく、笑う声は鈴の音のようだった。
(二重人格かな)
度肝を抜かれている私はというと、天使や女神と見紛う彼女に顔を赤くしている隣の婚約者を横目で見ていることしかできなかった。
そして事態は悪化の一途を辿る。リュイに借りていた本を返そうと、私は学園にある彼の自室を訪ねた。すると、中に居たのは楽しそうに話しているリュイとバーニーだった。婚約者がいながら、又いることを分かっていながら、男女が二人でいるとはどういう了見だ。しかも個室に。目を丸くする私に、バーニーは全く無垢な笑顔で「リュイ様のお優しさに甘えてしまってすみません。学園のことを教えていただいておりましたのよ」と先手を打ってきた。ジロリとリュイを見れば、こちらもこちらで悪びれる様子もなく、
「サレナ。帰る前に紅茶を淹れてくれ」
などと宣った。
「え?」
今、何と言った?
自分のこめかみが引きつるのが分かった。
「彼女は紅茶を淹れるのが上手いんだ」
「まあ、すごいわ。私自分で淹れたことがなくって」
「ははは、まあそうだろうな」
(……終わったな)
顔を突き合わせてフフフと笑っている二人を見て、私の心は一瞬で冷却された。今この人たちは私のことを完全に下に見た。婚約者である、私を。というか、婚約者でなくてもあり得ないだろう。どうしてあなたたちの歓談のために、メイドでもない私が紅茶を淹れなくてはならないの?いや例えお金をもらってもお断りだ。私は冷え切った声で「急いでいるので」と言って足早に立ち去った。
リュイは幼いころから共に過ごしてきた仲だ。婚約が決まっているからということに拘らず、私は多少なりともリュイに想いを寄せていた。なので余計に彼への失望は大きかった。彼はいつの間に他人を見下す人間になってしまったのか。二人で本を読んで、領地から届く異国の宝物に胸を弾ませて。ああ、あの日々は戻らないのだ。彼の心は私に向いていない。痛いくらい分かってしまったことが、自分でも想像以上に堪えていることに苦笑する。それでもこの時はまだ、リュイと結婚する未来を疑っていなかったのが刷り込みの怖いところである。何せ、今まで17年間それを当然として生きてきたのだから。
―――そして現在。
ここは2年生の終了を祝う学年末パーティの会場。私はドレスに一言も言及しないリュイを心の中で罵りながら、いつものように彼の隣に立っていた。最初のダンスは婚約者と踊る習いだ。しかし、今日のリュイはいつもと違った。なかなか手を差し出さない彼を、私は怪しんで見上げた。すると、彼はしっかりと私を見据えて「私はお前の手を取ることはできない」と言い放った。その瞬間、場の空気は一瞬にして固まり、一斉に来場者の注目が集まった。
今まで散々私の『仰天履歴』は更新され続けてきたが、まさかまだ新記録が出ようとは。私はかつてない程驚いたので『ポカン』とリュイを眺めていることしかできない。
(何故に皆がいる前で?このタイミングで?あと本気?)
固まっている私をよそに、バーニーは感涙しながらリュイの元に駆け寄った。完全に二人の舞台である。え?え?どういうこと?
「サレナ・ド・ランジット、私とお前の婚約を破棄したい」
場に更に大きな爆弾が落とされた。い、言った…!私は無意識に唾を飲み込んだ。そこでハッと気が付き、周りに視線を走らせる。先生方も、来賓で来ているリュイのとこの偉い人も皆顔を青くしてこっちを見ていた。「何か言って」と彼らの目からプレッシャーがビシビシと飛んでくる。そんなこと言われても!
「リ、リュイ、待って頂戴」
未だフリーズした頭で何とか口を開いたが。私の言葉を追いすがっているものと受け取ったのか、彼は静かに頭を横に振った。「やれやれ」、「そうだろうな」、「みっともないぞ」とでも言いたげな表情、眼差し、動作で、私は勘違いされたことに気が付いた。は、腹立つ…!
「サレナ。悪いことをしたな。俺は強いられた結婚は間違っていると気がついたんだ。己の愛情をもって結婚はすべきだ。俺も、お前も解放されよう」
「………………」
絶句。
もしもこの世じゃなかったらさぞ格好のいいセリフだっただろう。ああ、目の前がくらくらしてきた。バーニーはリュイの腕にしっかりと掴まり、顔を寄せて涙しているようだ。だめだこの二人には、ふんわりとした言葉では通じない。はっきりと言わなくては。私はリュイの目を見て言った。
「この件は、あなたが自分でおっしゃったように、私たちで決めたことではないのだから、私たちがどうにかすることはできないわ。口頭での手続きは絶対に無効と思われますので、正式な書面対応が必要と考えます」
「「………………」」
黙った。ドラマチックしていた二人は黙ってしまった。私は間違ったことを言ったつもりはない。だってリュイは『次期』国王ではあるけれど、その権限はおろかまだ何の爵位も継いでいない。ましてやそんな人間が『国王』が決めた婚約を一言で反故にできるわけがない。若さと情熱とは恐ろしいものだ。ということで、さっきから目をかっぴらいてこちらを見ていた『大人』の方々は何とか鎮静化した二人に、こっそりと安堵のため息をついていた。
誰も彼も、あまりに勝手である。まさか、『次期』国王の婚約者として恥ずかしくないよう努めてきた私が、好奇の目に晒され、屈辱を味わわされ、場の始末までさせられるとは。本当に恥のかき損だ。この一年を振り返っても、この二人のやり取りに始終苛立たされ、「婚約者はサレナ嬢のはずでは?」とか「リュイ様とバーニー様、並んでると本当に絵になる」とかいう声に耐えるばかりだった。挙句婚約破棄!!全くもって割に合わない。
本当はダッシュでこの場から立ち去りたかったけれど、なけなしの気合で表情筋を総動員して『キリリ』とした顔を作り、二人にくるっと背を向け、会場の出口に向かって颯爽と足を進めた。
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