第4話 翻弄
「……ごめん」
大島君はそう言うと、うなだれた。
その姿は反省を通り越して、意気消沈して哀しげに見えたから。
「私こそ、言い方きつくてごめんなさい」
と謝った。
「いや、先に迷惑かけたの俺だし」
何故か泣き出しそうな顔で言われた。
「大島君?」
「……二十歳になるまで酒は控える。それで許してくれる?」
その姿は、耳を垂れ鼻を鳴らし、しょんぼり淋しそうな子犬のように見えたから。
「うん」
と頷いた。
すると彼の表情は和らいだ。
「良かった」
本当に嬉しそうに、幸せそうに言われたから、思わずつられて笑ってしまった。
大島君は、黒々とした瞳でじっと私を見つめた。
「え?」
「……杉村、これから帰るだろ? 良かったら一緒に帰らない?」
「…………」
今日はバイトの予定だ。
「あ、もしかして都合悪い?」
言われて頷いた。
「ごめんなさい」
「いや、謝らないで。俺も不躾っていうか、いきなりだから。断られても仕方ない。昨日の今日だし」
あれ、と思う。
「あの、そうじゃなくて」
慌てて言った。
「別に嫌だからとかそういうのじゃないの」
「え?」
大島君はポカンとした。
「ただ今日は用事があるから」
「そうなんだ?」
「うん。だから、ごめんなさい」
「なら、良いけど、途中まで一緒に行って良い? バス乗るんでしょ?」
「うん」
「俺、車が近くの駐車場にあるんだ。良かったら近くまで送るよ」
「……え?」
驚いた。
「なんで?」
聞いたら、困った顔をした。
「……俺がそうしたいから」
ボソリと言う。なんだか意味ありげに聞こえて焦ってしまう。
「高卒なのに、免許持ってるんだ」
とりあえず聞かなかった事にして、スルーする。
対応に困るから。
そんな私に、彼は屈託なく微笑み答える。
「うん。最初から就職するつもりだったし。夏休み中に教習所通って。どんな仕事就くにしても自動車免許は必要だし」
なるほど、と思う。
私は免許を持っていない。家を出るだけで精一杯で、余裕なかったから。
「やっぱり持ってた方が良いのかしら」
「外回りはともかく、内勤なら無くても問題ないだろ。それに会社側もちゃんと判って採用してるんだから、心配要らないよ」
「ああ、そうか」
私が頷くと、大島君はクスクスと笑った。
「え、何?」
「黙ってると大人っぽくてミステリアスなんだけど、喋ると結構子供っぽいっていうか、可愛いよな」
褒められているようには聞こえない。
「じゃ、とりあえず車回して来るから、待ってて」
そう言って、返事も聞かずに行ってしまった。
結構強引? そう言えば、電話の時から既にそうだけど。
だけど、意外と良い人なのかも知れない。
あれ? そういえば彼って、四歳年下じゃなかったっけ。
まぁ、でも同期だし敬語って使い難いか。
ため息をついた。
以前付き合っていた彼の事を思い出す。
同じ大学の一年上の先輩だった。
ありがちと言えばありがちだけど、別れた原因は彼の浮気。
相手の女の子が妊娠したと言って別れ話になったのだけど、実は妊娠していなかったらしい。
その後どうなったかは知らない。
友達は「確信犯だよね」って言ったけど、確信犯の本来の意味は、本人はそれが正しいと思っているが、社会的にみれば犯罪になる行為の事だ。
裏に意図や思惑があって言動の事を確信犯というのは誤用だ。
もっとも、言葉の意味は、流行や使う人次第で流動的に変化するので、もしかしたら百年後には誤用の方が正しく一般的な用法になっている可能性もある。
言葉というのは、それくらい不確定で変化しやすい。とりわけ日本語は曖昧で判り難い。
正しい日本語を話したとしても、通じない事もある。
伝えたい事が上手く相手に伝わらない事もある。
それは良くあることだ。
仕方ない。
しばしば、付き合った男性に「思っていたのと違った」と言われる。
時折「騙された」とまで言われる事もある。
そう言われる度に、困惑する。
私は騙したつもりはないからだ。
秘密主義、と言われる事もある。
別に隠してるわけじゃない。
でも話さないなら同じだと言われたら仕方ない。
だけど例えば、父親がアルコール依存症だとか酒乱だとかいう事は、私と私の家族だけが知っていれば良い事だ。
他の誰にも関係ない。
私は別に自分を不幸だとは思っていない。
私はどちらかと言えば根暗な方だと思う。
無愛想だし、口数はそれほど多い方じゃない。
親しくなれば、それが変わるんじゃないかと期待されるようだけど、私はこれが地なのだ。
テンション低くて暗くて地味なつまらない性格で申し訳ないとは思うけど。
私に比べたら、一歳下の妹の方が美人だし可愛いし、スタイルも性格も良い。
過去に実際、付き合っていた恋人が、妹を好きになって別れた事もある。
ただ、私の妹は、少々我儘でエキセントリックなところのある女の子で、見かけによらず腕力もある。
彼女のアッパーをまともに食らって立っていられた人を、私はこれまで見た事がない。
彼女の握力は六十くらいある。
百二十センチ四方のガラステーブルを、片手で持ち上げて投げつける事ができる。
毎朝、腹筋背筋スクットを百セットと、ジョギング20kmをこなしている。
エクササイズに始めたボクシングにハマりつつある彼女は、英文科の学生だ。
見た目だけなら、モデルか女優。
ただし残念ながら、口が悪い。口調は乱暴ではないけど、内容は辛辣・毒舌。
シニカルでクールで熱くて真面目で繊細。
