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お付き合いしてくれるの?
ありがとうございます。
中学3年生の2月の初週、私たちは美術の授業で判子を作っていた。専用の石に直接名前を彫っていくもので、実用性云々よりも卒業記念製作が意図だった。
そこかしこで様々な声が飛び交っていた。結構楽しい、難しい、ミスった、できた。それなりに没頭し、それなりに気を緩めていた私の耳に、自分の名前が飛び込んできたことに顔を上げたのが始まりだった。
「ねえ見てよ、綾崎さんのやつ。すっごいお洒落だよ!」
出席番号順に並んだ私の席の隣は、麻橋君だった。麻橋君はみんなに向けていた顔を戻し、心底感激したように私の手元を見つめていた。
麻橋君は芸能人だった。と言っても子役やアイドルの類ではなく、かつてとあるバラエティ番組が、一般の子どもをMCとして進める企画を起ち上げたのがきっかけだった。ほかにもデビューした子が何人かいるらしいけど、少なくとも私は、麻橋君以外の子がテレビに出ているのを見たことがなかった。
その麻橋君が同じ教室にいること自体不思議なのに、あろうことか私の名前を口にした。麻橋君は仕事の都合で欠席も多く、出席番号で隣り合っているのにほとんど話したこともなく、休み時間は休み時間でもちろん取り巻きが多いので、彼の目には私なんて見えていないのだと思っていた矢先のことだった。
麻橋君には、華奢な体躯と中性的な声、下の名前の読みに由縁する可愛い愛称があった。テレビでもそう呼ばれているので、クラスのみんなも、場合によっては先生も、私以外は気さくにそう呼んでいたように思う。私にはそう思えた。
「もっと見ていい?」
いきなり声をかけられて、私は戸惑っていた。でも私には、麻橋君へのはっきりとした憧れがあった。陰気で大人しく本ばかり読み、先生がいないと班活動さえままならない私と、日本中の誰もに愛され、ひとりのときがない人気者の麻橋君。その彼の目に私も入っていたことが、とてもこそばゆい思いだった。
判子を麻橋君に手渡すと、集まっていたクラスメイトたちが感嘆の息を漏らした。4文字の漢字の周りに、細かく花や葉っぱの模様が刻まれていたことに驚いたらしい。注目されたことがない私は、頭と胸の奥が同時にふわふわするような、でも決して悪い心地ではないその気持ちに、落ち着かず膝の上で手を丸くしていた。
「でも納得だよねー。綾崎さん、絵とか上手だし」
少しだけ顔を上げた。びっくりした。私はほんの少しだけ、みんなより綺麗に絵を描けるかもしれないということは思っていた。かもしれない、というのは、私より上手い子はこのクラスにも、ほかのクラスにもいることを知っているからだった。
せいぜい中の上止まりの私のことを、麻橋君が知っていたことが驚きだった。
「俺、こういうのってどうも苦手だな。なんか作るのって難しいよね。コツとかあるの?」
「え、あの」
判子を私に返しながら、麻橋君は無邪気に訊ねてきた。質問までされるとは思っていなかった私は、どもりながら答えた。
「お、思いついたままやってるだけだよ。その模様も、えっと、ちょっとスペースがあるなって思ったから」
「実践できるんだからすごいよ! 俺が上手くできないの、漢字の画数多いからかなーって思ってたけど、やっぱ違うよね。綾崎さんだって少なくはないし」
「……」
意外にも話が途切れないので、私は困っていた。麻橋君が話しかけてくれて、ほかのみんなも口々に褒めてくれているのは嬉しい。できれば話を弾ませたかった。でも、どうしたらいいのかわからなかった。
「綾崎さんって、いっぱい本読んでるよね。そういうお洒落なこと思いつくのも、やっぱり文学に触れてるからなのかな。もしよかったら、今度なにかお薦めしてよ」
知らず下がっていた視線が持ち上がった。せっかくの機会を無下にしたとばかり思っていた。麻橋君の目に、嘘や建前は含まれていなかった。麻橋君は、私が休み時間にずっと本を読んでいることも知っていた。
「俺も結構読書家なんだよ? 今日も何冊か借りたとこ」
悪戯っ子のように笑い、麻橋君は集まっている男子のひとりを示した。漫画じゃん、と別の男子が突っ込み、笑い声が連なった。女子も男子も、漫画なんて持ってくるなと注意しつつ、先生までも楽しそうにしていた。
あの番組企画から3年くらい経った今、麻橋君だけが前線で居続けられる理由が、少しわかった気がした。
続きます。