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赤い手帳と無彩の天使  作者: ひるや@さな
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卒業間近にして、麻橋君と仲良くなった。毎日が空を舞う羽根みたいだった。麻橋君は、私のつまらない話に相槌を打ってくれた。両親とも朝早くに出て夜遅くまで帰って来ず、ひとりっ子の私にできる話は、本当に小説の話くらいしかなかった。思えば、いつも私が話すばかりだった。

「お願いがあるんだ」

 その日、麻橋君は午後から学校に来ていた。一度帰った後、少し間を置いてまた出かけるらしい。

 珍しく口火を切られ、しかも改まられ、私は困惑した。けれど、もちろん頷いた。

「俺んち来てくれない? これから」

 唐突な誘いに咳をしそうだった。どういう意味かと振り向くと、麻橋君は足元の小石を蹴っていた。

「今日の夜からしばらく帰って来ないからさ。でももうすぐ卒業式だし、それまでに部屋を片付けたいんだよね」

「ルームメイトがいるんでしょ」

 一瞬焦ったものの、すぐに思い出した。施設では、カーテンで仕切れるふたり部屋を使っていると聞いていた。逆に言うとカーテンでしか仕切れない部屋だから、つい頭を擡げてしまったようなことはあり得ない。安心したような、ちょっと残念なような。自分でも驚くような変な気持ちになったことに、人の相部屋にいきなり部外者が入るのは非常識だ、という倫理観で蓋をした。

「そっちじゃなくて、マンションの部屋。なかなかまとまった時間が取れないから、ちょっとずつ片付けようと思って2月から借りてるんだけどね。読みたい漫画とかしたいゲームとかいろいろあって、後回しになっちゃって」

「一人暮らしするの?」

 仰天した。私も家にひとりとは言え、ひとりで過ごすことが多いだけで、ご飯の準備も洗濯も母がきっちりこなしている。私がやるのは、せいぜい掃除機をかけたり使った食器を洗うくらいのことだ。麻橋君は、今後それらを自分で対処すると言っている。

「経営難だからねー。本当はもっと早くに出て行くべきだったんだけど、俺にとっては実家なわけだし」

 当たり前のように、麻橋君は言った。

「まあ、ひとり出て行ったからって変わるものじゃないとは思うけどね。どっちにしろ高校卒業で出ないといけないから、ちょっとくらい早まったっていいかと思って。それに、寄付って形で協力しやすくなるし」

「寄付?」

「園長先生がね、頑固なおじいちゃんなんだ。でも俺がひとり立ちすれば、今すぐはダメでも、そのうち受け取ってくれるかもしれないじゃん」

 つい足を止めてしまった。ひとりで何歩か歩いた麻橋君が、振り返って頭を傾げた。私は小走りで追いつき、再び並んで歩き始めた。

「なんか……すごいね」

「なんで?」

 本当にわからない顔をしていた。私は少し顎を引いた。麻橋君が歩幅を合わせて歩いてくれていることがわかった。

「私と同じ年なのに、ちゃんと考えてるんだなと思って。お金のこととか」

「まあ、お金に関してはね。金額が大きいか小さいかはともかく、そういうのって人間にしかできないことでしょ」

 意味がよくわからず、返事ができなかった。麻橋君は、気にした様子もなく私の前に出た。

「で、どう? やっぱ突然だから難しいかな。もちろんタダとは言わないからさ」

「え」

「お片付けのお手伝い」

 マンションに入るときは、さすがにちょっと気が張った。まず麻橋君がエレベーターに乗り、部屋の前に行き、後に私が連絡を受けて追いかけた。両手を広げれば収まる小さな薄い機械で、大抵の人は顔か名前かに覚えがある麻橋君と繋がっていることが、今更ながら不思議だった。そんなことあるわけないのに、世界中で私だけが得た特権のようにさえ思えた。

 一言で言うと幸せだった。けど、妙だとも感じていた。静かだからいいと言ってくれたけど、彼の隣にいる私はたぶん、雄弁と言って遜色なかった。でも、一度としてあしらわれなかった。

 自問は私に夢を見せていた。本の中の展開みたいに、恋愛感情でも抱いてくれているんじゃないか。でも、なにがどうだからというのではなく、敢えて言うなら気配から、それはないと確信していた。安心と残念が半々ずつ、私の中で居座っていた。

ドアノブを捻った先には、ワンルームが拓けていた。淡い木の匂いが鼻をくすぐった。モノトーンで可愛いクローゼット、広いベッド、キッチンの傍の小洒落たテーブル。大きなテレビに、台の上のたたまれたノートパソコン。家賃の相場は知らないけど高そうだし、これど全部麻橋君の稼ぎで用意したんだよな、と呆然としつつ視線を巡らせていると、はたと気づいた。どこをどう見ても、引越したてでごちゃついているところなんてなかった。

 目に留まるものと言えば、テレビの前に置かれた小さなテーブルだった。何冊か本を積んでいた。その本の横に、麻橋君は、冷蔵庫が空だからと、途中のコンビニで買ってきたお菓子とジュースを広げていた。

「どうしたの? 入りなよ」

 やっぱり来るべきじゃなかったかな、と少し思った。けれど今更引き返すわけにもいかず、お邪魔しますとお辞儀してから靴を抜いた。ちょっと屈んだ視界の端に、不意に飛び込むものがあった。

 傘立ての淵に、可愛くデフォルト化された天使がちょこんと乗せられていた。目を閉じてふたりが寄り添い、ふたりで花束を持っていた。

「あ、それさりげなくて可愛いでしょ。この前、収録でお邪魔した手作り雑貨の店員さんにもらったんだ。買おうとしたらプレゼントされちゃった」

「これ手作りなの? すごいね」

「すごいけど、でも綾崎さんも、その気になったらそういうの作れるんじゃない? 自分でも知らなかったけど、俺、そういうの結構好きみたいなんだよね。綾崎さんが作ったらどんなのになるのか興味ある」

