三話 正体
陽の光で目が覚める。
寒いので暖かい布団から出たくない。
「んん……寒い」
が、気合を入れてがばっと布団をめくった。
着替えて鏡の前に座り、いつものように髪を結う。高くひとつに結んだ後、髪紐で団子にまとめる。この結い方は、母が教えてくれたものだった。そしてこの髪紐も、母がくれた。
髪を結って、私は机の上に置かれた簪に目を向けた。手に取ってその装飾を陽の光にかざしてみる。昨日の夜のように、美しく優しく煌めいている。
私は慣れない手つきでそれを髪に挿した。
「──よし」
そして家を出た。
吐く息の白い朝、軋む木の階段を降りて店の扉を開く。
今日も先に千夜香さんが来ていた。
「おはようございます」
「おはよー」
「今日も寒いですねー」
「雪降りそうだね」
「ですね」
──と、店の扉が開いた。
そこに居たのは輝夜だった。
「ああ寒っ」
「あれ?今日早いね」
まだ店の準備も終わっていない。
「うんまあ」
あ、と輝夜は付け加える。
「今日酒はいいわ」
その言葉に少しばかり驚く。
「なんかあんの?」
尋ねると輝夜は曖昧に答えた。
「まあ、いろいろ」
不思議に思っていると、お、と輝夜が声を上げた。
「簪つけてくれてんだ」
私は少し頬を染めて俯いた。
「あ、うん、まあ」
そんな私に千夜香さんは言った。
「本当だ!可愛い」
そして意味ありげに私を小突いた。
「ちょ、なんですか」
「別にぃ?」
楽しそうに彼女はにやりと笑った。
「あ、すまねー俺もう行くわ」
「え、随分早いね」
千夜香さんは彼に言う。
「ああ、忙しいからな」
冗談めかして彼は答える。
「ふふ」
そんな彼に千夜香さんは笑った。
「じゃあな」
軽く手を挙げて彼は店を出た。
先程まで賑やかだった店内は静かになった。
そんな静寂を破るように千夜香さんが口を開いた。
「よし、店の準備しよっか」
「はい」
そうして店の準備をしていた時、再び店の扉が開いた。
「すみません、店はまだ───」
言いかけて、私は目を見開いた。
暖簾をくぐったのは、兄の凛久都だった。
「凛月ちゃーん!」
大きく手を広げて凛久都は私に向かって来た。少し身構えると、彼は私をきつく抱きしめた。
「うわっ」
「会いたかったよー凛月」
相変わらずの兄は私に抱きつくなり頬をすり寄せてくる。
「苦しい」
「あ、ごめんごめん」
そう言うと彼は私を離した。
「おっ、凛久都くん久しぶり!」
と、奥から千夜香さんが出てきた。
「あ!千夜香さん久しぶり、また綺麗になったね」
「ふふ、凛久都くんはかっこよくなったね。相変わらず凛月ちゃんのこと大好きね」
「もちろん!」
そう言ってまた抱きつこうとしてくる兄を私は突き返した。
「うるさい兄ちゃん」
「もう冷たいなあ」
ふてくされたように彼は口をとがらせた。
「そういや、急にどうしたの?」
そんな彼に千夜香さんが尋ねる。
「戦で遠くまで行ってたんだけど、次の戦場がこの近くだったから寄ったんだよ」
兄は、リベルタの幹部だ。王政軍と戦ばかりして、いつ死ぬか分からない。だからこうして会えるだけで本当は嬉しいのに、元気すぎる兄に押されて素直に喜べもしない。この人はそう簡単には死なないだろうという確信さえある。
「また戦あるんだ」
私が聞くと、彼は笑顔で答えた。
「おう。まあ俺らはまた負けねーだろうけど」
「勝ってもないけどな」
私はすかさず言う。彼らリベルタは、その大きな戦力差をものともせず王政と互角に戦っている。
「まあな」
何故かドヤ顔で兄は言った。
「なんか食べてく?」
そんな彼に千夜香さんが言う。
