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春の少年

作者: 山野 海

とても短いので気軽に読んでいただけます。









春色の欠片が、世界を染めたのだと思った。




少年が桜を目にしたのは、それが最初で最後になった。

鮮やかで、華やかで、艶やかで、儚く脆いそれが、己と重なったのかもしれない。

大粒の雫を拭おうともせず、少年は桜並木の下、迎えの看護師が大慌てで迎えに来るまでの二時間、立ち尽くしていた。


ありふれた話だった。

生まれつき病弱だった少年は、悲しいことなのか運の悪いなのか両親に見放され、物心着く前に白い建物の中に閉じ込められた。

毎年クリスマスと誕生日に届く豪華なプレゼントと、チューブに繋がれ機械に支えられ命を繋ぎ止められるだけの何不自由ない暮らし。


少年は、退屈していた。


絶望というものも意味も知らず、己と同じような境遇の子等しか知らなかったため、神を呪うこともしなかった。




少年の世界はまるでデパートに売っている玩具の人形ハウスのようだった。


全ての人間は自分のようにベッドに繋がれる日々を過ごしている。

意識が薄れるような痺れと痛みに奥歯を噛み締めながら、一定になり続ける機械音に不快感を覚える。

殆どは流動食を口にし、たまの固形物に喜ぶ。

父と母の顔も知らず、母の体温も父の背中も見ず、愛情の色や形に疑問を持つことすらしない。



少年は、退屈だった。


少年は、白い建物を飛び出した。




それは本当は柔らかく大地を照らす薄橙の光だったけれど、ピリリ少年の肌を痛ませた。

少年は、建物から数十歩進んだところで足を止めた。


それは、なんの変哲もない桜並木だった。

十数本の桜が天に向かって鮮やかな色を咲かせている。

どうやら建物の敷地内のようで、花見の人らしき人どころか子供一人周りには見えなかった。

どちらにせよ、少年に桃色以外の色は見えなかったかもしれないが。


結局、少年はただ桜の下で涙を流しただけだった。

自分のことについて、ましてやほんとうの世界を知ったわけでもなかったが、溢れ出た涙を止める術を知らなかった。


連れ帰られた白い建物の中は少年にはひどく色褪せて見えた。

何度も外に出ようとしたが、一度された警戒を解くのは難しかった。


追い打ちをかけるように、少年の容態はみるみるうちに悪化した。

とうとう少年は、自分の力だけでは歩けないほどまで衰弱した。

少年は何度も間接的な死を目の当たりにしてきた。

何人も居なくなった子等を知っていたし、その子等がもう帰ってこないことも何となく子供心にわかっていた。


白い女の人が、


「◯◯君はお母さんお父さんの所に帰ったんだよ」


と浮かべる笑顔がどこか冷たかった。

子供は、そういうところにとても敏感だ。




自分も、そうなるのだろうと思った。

けれど不安はなかった。

痛みに慣れてしまった少年少女は、「死」というものに恐怖を持たない。

それどころか、安楽さえ覚えてしまうのかもしれない。


子等は決して、幸せを感じない。

知り得なくても、それは至極当然のように。





その日は土砂降りの雨だった。

ほんの数メートル先も見えないような、カーテンコール。

灰色の空はまるで鋼鉄の壁のよう。

壁越しでも雨が大地を穿つ音はよく聞こえていた。


少年は、何日ぶりかに落ち着いたようだった。

息を吸う音と吐く音、それに鳴り止まない雨の音が混ざってなんだか幻想的だった。




ふと、見やった窓の外に、少年は春を見た。


小さくも重い体を起き上がらせながら、少年はそれを目で追った。

腕に繋がれた管を無理やり抜き、覚束無い足取りで窓辺へと歩いた。

それは、見間違いだったのかもしれない。


けれど、少年は、体の芯から疼くような熱を感じていた。

あれよりも紅く、簡単には消えないような、炎。





偶然か、必然か。





閉まっているはずの、窓の鍵は空いていて。





少年は、走った。

打ち付けるような雨に、痛んだ肌なんて気にならなかった。

苦しくなる呼吸も、胸も、痺れる手足も、関係なかった。


辿り着いた春は、無残にも全て散らされて。


声にならないような嘆きがあった。

千切れてバラバラになった花びらが濁った水溜りに浮かんでいた。

それを何度も何度も大粒の雨が打ち付けた。


少年は、その場にへたりこんだ。

意志的なものではあって、けれど少年の脚が少年を支えられなくなっていたのも事実だった。

灰色に染まりかけた花びらを両手で何度も掻き集めたけれど、あの艶やかな春は戻らなかった。

儚さも無かった。

切なささえ感じられなかった。


ただ、悔しさが胸を抉った。

わからないけれど、少年はわかった。


濡れた頬から少しずつ色味が引いていく。

声にならない嘆きが雨音に掻き消されて消えてゆく。


もうあの日々は戻らない。

もうあの退屈は蘇らない。

もうあの白さに染まらない。


そうなるはずだった。

けれど、少年は初めてその胸を焦がした。

これまで願うことのなかった「もしも」だった。

あの、春を、もう一度。












そして、



少年は、



白になった。









ここまで読んでいただいてありがとうございました。

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