私のアイし方
こんにちは、二話から三話の短編になると思います。
世の中には理解できない人もいて、でもその人たちも自分と同じように色々なことを考え生きている。
この物語の主人公の事が理解できない人も多いかと思いますが、理解は出来なくても、こんな人もいるかもしれないと認識してもらえると嬉しいです。
ゆっくりと寝ている兄の首に伸ばした両手に力を籠める。
そして、彼は目を覚ます。
でも、抵抗はしない。
優しい目でジッと私を見つめるだけだ。
兄の右手が私の頬にそっと触れる。
私の両手は緩まない。
だから、彼の右手はゆっくりと力なく落ちていった。
なーんて、全て妄想だ。
私はあくびを殺しながら、ちんぷんかんぷんな黒板の内容を板書する。
実際に首でも絞めようものなら、誰が相手だって反射的にもがき苦しんで女の私の両手なんてすぐに振り払われるだろう。
私はよく妄想するのだ。
私の大切な人を私が殺してしまう妄想を。
明らかに何かの病気ではないかと昔ネットで調べたが、しっくりくるものがない。
何でもない人間を無差別に殺したり、憎い人間を殺したりする妄想をする病気はあるらしいが、大切な人というのはついぞわからなかった。
昔はよくこのことで悩んだりもしたが、今では慣れた。
別に誰かに危害を加えるわけではない。
でも、この教室にいるみんなも同じ教室にこんなサイコパスみたいな思想の女がいるなんて思ってもみないだろうから少し可哀想かな。
まぁ、私以外にもこんなわけのわからない事を考えている人がいないとも言い切れないが、希少な部類には入るだろう。
私は兄が好きだ。
兄の為なら命だって捨てられるほどに好きだ。
兄の為なら人だって殺せるし、兄だって殺せる。
それが私の愛。
大切な人の為ならなんだってできると言う人がいるけど、私に言わせれば嘘っぱちだ。
なら、その大切な人が望めば、その大切な人を殺すことは出来るのか?
私は出来る。
そこまで出来て何でもできると言って欲しいものだ。
まぁ、愛の形は人の数だけあるのだし、押し付けるつもりはない。
だが、私の愛が一番だと言うことだけは主張しておこう。
そんなことを脳内で主張しているうちに授業は終わっていた。
板書は半分程度しか終わっていない。
「柳、ノート」
私の一声で隣から板書済みのノートが現れた。
「最初の頃は『ねぇ柳君、悪いんだけど、もし良かったら今の授業のノート見してくれないかなぁ(キャピッ)』とまで言っていたのにずいぶん簡略化したものだね」
隣の席の柳はわざとらしく溜息をつく。
「一言一句憶えてるところが最高にキモイ」
私は手早く自分のノートの空白を埋めると柳にノートを焼却する、じゃなくて返却する。
今のが最後の授業だったので私は帰り支度を始めた。
「あれ? 帰りのホームルームは出ないの?」
「あぁ、なんか適当に誤魔化しといて」
「えぇ、適当が一番難しいんだよ。あっ、今のセリフ旦那が料理のリクエストに対しておざなりな時の奥さんみたいだね」
男のくせに頬を膨らませて、最高にキモく抗議をしてきた柳の言葉は無視して、私は最後に教室を出る前に念押しをした。
「柳、あと今日は駄目だからね」
「……へいへい」
柳はいまいち腹の読めない顔をして、昔の漫画の子分のような返事で私の方をもう向いてない。
「兄ちゃん、辻屋の鯛焼き買ってきたよー」
私は鯛焼きの入った紙袋を兄の前に置いた。
「今日さー、―」
私はしばらく今日起きた他愛のない話を兄に話して聞かせた。
二人だけの世界。
この空間だけ世界から切り取ってほしいと何度願ったか知れない。
兄は私のすべてである。
両親は私が物心つく前に交通事故で亡くなった。
幸い両親の保険金が私と兄が成人するぐらいには困らない額だったので生活はできた。
そこからは私にとっての兄は私のすべてだった。
私の母であり、父であり、恩師であり、親友であり、恋人であり、夫であり、そして兄である。
そんな世界には他は不要なのだ。
そう、不要。
「今日は駄目だって言ったよね」
私の背後には大して悪びれる様子もない柳が立っていた。
「てへっ」
私は嘆息する。
「念を押した意味なかったか、今日は私のストーキング(・・・・・・)駄目だって言ったのに」
柳は頭を掻きながら、私の横にしゃがんだ。
柳は兄に向かって手を合わせる。
「兄ちゃんは私だけの兄ちゃんだよ」
「うわー、ブラコンきっつ、その愛を百分の一でいいから僕にも振りまいてよ」
「無理」
ストーカーの分際でどんだけ贅沢を言うつもりなんだ? こいつは。