「あー、いやいいわ。軍議あるし」
「そっか。気をつけてね」
千夜香さんは優しく微笑んだ。
「おう」
そして兄はこちらに向き直った。
「凛月、またな」
にっ、と彼は笑った。
「うん、また」
「千夜香さんもまたね」
そう言うと手を振って凛久都は店を出た。
「今日は朝からのお客さんが多いね」
「そうですね」
そう言って今日も慌ただしい1日が始まり、瞬く間に過ぎ去った。
翌日。
店に、輝夜は来なかった。
毎日来ていたので少し気になったが、来ない日くらいあるよな、と思った。
しかし、次の日も来なかった。
さすがに風邪でも引いたか、と思ったが私は彼のことを何も知らない。心配する仲でもない。そう思っていた。まあ、そのうち来るだろう、と。
そんな私の考えは裏切られ、とうとう彼はそれから1ヶ月来なかった。
「来ないね、彼」
千夜香さんがぽつりと呟いた。
「ですね」
店内はどこか寂しげだった。
もうどこか遠くへ行ったんだろうか。
病気にでもなったのか。
そんな考えがぐるぐると頭の中を駆け回る。
今日も来ねえのかな、と思っていたその時。
店の扉が開いた。
───!
黒い髪、透き通る瞳、高い背丈。その姿に、大きく胸が高鳴るのを感じた。
暖簾をくぐったのは、紛れもなく彼だった。
私は目を見開いた。目の前に彼がいる。
「──輝夜」
口から彼の名前が零れた。
「よ、久しぶり」
「──久しぶりじゃねえ、心配かけてんじゃねーよ」
私は気づけばそんなことを言っていた。
「あっ」
慌てて口を押さえる。
「え?俺の事心配してくれてたんだな、さすが凛月。てかさっき、俺の名前呼んだよな?初めて呼んだよな?」
そんな私を茶化すように彼が言ってくる。
「心配してないし、呼んでねーし」
私はムキになってそっぽを向いた。内心恥ずかしかった。
「──すまねえな、心配かけて」
と、彼は突然私の頭を撫でた。
温かい大きな手で、酷く穏やかな声で。
私はその瞬間、頬が熱くなるのを感じた。
「──っ」
照れ隠しで、私は俯いた。
彼は座り、酒を出すように言った。言われた通り酒を出す。と、私は彼の異変に気づいた。
腕にかすり傷がたくさんついている。そして先程から、お腹を庇っているように見えた。
彼が立ち上がった瞬間、疑いが確信へと変わった。
「うっ」
彼は立ち上がるなり、小さく声を上げた。
「──怪我、してるだろ」
私は彼の核心をついた。
「え?なんで」
「隠してもバレバレ」
私が言うと、彼は自嘲気味に笑った。
「バレてたか」
私は傷の程度も分からない。だが庇うほどの怪我なら、軽い傷ではないだろう。そんな傷で帰らせる訳にも行かない。どうしようかと考えた末、一つの考えが思い浮かんだ。
「とりあえず家来な、ここの二階だから」
──仕方ない。
「え、いいのか?」
嬉しそうに言ったあと、また声を上げた。
「あっ痛っ」
馬鹿だろ、と思いながら千夜香さんに声をかける。
「すみません、すぐ戻りますんで」
「いいよーまだ誰もいないし」
どうも、と言ってから店を出た。
「上れねえ」
階段の前で、輝夜は立ち止まった。
「頑張れ」
その横を通り過ぎて私は上る。
「お願い凛月、肩貸して」
振り向くと彼が手を合わせてお願いしてきた。
「──仕方ねーな」
そう言って渋々彼に肩を貸してやった。
隣で息を荒くしている彼。
「ううっ」
一段上る度に彼が横で声を上げる。
顔が近いのが気恥ずかしくて、頬が熱くなるのを悟られないように私は彼に言う。
「わざとだろ」
「違ぇよ、本当に痛てーんだもん」
うるさいな、と思いつつ家の前に着いた。