わりと面倒見は良く、恋人には尽くすタイプでもある。
私の友人が、私達姉妹について「姉のような妹、妹のような姉」と評した事がある。
妹に教えると「まさにそうなのよね」とキッパリ言われた。
だけど私自身は、妹を守るのは私の役目だと思っている。
打たれ強くしぶといのは私で、打たれ弱くて泣き虫なのは妹だと知っているから。
私と妹は、昔から互いに相手の足りないところを補いながら生きてきた。
この世でただ一人、妹だけはコミュニケーションするのに言葉や会話をあまり必要としない。
一言二言いえば通じてしまったり、互いの表情だけで判ってしまったりするから。
逆に言葉を使って会話しようとする方が難しい。
だから、メールはとても簡潔だ。
妹からのメールが入った。
『今晩中飲み。明日弁当よろしく』
意味は今晩は一晩中飲み明かすので帰らない。明日の朝は帰宅するので弁当を用意して欲しい、だ。
私は苦笑した。
私は全く飲まないが、妹はかなりの酒豪だ。
日本酒四合飲んでも、僅かに血色が良くなるが顔色にほとんど出ない。
一晩中飲み明かす事もある。
最初は心配したものの、今ではすっかり慣れた。
とはいえ、時折聞かされる妹の武勇伝には驚かされる。
痴漢を殴り飛ばして気絶させたとか、浮気した恋人の前歯をへし折ったとか、日本酒一升飲んでケロリとしていたとか。
恋人とのケンカで、ソファを投げたらテレビに当たって、テレビ台から転がり落ちて、傷がついてしまったとか。
妹は時折危なっかしい。だけど私よりしっかりしている部分もある。
私は妹が可愛い。
だから彼女のために頑張りたい。
彼女のためなら頑張れる。
「杉村」
声と共にクラクションが鳴らされる。
大島君だ。
「乗って?」
そう言って笑う。
「有り難う」
そう言って乗り込んだ。
煙草の臭いがする。
「……大島君」
「え、何?」
彼はきょとんとした。
「煙草は二十歳から」
「……あー、うん」
気のない返事。
「吸ってるでしょ」
「いや、友達」
そう言う視線が泳いでいる。
「嘘でしょ」
そう言うと、ムッとしたように私を見る。
「何なの、杉村。だから何? 俺、杉村にそんなこと言われる筋合いないんだけど。彼女でもないのに」
「彼女に言われるのなら、良いわけ?」
彼の顔がサッと朱に染まる。
「いや、あんまり良くもないけど……努力はする」
何故か口篭るように言った。
「努力?」
彼は答えない。
代わりにため息をついた。
「何処まで送れば良いの?」
「そこのビルまで」
「え? あんなところで良いの?」
「うん」
私は頷いた。
「ふうん」
彼は僅かに目を細めた。
「……何?」
聞くと、
「別に」
と言われた。
「俺さ、本当は友達と名字で呼び合うのって苦手なの」
「え?」
「だから、夕夏って呼んでも良い?」
「ええっ!?」
思わず大きな声を上げてしまった。
「俺のことは啓吾で」
「そんな」
急に呼び方なんて変えられるわけがない。
「じゃないと、車から下ろしてあげない」
そう言って、ロックをかけられた。
「……え?」
蒼白する。
「そんなに怖がるなよ。何もしないから。でも、あんまり怯えられると襲っちゃうかも」
にやりと笑われて、驚愕する。
「ええっ!?」
絶句した。
「本当に無防備だよな、こんなに簡単に男の車に乗って。気を付けなきゃダメだろ」
クスクス笑いながら言われて、ますます混乱する。
「え、な、なんで……っ!」
「なんでって、それくらい考えたら判るだろ? それとも俺の口から教えて欲しいの? ん?」
ニッコリと、やけに妖しい笑みを浮かべて、顔を覗き込まれて、心臓が止まりそうになる。
「ま、冗談はこれくらいにして」
そう言って彼は、サイドブレーキを引く。
「着いたよ?」
そう言ってニコッと少年のような邪気のない笑みを浮かべる。
「え? え!?」
「あ、ロック外すの忘れてた」
そう言って、ロックを解除する。
「どうしたの、夕夏。まさか腰が抜けて動けない?」
そう言ってシートベルトを外して、顔を近付けてくる。
至近距離で見つめられて真っ赤になった。
「じょ……冗談?」
声が震えた。
「うん、冗談」
ニッコリ笑う。
だけど続けて真顔で言う。
「でも、男の車に気安く乗るのは危険だよ。車内は密室だからね。何処かに拉致されて、ヤられちゃっても文句言えないよ」
「……それ犯罪」
「うん、犯罪。でも、済んでからじゃ、取り返しつかないだろ。夕夏は少し無防備過ぎ。俺でなくてもいじめたくなっちゃうよ?」
「……名前」
「うん、名前で呼ぶから。そっちは強制しないから好きに呼んで。だけどさ、大島って名字、どうも慣れないから、できれば啓吾って呼んで」
「え?」
「母方の姓だから、大島。その前は、高野」
「……あ、うん」
ぼんやりと頷いた。
「シートベルト外してあげようか?」
真顔で聞かれて慌てた。
「あ、う、大丈夫! 大丈夫だから!!」
そう答えると、彼はクスクス笑った。
「テンパってる」
う、うるさい。
何なのよ、人をからかって。
シートベルトを外して、ドアを開けた。
「あ、待って」
「え?」
振り向いた。
「携帯番号とメール教えて」
「なんで?」
「良いだろ。じゃないとまた自宅に電話するか、押し掛けるけど」
冗談にしてもなんてひどい脅しだろう。
慌てて教えた。
「サンキュ」
彼は嬉しそうに笑った。
「何がそんなに楽しいの?」
「夕夏の反応? なんてね。ま、仲良くしようぜ、よろしく」
私は無言で車を降りた。