「え……」

 さりげなくすごいことを言われた。脳内キャパオーバーな私を他所に、麻橋君は、なにか楽しそうに喋っていた。どうやらその収録のときの思い出を語っているらしいけど、耳に入らなかった。

「入らないの?」

 その一言で、まだ片方靴を履いていることに気付いた。慌てて脱ぎ、きちんと揃えて、もう一度頭を低くして床を踏んだ。靴下と新しいフローリングがよく擦れた。

 手招きされて座った。ペットボトルの開栓を促されたかと思うと、麻橋君のテンションで乾杯になった。意味がわからなかったけど、悪い気はしなかった。ずっと胸がばくばく言っていた。

 テーブルに平積みされているのは漫画だった。背表紙になっているせいでタイトルはわからなかった。角度と光の加減のせいで、あらすじも読めなかった。

「麻橋君」

「んー?」

 お菓子をつまみながら、麻橋君はジュースを飲んでいた。私も少しお菓子をもらって、ペットボトルに口をつけた。

「片付けのことだけど」

「なにを片付けるの?」

 支離滅裂だった。それを理由に呼んだのに。

 麻橋君はペットボトルの蓋を閉めると、ちょっと長い前髪を横に払った。

「でも、片付けを手伝って欲しいって言ってたよね」

「片付けるものなんかないじゃん。見てわかる通り」

「や、でも……じゃあ……」

 意味ありそうな挙動で、麻橋君の指がテーブルを撫でた。イメージしていたより、ずっと綺麗で細い指だった。

「綾崎さん」

 呼ばれて顔を上げた。麻橋君が、じっと私を見つめていた。いつになく冷静な声と、迷いのない目線だった。つい身が逸れたそのときだった。

「俺のこと、好きなんじゃない?」

 驚いてまた顔を向けた。麻橋君は同じ表情だった。その変わらない瞳の奥が、急に大きく克明になった。

 触れたのは一秒もなかったと思う。麻橋君は少し身を引き、ちょっと止まって、元の位置に戻った。微かに目を伏せて、唇に指を置いた。

 私は、そんなふうに確かめることすらできなかった。ただ唖然として、やっと麻橋君がしているように手を動かした。いつもと違う湿度が残っている気がした。

 麻橋君は、唇に置いた指を浮かせた。その一瞬、視界がのけ反った。背中で傷みが弾けた。走る熱と裏腹に、胃で氷が融け出したような冷気が浸透していく。フローリングに押しつけらた両手首に、骨が軋むような重みがかかった。

「否定しないのは肯定なんでしょ。だったら問題ないんだよね」

 押しのけて跳ね起きようにも、力で負けていた。体内の冷気に吸い取られるみたいに、声が出てこない。もがいているのが、麻橋君にはまるで見えていないみたいだった。じっと私を、観察するように見ていた。お面みたいに動かない顔だった。

 数拍あって、麻橋君が眉を潜めた。小さく首を傾げたその一瞬、隙があった。ありったけの体力を、片足に込めた。変な声を漏らして、麻橋君はテーブルごと吹っ飛んだ。蓋が閉まっていなかったペットボトルから飛び出したジュースが、四方に散っていた。

 身をよじって立ち上がり、鞄を掴んだ。一気に視界がぐしゃぐしゃになった。袖で目元を拭い、鼻を啜り、一歩進んだ。そのときだった。

「待って。おかしいんだけど」

 おかしいのはそっちじゃない――。その言葉は、膝立ちの麻橋君の手が、お腹に押しつけられていたのを見て消え去った。残った手は、私の手首を掴んでいた。吐息混ざりの声で、俯きがちに肩を動かしていた。

 テーブルに積まれていたあの漫画が、お腹を押さえる手からぶら下がっていた。ちょっとジュースが散っていた。

 苦しそうに息をつく麻橋君を、どうしてか放置できなかった。自分でも意味がわからなかった。けど、麻橋君はそれで手を放してくれた。ぱらぱらとページが捲られていた。彼の表情がまったく見えなかったことが、私にはなにより不気味に思えた。

「ほら、ここ」

 見開きのページがこっちを向いた途端、なにか塊が喉を通過した。

あまり可愛くない、年齢のわからない顔の絵面の男女が、上に下にと絡み合っていた。

「好きだったらこれするんじゃないの」

 踵を返した。溢れる涙を懸命に拭い取りながら、靴に足を突っ込んだ。無防備について来てしまったことを、ひたすら後悔した。本の話をしたことも、好きな作家を紹介したことも、一緒に帰ったことも、卒業制作の判子にこだわりを持ったことさえ悔やんだ。全部間違えた。涙が止まらなかった。

「綾崎さん」

「来ないで!」

 叫ぶと同時に手が動いた。甲高い音が耳を突き抜けた。その音で一瞬冷静になった。漫画を持ったまま静止した麻橋君の斜め前に、いくつものなにかが散らばっていた。

 傘立てに佇んでいた天使は、いなくなっていた。麻橋君は、黙って破片を見ていた。私はその麻橋君を見て、自分の右手を見て、また麻橋君を見ていた。

 麻橋君は、つぶさに方向転換した。漫画を置いて自分の鞄を漁り、何度か見たことがある赤い手帳を取り出し、シャーペンの頭を押している。落ち着いたその動作に、言いようのない狂気染みたものを感じた。

 私はエレベーターではなく、階段を駆け下りた。


続くよ。

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