第3話
半月ほど経ったある日、光徳尼と真子、シンザの三人は二つ向こうの村にある寺に出向き、憑き物の正体を探るための文書を探った。肝心の憑き物については判らずじまいだったが、儀助が幼いころにその寺を訪れたことがあることを知らされ、また儀助の病を憐れんだ住職からわずかながらの心づけを受け取り、三人は帰途についた。
村まであと一里と近づいたときである。珍しくシンザが口を開き、光徳尼にきいてきた。
「仏さんの教えでは、この世での行いで次に生まれ変わるものが決まるそうですな。」
「そうですね。六道といって、この人間界の他にあと五つの世界があると言われております。」
民衆への説法でいつも語っていることであり光徳尼には当たり前のことであるが、シンザは世界という言葉ひとつにもなじみが無いので、すぐに黙ってしまった。しばらくの後、
「せめて、何に生まれ変わるかは今の自分が選べないものでしょうか。」
と、いつになく神妙な顔できいてくるシンザをみて、光徳尼は笑いを抑えるのに苦労した。
「み仏がお決めになること、いえ、み仏でも輪廻の全てをお決めになるわけでもないのですよ、私たちの来世は…いったい、シンザ殿は何になりたいと願ってらっしゃるのです。」
彼女の言葉にしばし考え込むそぶりをみせていたシンザだが、道端に眼をやったと思うと急に足を止めた。光徳尼がシンザの視線の先を追うと、そこには一里塚とほぼ同じぐらいの丈の石仏があった。かなり古いものとみえ、鼻や口元は既に風雨がほとんどを削り落とし、足元には苔が一面に生していた。しかし、近くの村か、または街道の旅人のものと思しき団子や握り飯が供えられていた。首にはよだれかけが三枚ほどかけられていたが、そのうちの一枚は日に灼けて色褪せ、風に飛ばされる寸前までほころびていた。
「地蔵菩薩様…お地蔵様ですね。六道を自由に行き来し、いかなる人にも救いを差し伸べる御心をもった菩薩様です。」
光徳尼の言葉は、しかし、シンザの耳には入っていないようだった。その凝視の意味を量りかねた彼女はおずおずと声をかけた。
「まさか、シンザ殿は皆を救う菩薩になりたいという大願が…」
「えっ、えぇ、いや、そんなたいそうなもんでは無くて…このお地蔵さんを見てたら、どう言えば…、あのぉ、ここでみんなを見守っているのもいいなぁと、ふと考えただけで…」
いつも以上に口ごもるシンザの声はどんどんか弱くなり、今にも風に吹き流されそうだった。その横顔をかいまみた光徳尼は、笑ってはいけない、と自分に言い聞かせつつも口元が緩んできそうになるのを感じた。すると今度は彼女の隣からくすくすと転がるような笑い声が聞こえてきた。見れば、真子が嬉しそうな顔をしながら彼女のほうを見上げているのだった。
「これ、真子。何じゃ、私の顔を見て笑うとは。」
「だって、お顔が今にも笑いそうなのにこらえているんだもん。」
笑いを抑えようともせず真子だったが、さらに口を広げてニッと顔を崩し、なんかすごく久しぶりなんだもん、とひとりごちた。それを聞いた光徳尼は思わず小さく息を飲んだ。儀助の治療にかまけてほとんど真子のために時間を割いてやることが出来なくなっていたこと、それに、この頃ではシンザが持って帰る食材が何か、瞳を輝かせて待っていることを思い出していた。彼女の口元からは笑みが去り、いつのまにか眉根が寄っていた。
しかし、今度はシンザの顔色が変わる番だった。光徳尼たちの五歩ほど先を歩いていた彼が足を再び止めたが、その背中にただならぬ気配を感じた光徳尼と真子が立ち止まり、さらにその先を見て数歩後ずさりした。シンザの視線の先には以前茶屋で彼らを襲った一団の中にいた素浪人が、柄に手を伸ばす寸前の体勢で待ち構えていたのである。
「通してはくれぬのか。」
シンザの声がいつもよりも低くなった。素浪人は半歩ほどシンザに近づいて言った。
「拙者にも都合がござる。ぬしらをそのままにしては手に入るものも手に」
「雇い主から金子が出ないと言うのであろう。」
シンザの声があいかわらず低く、しわがれる寸前まで抑えられているにもかかわらず、突き刺さらんばかりの鋭さで相手に飛んでいった。素浪人は柄に手をかけた。
「ぬしの腕はここで切り捨てるには惜しい…拙者、備前藩剣術指南役、」
「よいわ。ききたくもない。腕自慢は他でやれば良いものを…なぜわしのような無勝手流に挑むのか、見当もつかぬわい。」
すでに相手は太刀を抜き、シンザにその切っ先を向けていた。西日が鎬を照らしたが、陽の光さえも吸い取ってしまうかのように刃先は鈍く濁ったままだった。シンザはその場に荷をそっと下ろすと、錫杖を左の脇にかかえるような構えのままゆっくりと相手に歩み寄っていった。
