井上柚雨(いのうえゆう)
酷く気持ちが悪い。
お腹に手を入れられて胃を直接掴まれているような、痛みを伴うとても嫌な感覚もあった。
八月、真夏のうだるような暑い午後。
井上柚雨は、冷房の壊れた自分の部屋で大量の汗をかきながら、一人、白い天井を見続けていた。
網戸に張りついているのであろうセミのうるさい声を聞きながら、何をするでもなく、ただベッドに寄り掛かって、天井にある小さな染みを見ていた。
六畳しかないこの部屋には、良い思い出など一つも残っていない。
物心がついた頃には、柚雨の心は既にぐちゃぐちゃに引っ掻き回され、修復など不可能になっていた。
カーペットと接地しているジーンズの尻部分が、重心を少し右にずらしただけで、汗と籠った熱のせいでネチャッと嫌な音を出した。
汗に濡れて首にまとわりつく髪の毛も、下着の隙間に流れ込む汗も、多少は不快であったが、同時に生きている実感を無性に感じさせた。
あの頃、私は私で在りながら私でなかった。
何者でもなかった。
ただ暇をもて余すだけの、都合の良い玩具だった。
心なんて臓器は存在しない。
それを理解しながら、それまで毎日のように身体と心はズタズタに引き裂かれた。
存在しない臓器からの出血を、嫌という程リアルに感じさせられた。
目には見えない痛みを理解しながら、見えない傷口に絆創膏を貼る事など出来る訳もなく、痛みも傷もただ蓄積し、治る事なく新しい傷口が増えていく。
そんな毎日だった。
いっそ死んでしまおうか。
何度となく考えながら、それなのにどうしてもそれが出来なかった。
死ぬのが怖い訳ではなかった。
生在るモノは、必ず死という終わりを迎える。
それは当たり前の事であり、命を与えられた以上は従わなくてはならない。
死とは、在るべき場所へ還るだけ。
肉体の終わりだという事だけ。
柚雨はそう考えていた。
なのに、なぜ。
泣きながら何度も小さな包丁を自分の首に押し付けた。
これで終われると、これでいいんだと握りしめた手に力をいれた。
その度に裕貴の顔が頭に浮かんできた。
笑うと、右側にだけ出るエクポ。
それが見たくて、わざと何度も言った。
「男のくせになんでエクボあるかなぁ。生意気だなぁ。」
裕貴は必ず鼻で軽く笑って「そんな羨ましがるなよ。でも、い~だろ。」と笑って柚雨の頭をポンポンと叩いた。
身体も心ももうとっくにバラバラなのに、死んでしまったら終わりに出来るのに。
それをしてしまったら、貴方にもう二度と会えない。
ただそれが悲しい。
私のいるこの場所はとっくにもう汚れた酷い場所なのに、貴方の存在が、私に死を許さない。
貴方はもういないのに。
裕貴のエクボが頭に浮かんだ。
それだけで充分だった。
瞬きをするほんの一瞬に込み上げた熱い涙が、柚雨の顔へ流れ落ちていく。
今は我慢しなくていい。
どうせ汗なのか涙なのか、見分けなどつかないのだから。
どんなに年月が経っても裕貴の事から離れられない柚雨と、梨華は違った。
現実に向き合わなくてどうするの、と、何度も梨華は柚雨に言った。
痛みを伴っても、そこからまた始めなくちゃ、と。
梨華は柚雨とは正反対のタイプだった。
性格は明るく社交的で、悪びれずに厳しい事も口にするが、決して裏がない。
真っ直ぐで、嫌な事は嫌だとハッキリ言いながら、悪口を口にする事もなかった。
柚雨はそこが好きだった。
口調もぶっきらぼうなのに、梨華の言葉にはなぜかいつも優しさが漂っている。
梨華の言葉に柚雨が黙ってしまうと、梨華は必ず目を細めて柚雨を見つめた。
梨華は、相手を心配している時に目を細める癖があった。
その癖を知らずによく周りから誤解されたりもするが、柚雨はその癖も好きだった。
心配そうに柚雨を見る梨華に、笑って「そうだね。」と言いながら、柚雨の頭の中に裕貴の最後の言葉と表情が、何度も動画のように再生された。
頭の中にもカメラ機能があったらいいのに。
そうすれば、完全な形であの日の事も記録出来ただろう。
クラスの中の男子の中でも特に低くて少し掠れた声。
もう一度聞けるなら、私は何だってするのに。
「柚雨、いつまでも引きずっちゃダメなんだよ。」
柚雨の心を見透かすように、梨華はわざとらしくゆっくり言った。
何も言わずに梨華に頷いて見せながら、柚雨もわざとらしく鼻唄を歌い出した。
