名前のない男
アスファルトで目玉焼きが軽々と作れそうな真夏の午後。
一匹の茶色のネコが暑さをしのげそうな場所を求めて、ヨタヨタと日陰を選びながら歩いていた。
場所取りに失敗したのだろうか。
その顔は血で赤く染まり、前足は一本の指の半分がなかった。
ネコが歩く度に、赤いインクを垂らしたような点がアスファルトについていく。
ネコはやがて二階建ての小さな家に目を付けた。
門の中の気配を伺ったが、家の中に人がいる気配はなかった。
大丈夫だろうと思いつつ、恐る恐る門の隙間から庭に入ると、すぐ目の前に大きな桜の木が立っていた。
木の真下に立つと、幾重にも繁った葉が太陽の痛い光を遮ってくれて、驚く程涼しく感じられた。
助かった。
もしも人間が帰って来たら、逃げればいい。
ネコは念のために辺りを見渡すと、木の下に座って前足を舐め始めた。
だが、すぐに何かを察して立ち上がると、ネコは首を目一杯伸ばして上を見た。
何かが木の上にいる。
何だ?
その時、強い風が吹いて枝を大きく揺らした。
葉と葉の隙間から、何かが一瞬見えた。
枝の一番上にいるのは人間の格好をした男だった。
ネコは木から離れて家の塀が作り出す日陰に逃げ込むと、目を細めてじっと上を見た。
人間の格好をした男は、男のいる枝のすぐ近くにある窓から部屋の中を見つめていた。
ネコは男を観察していたが、やがて立ち上がると木の真下に戻って行った。
『あれ』は大丈夫だ。
自分に危害を加えたりしないだろう。
何者かは分からないが、人間ではない事だけは確かだった。
銀色の長い髪をした背の高いその男が、眉間にシワを寄せながら見ている視線の先には一人の少女がいた。
男の曇った瞳とは裏腹に、男の髪は太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
視線の先にいる少女は、井上柚雨といった。
都立の高校に通う17才だった。
柚雨は父親のいない家の中で一人、このクソ暑い中冷房も付けずに大量の汗をかきながら、ポツンと自分の部屋のカーペットの上に座り込んでいた。
柚雨の着ている白いTシャツは、汗で絞れそうな程濡れていた。
ジーンズは分からないが、どうせ大量の汗を吸い込んでいるのだろう。
冷房をちらりと見ると、小さな黒い点が内部に見えた。
目を凝らしてよく見てみると、冷房本体の中の一部が黒く澱んでいるのがハッキリ分かった。
どうやら、冷房を『使わない』訳ではなく、『使えない』らしい。
男には魂無き無機物ならば黒く澱み、魂を持つ生き物ならば異常のある場所が赤く見えた。
もしも僕が普通の人間ならば、この能力を使って商売に出来たかもしれないな。
そんな事を考えて、男はフッと鼻で笑った。
実際には見たくないモノまで見えるという事に良い事等、一つもなかった。
柚雨の手には、青いハガキの束が乗っていた。
瞬きもせずに天井を見つめるその両目から、涙が流れているような気がしたが、気のせいかもしれない。
何しろ、汗か涙かの区別等つけようがないのだから。
柚雨の部屋の網戸に張り付いて鳴き続けるうるさいセミが、突然鳴き止んだ。
柚雨の視線が揺らぎ、柚雨はゆっくりと網戸を見た。
窓のすぐ側にいる男には目もくれず、柚雨はセミを見て少しだけ顔をしかめた。
男はそれを、空の碧さを凝縮して造らせた宝石のような瞳でじっと見ていた。
男が望まない限り、柚雨には、男の姿や声は聴こえない。
それが分かっていたから、男はわざと大きな溜め息を吐いた。
感情があの少年の方に傾き過ぎているのだろうか。
柚雨に対して、どうにも面白くない感情を抱いている自分がいた。
現実に涙を流すだけ。
自分では何もしない。
こんな奴のために、誰かが犠牲を払う理由があるのか。
何度となく考えても、どうしても納得がいかなかった。
網戸の上へ上へと登っていたセミがジジッと鳴いて飛びたった。
男が少年と出会ったのは、小さな病院の屋上だった。
少しでも患者達の気晴らしになるようにという気配りからか、屋上には病院にそぐわない大きなテーブルがいくつもあり、フェンスに沿って色とりどりの花が植えられていた。
思い思いにそこここで患者達や見舞い客が話にも花を咲かせる中、その少年だけは暗い顔で一人、フェンスの網目からただじっと地上を見ていた。
『彼ら』は高い所を好んだ。
高い場所から地上を見下ろす。
還りたい、還りたいと思いながら。
自然とその時を迎えられる者もいれば、還りたいと願う気持ちに精一杯抵抗する者も在った。
在るべき場所に在るざるべき者がいると、歪な空間の歪みが産まれる。
男は、またか、と思いながら、少し離れたベンチに腰掛けて少年を見ていた。
少年が自分の姿を見る事が出来たら、少年は第一段階の条件をクリアした事になる。
果たしてどうなる事か。
男は地上を見続ける少年を見続けた。
やがて小雨が降り出した。
患者や見舞い客は大袈裟な叫び声を上げながら、病室へと戻って行った。
少年は身動き一つしなかったが、雨足が強くなり、誰もいなくなった屋上のコンクリートを雨が強く叩き始めると、不思議そうな顔をしてコンクリートを見た。
黒く大きな眼が真ん丸になっていた。
10才位だろうか。
背は大きいが、とても細かった。
短い髪は、どこかバラバラに見えた。
ハッキリとは言えないが、何か違和感を感じた。
一際大きな音を立てながら、雨粒がベンチの屋根に当たって跳ね返った。
少年は音のする方を見て、ベンチに腰掛ける男に気が付いた。
キョトンとしたその表情と身体は、アンバランスに見えた。
少年特有の身体に幼い子供の顔。
気付けば、男も少年を見つめ返していた。
間違いなく少年には男の姿が見えていた。
少年は周りをキョロキョロと見渡して周りに誰もいない事を確認すると、ニッコリと笑って男に微笑んで言った。
「こういう時は、こんにちはって言うんだ。そうでしょう?」
その表情があまりに無邪気だったので、男もつられて笑った。
笑ったのは何十年ぶりだろう?