はあっ、と深い息を吐くと同時に素浪人の体が一気に前に出た。腰の高さに構えた太刀を左右に二度ほど払うが、いずれもシンザは半歩ほどの間合いで躱していた。錫杖はあいかわらず左の脇にあり、右足と右手を前に出した構えでジワリと間を詰めるシンザに対し、素浪人は幼子を抱き抱えるよりも緩やかな動きで徐々に構えを変えていく。柄を額の高さまで上げたと思えば、半歩動くまでに切っ先を地面に着く寸前まで下ろし、地団太を踏むかのごとく腰を落としたかと思えば数歩前に出る際には木立を思わせる不動の構えに変化した。どの一瞬を切り取っても無駄が見当たらず、シンザの動きに応じつつも引き込まれることはなく、しかも常にすさまじい殺気をみなぎらせていたのである。
シンザが前に出た。構えはそのままだったが、光徳尼がついアアッと声を上げそうになるくらい、はた目からは気迫の感じられない、無防備とも思える姿だった。相手はわずかににじり出たかに見えた次の瞬間、一足飛びにシンザめがけて突進してきた。かあっという鳥のような声が響いたかと思うと太刀が大上段から振り下ろされた。背筋が冷たくなるほどの剣風が、離れて見ている光徳尼にも届かんばかりだった。シンザはその禍々しい太刀筋からわずか二寸ほど右に躱しており、その右手は既に相手の襟首に届かんとしていた。錫杖から手をはなすとまるで計ったように相手の膝に落ち、素浪人は、うぬ、という呻きを上げる間もなく襟首をつかんだシンザの体の伸び上がりに負けて宙を舞った。シンザは相手に体を預けながら投げ飛ばしたため、素浪人は首を右に傾けたまま、ほぼこめかみ辺りから地面に叩きつけられた。シンザはむくりと起き上ったが、相手は大の字に伸びたまま動かなかった。
「な…ぜ、使わん、のだ…」
素浪人は苦しい息の下、絞り出すように言った。
「その、杖は、太刀を…う、受けら、は、はずで、あ…ろう、がぁ…」
シンザは先ほどと変わらない声で、まるで鉄槌を打ち下ろすがごとくに言い放った。
「こいつはな、つまらんことに使うわけにはいかんのだ。他にちゃんとした使い途がある。」
その言葉に「な…つ、つま…」と驚愕の色を見せていた素浪人だが、やがて息が続かなくなり、黙り込んだ。眼が裏返っていた。
「急ぎましょう。こいつの連れがいるとまずい。」
シンザの声に我に返った光徳尼だが、彼の右腕に浅いながらも切り傷があることに気づき、急いで手元の布で傷口をしばった。シンザはその間じっとしていたが、ときおり真子のほうを向いては、怖くはなかったか、そうか、よく我慢したな、さすが良い師匠をもった弟子は違う、などと本気とも軽口とも取れることばかり話していた。光徳尼はシンザの腕に、いくつもの似たような傷があることに気付き、「あの、これは…」と思わず声を漏らした。
「え、ああ、これですか…そのぉ、なんせ同じ構えしかできないもんで、いっつも似たようなところを切られてしまうのでな。相手によっていろいろ変えられたら、もっといいんでしょうが…」
シンザは恥ずかしそうに、いつもの消え入りそうな声で言うのだった。
権治の話では氏野の源左衛門との件は仲裁のおかげもあり、儀助に何の非も無いことが認められた上に、無頼者たちをけしかけたことがお上の耳に入りそうだとのことで、今では向こうはすっかり大人しくなっているという。不安の種が消えてくれたおかげで光徳尼の顔にもいくぶん光が戻ったが、儀助の治療はなかなか進まなかった。今では体調の良い日はうっすらと意識を取り戻し、光徳尼やシンザの存在も分かるようになったが、かと思うと数日後にはふたたび危篤になるという具合である。処方する中で効き目が確かめられるのは解熱薬ぐらいなもので、鍼や灸は気休め程度であった。それでも鍼で肩や腿のこわばりは少しずつ軽くなっているようだし、残暑の厳しい日の夕暮れ時に灸をすえられた儀助は艾の香りに眼を細め、その後でシンザが淹れる柿の葉の茶を楽しみにしているようであった。なにより、どれだけ熱がある日でも夕餉だけは摂るようになり、それがシンザの採ってきた鱒やキノコ、栗であったりするとわずかだが笑みを浮かべた。その顔を見たシンザも「おお、これは儀助どのの好物であったか。ならば、次はもっと採ってきますぞ。」などと相好を崩し、権治やお種もつられて笑うのであった。それまで粥しか受け付けなかった儀助の食欲が少しずつ戻るのを見た権治がある時シンザに、坊ちゃんの体に良いものがお分かりで、とたずねたことがあったが、その時も「なに、この里は豊かでうまいものがあふれておるから、どんな病人だってなにか口に出来るものは見つかるわい。」と、こともないかのように言い切ったのである。
(つづく)