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それから何日か経った放課後、借りていた本と鞄を手に席を立ったときのことだった。一挙一動が注目を集める麻橋君は、その日は珍しく朝からずっと学校にいた。
「図書室行くの?」
本に貼っていた図書室のシールが見えたらしい。麻橋君が再び声をかけてきたことに、私はまたもや驚いていた。
返しに行くところだと告げると、麻橋君は私の手もとを覗き込んだ。私が持っていたのは、好きな作家のものだった。今度の新作刊行に備えて、前作を読み直していたのだ。
「それ面白かった?」
「え?」
「俺も読んでみようかなと思って。前にお薦めしてって言ったじゃん」
つい私は本に視線を落とした。美術の時間のエピソードは、もちろんずっと覚えていた。本の話ができたらいいな、とは思っていた。同時に、実行されないことと諦めていた。あのときは、麻橋君が場の空気を保たせてくれただけだろうと。周りをよく観察している彼だから、私が読書好きで休み時間を潰してしまっているのではなく、それしかすることがないからしているだけ、ということも知っているはずと一方的に片付けていた。
「本……読むの?」
はっきり言って動揺していた。確かに本は好きだけど、その話題が続くとは。私が返した一言に、麻橋君は首を傾げた。
「結構読むんだって。前の、キャラだと思ってた?」
「いや、そんなことは」
私が言い終わる前に、麻橋君は本のタイトルと作者名を口に出した。覚えた、と言ってはにかんだ。可愛い笑顔だった。何故か私は彼を視界から追い出していた。が、唇を引き結んだ。
頑張って前を向いた。あの麻橋君が、私の言葉が出てくるのを待ってくれているのだ。頑張れ桃香。やれるぞ桃香。
「結構面白かったよ。なんだったら、名簿に名前書いてくるけど」
うちの学校では、図書室で本を借りるときは、クラスごとの名簿に名前と本のタイトル、貸出日と返却日を書き込むようになっていた。
ところが麻橋君の反応は、遠慮の一言だった。勇気を振り絞ったのにあっさり撒かれ、私は少しショックを受けた。
「作者と名前覚えたから。俺んちの図書館になかったら借りるね」
一瞬意味を掴みあぐね、はっとした。麻橋君は生まれたときから施設育ちだという。彼がそういうところで暮らしているということは、有名になる前から学年のみんなが知っていた。
麻橋君は、クラスメイトたちに手を振っていた。今日はこれからお仕事でも行くのだろうか。
「ねえ綾崎さん、帰り道どっち?」
「え?」
不意の質問になにも返せないでいると、麻橋君は、自分の鞄から青いチェック柄の手帳を取り出した。テレビでも言っていたけど、麻橋君は、今どきの若年層のようにスマホを駆使しないらしい。スケジュールは手帳に書き込み、ゲームは携帯ゲーム機派で、SNSはやっていないとか。
「今日はこれから帰るだけなんだー。子どもってだけでいろいろ調整してくれるんだから、ほんっと得だよねー」
ぱたりと手帳を閉じ、麻橋君はまたはにかんだ。単純に、年齢の低さからくる恩恵を喜んでいるようだった。
「一緒に帰らない? 途中まででも」
「え……どうして? さっき一緒に帰ればよかったのに」
「俺と歩くの嫌?」
「じゃないけど、なんで私なのかなって」
「あー、それね」
青い手帳を鞄にしまうと、今度は赤い手帳が出てきた。さらさらっとなにか書かれ、すぐにまた鞄の中へ戻された。なにをメモしたのだろう。
麻橋君は肩に鞄をかけ直し、教室がまだざわめいているのを見渡してから、私に向き直った。楽しげな高いトーンで言った。
「同い年の友達って、なんか苦手なんだよね。いいときもあるけど、すごくうるさくってさ。でも綾崎さんは静かだし、本の話でもできたらいいかなって思って」
「や、でも」
「まだなにかある?」
「ふたりで歩いてたりしたら……あの……」
美術の時間でのこともあるし、そんなふうに構ってくれるのはすごく嬉しかった。でも臆病な私は、いちいち気にすることがあった。だって相手は麻橋君である。気にしないほうがどうかしている。
私の心配事を察したらしく、麻橋君は無邪気に笑った。ころころと音がしそうなくらいの、愛らしくて眩しい笑顔だった。
まだ続くよ。




