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赤い手帳と無彩の天使  作者: ひるや@さな
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 一週間後の夜、卒業式はいよいよ目前となっていた。両親がようやく帰宅して落ち着いた夜更け頃、私は自室で石を彫っていた。石と言っても例の美術の時間に使っていたような柔らかいもので、素人が趣味でやる彫刻未満とでも言おうか、彫刻刀はもちろんのこと、ときに鋏やカッターを持ち替えながら私は作業に没頭していた。また石を触ってみたくなり、画材屋で調達したのだ。

 宣言通り、麻橋君は登校していなかった。あの後麻橋君とは会っていないし、連絡もなかった。テレビで見かける分には、いつもの麻橋君だったように思えた。

 じっと私を、揺らぐことなく見つめていた目。ショックを伴った記憶は、ときにはいきなり顔を出し、ときには胸に常駐した。思い出すごとに、その異常さは顕著になった。その度に、何事もなく済んだことを安堵した。

 そうして日を跨ぐごとに、相手の胸中に意識を向けられるようになった。どうして麻橋君はあんなことをしたのか。答えは、まさにあの目にあったような気がした。

『好きだったらこれするんじゃないの』

 あの疑問が呈する通り、彼は知ろうとしただけだったのかもしれない。どんな解答にもきちんと染まれるように、或いはより理解が深まるように、雑念を取り除いた結果があの空虚な瞳だったのだと考えれば。

 カッターを持つ右手が少し滑った。小さく舌打ちしてしまった。彫りすぎてしまった部分は戻せないから、周囲を調節して上手く溶け込ませるしかない。

 私が違っていただけで、ああいう疑問を抱くのは珍しくないことなのだろうか。親には当然訊けないし、込み入ったことを相談できる友達はいない。

 手の中の石は、イメージとはちょっと違うけど、ほぼ不満のない小さな天使に変貌しつつあった。割れた天使の残骸が脳を掠めた。麻橋君と顔を合わせないままお別れになるかもしれないことが、心の端をひたりと湿らせた。

 窓になにか当たったのはそのときだった。明かりに誘われた虫かと思い、気にしなかった。何秒と経たないうちに、また鳴った。次も鳴った。もしかして虫じゃないのかとカーテンを開け、窓から下を見下ろした。あ、とつい漏らした。期待を込めた顔で見上げている麻橋君と目が合った。

「これくらいの小さーい石を拾ってきて、ひとつずつ投げてたんだ。気付いてくれてよかった」

 麻橋君は手首に小さな紙袋を提げていた。白地に黒の英字をデザインしてある、お洒落な紙袋だった。

 暦上は春とは言え、夜はやっぱりまだ肌寒い。裏毛の上着を羽織った私に相反し、麻橋君は、薄手の所謂春コートに袖を通していただけだった。

「そんな古典的なことしなくても……。連絡くれたらよかったのに」

「あれ、そうなの? 酷いことしたから、てっきり無視されちゃうかと思ってさ」

「無視なんて……だって、私も……」

 言い終わる前に、麻橋君が持っていた紙袋を差し出した。

「これ、お詫びの気持ち。酷いことしてごめんね」

 受け取ってみると、紙袋の中身はハードカバーの小説だった。表紙を見て、驚いて取り出した。つい最近書店に並び始めた、好きな作家の最新作だった。促されて表紙を捲ってみると、お洒落なデザイン文字で作者の名前が書いてあった。「手に取ってくれてありがとう」の文字も。

 胸が脈打っていた。信じられなかった。顔を上げると、得意げに歯を見せる麻橋君と目が合った。瞬時に身体が火照るのを感じた。思わず目を逸らしたのを誤魔化すために、私は再びデザイン文字に注目した。

「その作者さんに会う機会があったんだー。お願いしたら、快く書いてくれたよ。今どきの若い子はあんまり本を読まないから、自分の文章を読んでくれる子がいて嬉しいって言ってたよ。あ、もしかしてもう読んでた?」