「じゃあ、せめてその豊満な胸を揉むだけでも」
「死ね。この胸は兄ちゃんが売約済みだ」
「それ押し売りだよね。ってか、その胸天国にいくまで使い道ないのかー、資源の不当な独占をする君の兄が憎いよ」
柳は大袈裟な溜息をつく。
胸を資源とかいうな。
こいつの所作はいちいち芝居がかっていて好きになれない。
私たちは辻屋の鯛焼きを食べながら並んで歩いていた。
「あのお墓の場所ってさ、ちょっと遠くない?」
私は何を言うのかと思えばと自慢げな顔をする。
「あそこが一等地でここらで一番見晴らしがいいからね」
兄には私がどこにいても見渡せる場所にいて欲しいからね。
「うわー、死体にブラコンという名の鞭打ってるよ、この人」
私たちはそんな調子で他愛のない話をしていると、先ほど考えていた私の妄想癖の話になった。
ちなみに私の妄想癖を知っているのは柳だけだ。
「やっぱりさ、君のその大切な人を殺す妄想って自己防衛の一種ってのもあると思うんだよね」
「というと?」
「両親が早くに亡くなったせいかもしれないけど、大切な人を未然に何度も頭の中で殺しておくことで、万が一の事態の時に狂ったり、壊れたりしないようにしているんじゃない?」
私は右手を顎に当て、探偵が思案するような顔をする。
確かにそれはあるかもしれない。
兄が死んだと聞いた時、勿論狂ったし、壊れたが、辛うじて後を追わずにこうして生きているのは、日頃のシュミレーションの賜物だったかもしれない。
「因みに、今まで殺す妄想をした人は?」
「……兄ちゃん、隣の家で飼ってるシロ太郎、親友のみっちゃん、小学校の時とても親切で親身になってくれた彩先生」
「あれ? 僕は?」
「あんたは妄想じゃなくて本当に殺してしまいたいんだけどね」
柳はお腹を抱えて笑いを殺すように「クククッ」と声を漏らした。
「ノート写せなくなるよ?」
「……高校卒業までは殺さないといてやる」
柳は怪しく目尻を下げて笑う。
「でも、嬉しいなぁ。君にとって殺すってのは一種の愛情表現みたいなものでしょ?」
結構ひどいことを言われている気もしたが、私は思ったより頭にはこなかった。
「そんなわけないでしょ」
「でも、勝手に死んじゃうぐらいなら、殺したいでしょ?」
「……そんなわけ」
私は強い否定の言葉が出ない。
「いやいや、いいんだよ? 何も僕は攻めてるわけじゃないんだ。人それぞれの愛の形を否定するのは神様だってやっちゃいけないことだ。僕だってストーカーなんて愛情表現しか出来ないわけだし、君もそれを受け入れてくれたわけだしね」
「いや、それに関しては一度も受け入れたことはないけどね」
初めてクラスメイトが家の前の電柱にいたのに気が付いた衝撃を、こいつは想像できるのか?
当惑なんてものじゃないぞ。
今でもすぐに通報しなかった自分を褒めてあげたいぐらいだ。
「まぁ、細かいことはいいじゃない。僕は各々の究極の愛の形は違うって言いたかっただけさ。君が大切な人が殺されてしまうぐらいなら自分で殺したいように、僕は君さえ許可してくれるなら、今から命尽きるまで一睡もせずに君の傍で見守りたいからね」
そんなゾッとする様なことを言った後に「何日もつかな?」と真面目な顔で言うので呆れて文句を言うのも忘れてしまった。
ほどなくして私と兄の家に着いた。
「じゃあね。まだ夜は冷えるから電柱の陰で息を潜めるのも程々にしておきなよ」
「君の家の前で風邪を引けるなら本望さ」
柳は決め顔を作って、親指を立ててきたので、無視して家の中に入った。
「ただいま」
もう、誰もいない家に私はただいまを言う。
手洗いとうがいを済ますと、まずは兄の部屋に言って兄の枕に顔をうずめる。
段々と匂いが薄くなっていくことに一抹の寂しさを感じながら、一時間ほど鼻呼吸をしつつ兄を殺す妄想にふける。
柳にも話していないが、私は兄を殺している。
別に凝った小説のような話はなく、単純なことで脳死した兄の唯一の身内として兄の死を認知したのだ。
つまり私が兄の生殺与奪権を握り、そして殺した。
私には出来たのだ、愛する人の為に愛する人がこれ以上苦しまないように殺すことが出来たのだ。
どれだけ兄を苦しめた奴らが居ようとも、最後に兄を殺したのは私だ。
思えば、私が辛うじて死なずに踏み止まっているのは、その辺もあるかもしれない。
変な奴らに殺されるぐらいなら、私の手で終わってほしい。
柳の言う通り、それが私の愛なのかもしれない。
愛する者の最初の一ページに刻まれることはなくとも、最後の一ページは私で終わってほしい。特別変なことを言っているだろうか?