がらっと扉を開けると、隣で彼が言う。
「おお、普通」
黙れや。
「悪いな、普通で」
彼を招き入れ(正確に言うと部屋にずかずか入り込まれ)畳の上に座らせた。
「見してみ」
輝夜は長着をめくり、私に見せた。
さらけ出した筋骨隆々のたくましい体に、血の滲んだ包帯が巻かれている。
「うわ、なんでこんなことになった?」
尋ねると輝夜は曖昧に答える。
「まあ、いろいろあった」
私は手当をしながら考えた。
いろいろ?この傷なら誰かに斬られたとしか思えない。
───「戦」。その一文字が私の頭に浮かぶのと、1か月前の記憶が重なるのは同時だった。確か、輝夜が来なくなる前の日、兄が戦があると言って会いに来た。そして輝夜は帰って来たらこの傷だ。あの戦に出ていたと考えてほぼ間違いない。では輝夜は、リベルタか王政の兵士?でも王政の兵士なら軍服を着ているだろうし、あんなに毎日酒を飲むことはできない。それならリベルタにいると考えた方が自然だ。もし彼が王政の人間なら、兄のことは隠さなければならない。でも聞かずにはいられなかった。私は思い切って尋ねた。
「──輝夜はリベルタで戦ってんの?」
私の問いに帰ってきたのは、意外な言葉だった。
「──お前は勘がいいんだな」
「え?」
「そうだよ」
そんなにあっさり認めていいのかと、少し驚く。
「認めるんだ?」
「別にお前は俺らの敵でも味方でもねーだろ、それでも一応正体は明かさなかったけど」
「まあ、たしかに」
──いや、と私は付け加えた。
「味方かな」
「え?」
「──私の兄ちゃんは、リベルタで戦ってるから」
「もしかして──凛久都?」
そう言って輝夜は私の顔を見た。
「え、知ってんの?」
「もちろん、あいつ幹部だし」
それを聞いて一つの疑問が浮かぶ。
「じゃあ、アンタは?」
「──ツクヨミって言えば分かるか?」
ん?
「───え?」
あの、ツクヨミ?
「リベルタ、の?」
「そう」
彼は私の反応を楽しんでいるようだった。
「本当に?」
「ああ、本当に」
私は少しの間黙り込んだ。
まさか目の前にいる輝夜が、あのツクヨミだったとは。
そして口を開いた。
「そうだったんだ」
輝夜は唖然としている私の言葉を聞いて、楽しそうに笑った。
「まさか凛月と凛久都が兄妹だったなんてなあ。苗字聞いた時あれ、って思ったんだけどなー。たしかに顔似てるな。───勘が良いところも」
1人で楽しそうに笑う輝夜を横目に見て、私は言った。
「傷開くよ。手当してやったんだし、今日は帰りな」
私の言葉に彼は少し黙った。
どうしたのかと思い彼の方を見た時、彼が口を開いた。
「帰れねえ」
「帰れ」
即答した。
「俺が死んでもいいのか?」
その言葉に私はため息をついて、答えた。
「──分かったよ店閉じるまでな」
あーめんどくさい、と言いながら私は立ち上がった。
そして布団を敷いて、そこに寝るよう促す。
「起きるなよ」
「わかってるよ」
そして嬉しそうに布団に入り、欠伸をした。
「行ってらっしゃい」
彼は布団の中から私にひらひら手を振った。
なんか腹立つ、と思いながら、私は店に戻った。
「すいません、千夜香さん」
店に戻ると、客が数人いた。
「いいよー。彼、大丈夫?」
「はい、とりあえず手当して今は家で寝かせてます」
「そっか、なら良かった」
千夜香さんは安堵の笑みを零した。
そして思いついたようににやりと笑う。
「──今日は泊めてあげたら?」
その言葉に私は吹き出した。
「と、泊めるとか──絶対しないですよ!」
動揺する私を見て彼女は面白そうに笑った。
※長着⋯⋯着物のこと。