「読んでない。まだ買ってなかったの。本当にもらっていいの?」

「うん。最初からそのつもりだったし。部屋を片付けたいって言ったの自体は嘘だったけど、タダとは言わないとも言ってたでしょ。お礼じゃなくてお詫びになっちゃったけど。あ、でもお礼も言わないといけないんだよね」

「お礼?」

 そんな心当たりはひとつもなかった。飲み込めない私に、麻橋君は居住まいを正してみせた。

「酷いことされたって、誰にも言わないでいてくれてありがとう」

 すぐには反応できなかった。テンポ遅れで首を横に振った。私がなにも喋らなかったのは、麻橋君を思っての選択ではなかった。それをすると、私を取り巻く環境が大きく変わると思った。その変化が怖かったし、呑気に部屋に上がり込んだ私にだって非があった。世間だってきっとそう判断する。麻橋君だけを悪者にすることは、どの道不可能だった。

「私のほうこそ、蹴ったりしてごめんなさい。天使の置物も壊しちゃって」

「いいよ、そんなの。正当防衛じゃん」

「でも……」

「いいんだって。また覚えたから」

 赤い手帳が脳をよぎった。麻橋君の赤い手帳は、これまで何回か姿を見せた。その度に、数秒ペンが走った。お腹を蹴られ、お気に入りの天使の置物が破壊されたあの瞬間も。

 肌で感じた狂気が蘇ってきた。身震いしそうになるのを必死に留め、どうにか平常を保ち、息を呑み込んだ。

「綾崎さん」

 冷静な声で呼ばれた。麻橋君は、首を傾けて頬を掻いた。

「もしかして、あの赤い手帳のこと思い出してる?」

 迷った。けど、頷いた。このタイミングで出してくるということは、やっぱりあの赤い手帳には特別な意味があるのだ。ちょっと怖いけど、興味はあった。

 麻橋君は、顎を支えて考え込んだ。言っていいものかと悩んでいるみたいだった。やがて私と視線がぶつかった。

「俺ね、人間になりたいんだ」

「え?」

 そうとしか声が出なかった。麻橋君は、どこからどう見ても人間の男の子だった。

「外見じゃなくて中身だよ。俺ってね、感情がない奴なんだ。知識とか認識としての感情はあるからそれっぽく振る舞うことはできるけど、直接込み上げるとか自然と思うみたいな。そういうのがない」

 まあわかんない話だよね、とやや自嘲気味に言い、麻橋君は続けた。

「綾崎さんが俺を蹴ったときだって、本能的に拒んだって感じだったでしょ。あのときも、こういうときはそういうふうに思うんだって、後でちゃんと思い出せるようにメモってたんだ。円滑に生きてくために、思い出してちゃんと勉強できるように。人間メモって感じ」

「人間メモ……」

 つい繰り返した。麻橋君が普段から笑顔を絶やさず、周りに人がたくさんいる光景が目に浮かんだ。次に、漫画のいかがわしいシーンを躊躇なく見せてきたあの記憶が色を持った。

 麻橋君が言っていることは、言葉半分程度くらいにも理解できなかった。でも、思い出すことがあった。金額の大小はともかく、お金に関しては人間にしかできないと麻橋君は言っていた。

「じゃあ嘘なの? 謝ってくれたのも、さっきのお礼も」

 麻橋君は無言だった。

「判子を褒めてくれたのも、本を勧めて欲しいって言ってたのも。一緒に帰ったりしてくれたのも、全部その人間メモに基づいてのことだったの? 私の友達になってくれたわけじゃなかったの?」

「嘘吐いちゃダメなら否定はできない。けど」

 癒えかけた傷に指をかけられたみたいだった。直視するのが辛くなって俯いた。でも、続く言葉に好奇心が疼いた。俯くのをやめた。自分がこんなにも麻橋君に関心を抱いていることに、今更ながら驚いた。