あの日の事がとても昔の事のように感じられた。
あの日、梨華は帰宅途中で別れるまであの目を止めなかったっけ。
いつものように「バイバイ、また明日ね。」と言って背を向けて歩き出したが、視線を感じて立ち止まり振り返ると、梨華はまだ柚雨を見続けていた。
「…帰らないの?どうしたの?」
そう言うと、梨華はなぜか寂しそうに笑って何も言わずに手を振り、背中を向けて帰ろうとした。
だがすぐに立ち止まると、振り返り、柚雨ではなくアスファルトを見ながら言った。
「手紙は…まだ来るの?」
手紙という言葉を聞いたとたん、柚雨の体の中の血液が音をたてるかのように勢いよく流れ始めた。
心臓の音を聞かれてしまうのではないかと思う位、心音が大きくなる。
「…あ~…。手紙は…手紙は、もう来ないよ。やっぱり私の勘違いだったんだね。こないだは変な事言ってごめんね。」
精一杯の元気な声を出したつもりだったのに、柚雨の口からでたのはひっくり返ってなんとも情けない弱々しい声だった。
梨華は黙ってアスファルトを見続けていた。
柚雨は梨華が顔を上げる前に、小さく「バイバイ。」と言うと、小走りにそこを離れた。
半年前の大雪の日に、柚雨の父親が事故に合った。
父親の歩いていた横断歩道に、スリップしたトラックが突っ込んできて、父親と六人をまるでボーリングのピンのように撥ね飛ばした。
三人が亡くなった。
内一人は、小学生の男の子だった。
父親が事故に合ったと聞かされたのは、学校の昼休みの事だった。
事故に合った父親が、意識不明の重体だと。
しっかりしろ、俺がついているからなと喚く担任に頷きもせず、柚雨の心に沸々とどす黒い感情が沸きだしてきた。
「こんな事で死ぬなんて許さない。
もし本当に死ぬのなら、私がとどめを刺してやる。」
感情を抑えきれずに、柚雨の口から言葉がひとりでに飛び出した。
だが、弱っている生徒を支える教師に酔っていた担任には、柚雨の言葉など耳に入らなかった。
柚雨は父親と二人暮らしをしていた。
母親は、柚雨が幼い頃に家を出たきりだ。
理由は知らない。
なぜ母親がいないのか、聞いてみようとも思わなかった。
親戚の父方の叔母が、父親の意識が戻るまで一緒に暮らそうと声を掛けてくれたが、柚雨はそれを断った。
「私はもう17だから、自分の事は自分で出来ます、大丈夫です。」、と言うと、叔母はホッとしたような顔で、「困った事があったら言ってね。」と言い、そそくさと病院を後にした。
そして、それが始まった。
父親のいない家で迎えた最初の日の朝、目を覚ました柚雨は、伸びをしながら自分の部屋の中を見渡して、違和感を覚えた。
もう一度、部屋をゆっくり見渡して、机の上で視線が止まった。
机の上に、何かが乗っていた。
静寂が痛い位の時間の中、柚雨はゆっくりベッドから起き上がると、机の方へ恐る恐る近付いていった。
机の上には、一枚の青いハガキが乗っていた。
そして、字を覚えたてのような汚い大きな字でこう書かれていた。
「がんばってください。ぼくもがんばります。」
裏返すと、そこには何も書かれていなかった。
一体、いつからここにあった?
昨日の夜、寝る前に少しここで勉強したけれど、こんなものはなかった。
鞄に偶然入っていたのがたまたま落ちて机の上に?
そんなはずはない。
鞄の中からノートを出した時だって、こんなものは入ってなかった。
いつ?
誰が?
背中を冷たいものが流れて行く。
反射的にハガキを丸めてゴミ箱に捨てようとして、柚雨の頭に何かが引っ掛かった。
早鐘を打つかのような心臓を片手で抑えながら、柚雨はもう一度ハガキを見た。
何てバカな考えなの。
私はそこまで愚かなの。
そう思いながら、柚雨は頭に浮かんだ思い付きから離れられなくなった。
少しだけ右に上がる文字の書き方。
『す』の中の丸が横に伸びる癖。
決して上手とは言えない汚い字。
書かれた文字には見覚えがあった。
有馬裕貴。
白黒の私の人生に、初めて色をつけてくれた大切な人。
そのハガキはその日だけでなく、それから毎朝、どんなに戸締まりをチェックしても必ず柚雨の部屋の机の上に置かれるようになった
。
二話目です。
序章とは違う人物が出てきます。
ここからどう絡んでくるのか、よろしければ次回もお付き合い下さいませ♪
お読み頂き、ありがとうございました!!