「うん、間違ってはいないけど、今はまだ10時だから…おはよう、の方が合ってるかな。」
男がそう言うと、少年はただでさえ大きな目をもっと丸くした。
「そうなの?う~ん。難しいんだなぁ。」
そう言いながら、嬉しくてたまらないというように笑った。
「君はずっとここにいるの?」
男が聞くと、少年の表情が曇った。
『彼ら』は質問される事を好まない。
ただでさえ曖昧な記憶の中には、忘れている方が気持ちが穏やかでいられるからだ。
質問は『彼ら』の中にある思い出したくない事まで掘り起こしてしまう。
正面から物事を見るだけではなく、横や真上からも見れるようにならなければ、還りたいという衝動に抗って残り続ける意味などないのに、『彼ら』はそれを嫌がった。
そうしなければ、本当の意味で救われはしないのに。
何て不完全な生き物なんだろう。
まるで僕のようだ。
男は黙って少年の答えを待っていた。
『彼ら』は大抵、嫌な質問をされると答えようとはしない。
その場から消えてしまうか、はぐらかそうとするか、はたまた怒り出すか。
色々ではあったが、共通しているのはその際に瞳の色が光る事だった。
『彼ら』は自分の感情に嘘が吐けない。
本来ならば自分を偽る必要のない世界にいるべきである『彼ら』は、嘘を吐く度に自分の体の中に、鉛のような重い塊が落ちていく。
溜まり続けた嘘の重みは、強制的に魂を大地へと沈めた。
在るべき所へ還ろうとする魂に抗って残り続けるということは、それだけで罪を犯している事と等しかった。
決められた規則に違反するだけでなく、嘘を重ねるような者に与えられる慈悲などなかった。
地球上のあらゆるモノ達には、産まれ出る前から細かな未来が決められていた。
『あいつら』は人間が大嫌いだった。
傲慢で慈しむ事の意味を履き違えているような、愚かで生意気な生き物だと思っているからだ。
それでも仕事と割り切り、人間達の未来を計算しては命を産み出してきた。
生を終える毎に、人間は魂の選別を受け、未来はまた作られていった。
生を終えても残るという事は、その規則に従わないという事になる。
緻密に計算して生き物を産み出す『あいつら』にとって、それはとても腹立だしい事だった。
「分からない。ずっとかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
少年が言った。
瞳は黒い色のままだった。
「覚えていないの?」
驚きを隠す事が出来ないまま、男は聞いた。
「うん。」
少年は申し訳なさそうに言った。
「ここにいる前の事を思い出そうとするんだけど、どうしても思い出せないんだ。」
「じゃあ、君はなぜここにいるのかも分からないの?」
少年は責められているように感じたのだろう。
ごめんなさい、と小さく呟くと下を向いた。
「責めてる訳じゃないんだよ。ただ、何かないかなぁと思ってね。やり残した事がある、とか、会いたい人がいる、とか、何かは残っていないかなと思ってね。」
「…会いたい…?」
少年が顔をあげかけた。
「…会いたい…。あぁ…あぁ、そうだ。僕は会いに来たんだ。」
少年の声が見る見る内に明るくなっていった。
「…そうだ…僕は…会いたいんだ。」
そう言って顔を上げると、少年の目には今にも溢れそうな涙が浮かんでいた。
嫌な瞬間だ。
生を奪う程の、なんらかの絶望を感じた事のある子供を、僕はそう遠くない未来でまた同じ目に合わせるのだから。
けれど、多くの矛盾を抱えながら、そうし続けなければあの子を探し出せない。
こんなやり方は間違っている。
それを知りながら、自分の望みが捨てきれない僕は、なんて愚かなんだろう。
「…君の名前は?」
男がそう聞くと、少年は少し考えて言った。
「アリマ。アリマだよ。」
「アリマ?それは名字かい?」
「分かんない。覚えてないんだ。でも、アリマだよ。貴方は?名前はあるの?」
「いや、ないよ。人間は個を尊重するために名前をつけるみたいだけどね。僕に名前はない。呼ぶ人もいないしね。」
少年は笑った。
「じゃあ、『神様』だ。『神様』って呼んでいい?」
少年の無邪気な顔を見て、男は、自分の体の中にも鉛が落ちてくるような重みを感じた。
「…僕は神様なんかじゃないよ。神様みたいな魔法は使えないからね。」
すると、少年は男の近くに来て言った。
「だけど、僕を見付けてくれた。誰にも声を掛けられないのが当たり前なのかと思ってたんだ。貴方が僕を見付けてくれた。これって、凄く嬉しい事だね。」
男は笑えなかった。
屈託のない笑顔が愛しく見えた。
『今』はそう言ってくれていても、今までの『彼ら』のように、いつか自分に敵意を向ける日が来るだろう。
それが怖かった。
お読み下さり、ありがとうございました!!
第三部です。
『題名のない物語』という童話に、今回の『神様』と呼ばれる男が少しだけ出てきます。
よろしかったら、そちらもお読み下さいませ♪
一人でも多くの方に、小説を読んで貰えますように!
ありがとうございました♪