「全部嘘ってわけでもないよ。謝りたかったのは本当だから。本当にそう思ったから来た」

 今しがた、麻橋君が浮かべた自虐っぽい顔を思い浮かべた。感情がないなら、あのタイミングでそんな表情を繕う意味なんてない。

 麻橋君は、右に左に視線をやった。つられて私も見渡した。時間が時間だからか、誰も歩いていなかった。明かりの消えている家も多かった。

「いろんなとこ行ってたんだ。いちいち帰ってたら余計に体力使うからって、泊まりがけであちこち。いろんな人に会ったよ」

 唐突に麻橋君は話し始めた。私は頷くしかなかった。

「すごく嫌なことする人がいた」

「嫌なこと?」

「トイレに連れ込まれたんだ。誰とは言わないけど。あ、その作家さんじゃないから安心して」

 思わず紙袋の中身を見た私に、麻橋君は言った。作ったような笑顔に、自分の心が軋むのを感じた。

「まあ、別にね、直接的なことがあったわけじゃないんだ。でも、すごく嫌だった。吐きそうだったよ」

「それ、誰かに言ったの?」

 言ってないだろうなと思った。言っていたら、それなりの報道があるはずだ。テレビでは規制しても、インターネットの個人サイトですぐに記事になる。

 麻橋君の反応は、案の定だった。

「だって動画撮られてたもん。誰かに言ったら日本中にばら撒くって言ってた。そういう手筈になってるんだって」

「脅しじゃない。大人に相談しようよ」

 淡々とした口調で続く恐ろしい宣告に、私のほうが泣きそうになった。麻橋君はまたしても首を縦には振らなかった。

「そういうのはどうでもいいんだけど、俺、あの人にちょっと感謝もしてるから。俺のせいで逮捕とかになって欲しくない」

「なんでそんな結論になるの? 麻橋君、おかしいよ」

「おかしいのはわかってるよ。だから人間になろうとしてて、間違って綾崎さんを傷つけちゃったんじゃん」

 私はなにか言おうとして、出てくる言葉がなくて口を閉じた。なにも考えつかなかった。

「嫌だとか怖いとか、足の先から一気に染まるような、たぶんあれが感情なんでしょ。あれが感情なんだってわかったんだよ。俺にもちゃんとあったんだって。めんどくさいとかじゃなくて、本当に拒みたいと思う気持ちがさ」

 私が喋らないのではなく喋れないことを、麻橋君が理解しているかどうかわからなかった。麻橋君は更に続けた。

「だから、こんな嫌な気持ちにさせたんだから、絶対謝りたいと思ってた。俺って最低だったんだなって、やっとわかった」

 ここで麻橋君は、少し顔を逸らした。目に一筋影が差したように思えた。

「でもね、それから変なんだ。ずっと嫌なんだよ。さすがに怖いとは思わないけど」

「なにが嫌なの?」

「なにもかも。過去に遡ってまで嫌に思える」

 やっと言葉を捻り出せた私に、麻橋君はそっけなく答えた。

「司会も、笑顔も、学校も、シナリオ通りの生放送やバラエティも。妙な漫画も新作ゲームも、ひとりぼっちの部屋も全部」

「麻橋君」

 話が途切れた瞬間、名前を呼んだ。麻橋君は、足先で玩んでいた石ころを踏むのをやめた。

 なにを言おうかなんて決めてなかった。しんどそうな麻橋君を、これ以上見ていたくなかっただけだった。重く気まずい沈黙が流れた。街灯に集まる虫の羽音が聞こえていた。

 ぱっと閃いたのはそのときだった。ちょっと待っててと言い残し、自室に戻った。紙袋を置いて作りかけの石の天使を掴み、再び玄関を出た。眠っている両親が物音に気付かなかったか、ちょっと不安になった。