まぁ、愛なんてみんな特別で変わっているものかもしれないけどね。
好きに理由なんてないでしょ?
貴方は何故その人を好きになったのかと尋ねられた時、何と答える?
顔がタイプだから?
性格がいいから?
はたまた、お金持ちだからとか?
でも、その貴方が思い浮かべている人よりも顔が良くて、性格が良くて、お金持ちはいるでしょ?
でも、その人が好きなんだ。
ほら、好きに理由なんてないのだ。
つまり、何故その人を好きになったのかなんて、質問する奴の頭がおかしいのだ。
好きに理由がないなら、愛にもないのだろう。
愛し方なんて誰も教えてはくれないのだ。
なら、それぞれが見つけるしかない。
人は生きる為に愛を見つける。
自然発生してしまった愛し方になんて説明は出来やしない。
例え出来たとしても、どうも理屈っぽくなってしまい、説明している本人が納得いかなくなるのがオチだろう。
最後に病室で触れた兄の手の温かさは今でも鮮明に思い出せる。
そして、霊安室で触れたあの冷たい手も。
あの時の身体中の痛覚を全て胸に集中させたかのような痛みが走った。
あれは妄想なんかじゃ得られない、とてつもない痛みだった。
よく考えてみると、柳は自己防衛だと言ったが、近いけど遠いな。
言うならばその逆、自己攻撃、普通に自傷と言ってもいいが私は妄想することで自分を守るのではなく、痛めつけているのかもしれない。
それが兄の死の時に己を死に追いやらないという点では、守りに働いたことは事実だけれども。
大切な人。
その人を殺す感覚。例えたところで分かってもらえるとも思わないが、わかりやすく言えば、大切に大切に積み重ねた積み木のお城を最後に壊す時の快感、それに似ているかもしれない。
もっと何か出来たのでは? と言う激しい後悔と永遠ではないのだから自分の手で終わらせようとする自分勝手。
その相反する葛藤で立っていられないほどの苦しみを味わう。
それがいいのだ。
私はシャワーを浴びながら、物思いにふけった。
私が兄を殺そうと思った時、どちらの感情が勝っていただろうか?
兄がこれ以上苦しまないために、兄を殺す。兄の為なら、もう二度と兄に会えなくなってもいいと言う大切な人のための感情。
他の知らない奴に殺されるぐらいなら私が兄の人生に終止符を打ちたい。そして、全身で大切な人を失い、同時にすべてを手に入れたという言い表せない気持ちのいい痛みを得ようとした自分の為の感情。
私は考える。
でも、あの時の感情を、大切な人を殺したのは兄が最初で最後だったので、よく憶えていない。
興奮状態だったのかもしれない。
私は考えても出ない結論に区切りをつけて、シャワーの温度を上げ、庭に繋がる小窓に向けて発射した。
すぐに柳の悲鳴が聞こえてきた。
柳はいい。
傷付けても心が痛まない。
それだけの大義名分をくれている。
これでも私は優しいのだ。
散々、殺したいだの何だのといっておいて信用できないかもしれないが、私は常日頃大切な人に酷い行いをしたことなんてない。
シロ太郎にはこっそりパンをあげるし、みっちゃんとは口喧嘩すらしたことがない。
勿論、兄に逆らったこともないし、言い付けもちゃんと守る良き妹だったと思う。
まぁ、そもそも、みんないい子なので争いが生まれるキッカケすら滅多にないのだけれどもね。
その点、柳は自分から痛めつけられに来る。
特に大切でもないし、丁度いいストレス発散道具だ。
警察に突き出さないで見逃している理由の九割はそこにあると言ってもいい。
そのおかげか柳と会う前より殺す妄想をする頻度が減った気がする。
「風邪引く前に帰りなよ」
私は庭の方で転がっているであろう柳に声を掛けて風呂場を出た。