「これ、作ってたの。色はこれからつけないといけないんだけど」

 部屋に招かれたとき、例の天使の置物について、私が作ったらどういうものになるのか見たいと麻橋君は言ってくれた。種明かしされた今では、あれも嘘だったと思う。別によかった。このちゃちな天使が、全部嫌になっている麻橋君と私を絶縁させない唯一の回線のような気がした。

「もっと見ていい?」

 あの美術の時間のときのように、麻橋君に手渡した。麻橋君はそれを目の高さまで持ち上げ、いろんな角度から眺めていた。

「すごいね、綾崎さん。やっぱ器用なんだね。高校どこだっけ」

「普通科だよ。勉強するなら自分でやりたいし、私より上手な子なんてたくさんいるから」

「自分でやりたい、か。じゃあ天使をチョイスしたのは、もしかして俺に見せたいと思ってくれたから? 綾崎さんって、やっぱ俺のこと好きなんでしょ」

 早かった鼓動が、もっと早まった。でも私とは逆に、麻橋君に動じた様子は全然なかった。彼が異性の眼差しにある程度慣れているのは、考えてみれば当然だった。

「なんちって」

 続く麻橋君の言葉は寂しいものだった。ありがとう、とだけ言って、小さな天使を私の手に返してくれた。

「完成したら」

「うん?」

「完成したら教えるから、見てくれる?」

 やっとの思いでそれだけ言った。でもまだやめちゃダメだった。頑張れ桃香。やれるぞ桃香。自分で自分の背中を打つつもりで、やけっぱちに口を開いた。

「それで、ちゃんと友達になろうよ」

想定外の展開とばかりに、麻橋君は何度も目をぱちぱちした。首を斜めに向け、ちょっと考えるような動作をしていた。

 受け入れられるか受け流されるかだと思っていた私は、口を閉じられなかった。そんなリアルなリアクションが飛び出すとは微塵も思わず、前者ならこう返そう、後者ならこう返そうとシミュレートしていた台詞が水泡に帰した。

 ていうか、私と友達になるのは、そこまで考えないといけないことなのだろうか。いくら麻橋君が人気芸能人で、私が地味な一般人だとしても。それはそれで別個のショックがある。

「ごめん。無理だと思う」

 やっと出てきた解答を、疑問に思う間なんてなかった。麻橋君は、私と目を合わせずに塀に両手をついた。そしていきなり、その身を引いた。

 ぐしゃりと鈍い音がした。咄嗟に口を押さえた。声がつっかえた。瞼が広がって、非現実的な光景が焼き付いた。足が地面に貼りついたみたいに動かなかった。塀に触れた両手がずり下がった。すぐにずり上がった。手と手の間には、赤い筋が何本も通っていた。

 躊躇も疑いもなく、麻橋君はまた頭を打ちつけた。低く奇怪な音が響いた。麻橋君の額から、滝みたいに血が滴っていた。前髪の隙間から覗く目には、おぞましいほど温度がなかった。

 なにをどう叫んでいたのか、自分でもわからなかった。ただ麻橋君の背中に飛びついた。一瞬で視界が潤み、ほとんどなにも見えなくなっていた。麻橋君は私の拘束なんて最初からないかの如く、塀に頭を叩きつけていた。

 周囲は騒ぎになっていた。連なる家々の電気が点き、ドアが開き、街灯があるのに懐中電灯で照らされたりした。物々しさの中、やがて救急車が到着し、麻橋君を連れていった。

 崩れ落ちた麻橋君の傷を塞いでいた私の手は、真っ赤になっていた。袖や上着にも血が移っていた。私は座り込んだまま、救急車が走り去った方向を見つめていた。肩を叩かれて振り返ると、父が手を差し出していた。母が私の横に並んだ。一時止まっていた涙が再び溢れた。視界の端に、転がった天使が入った。天使は轢かれて潰れていた。

 まあやだ。まあやだった。まあやが死のうとしてたんだって。集まった野次馬たちから聞こえるそんな声が、私の鼓膜に深く刻まれた。

 


次で終わるよ。

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