第3話 嫌い
「杉村」
午後の講習を終えて帰宅しようとした時だった。
突然背後から声をかけられて、ドキリとしながら振り返ると、大島啓吾が立っていた。
「ごめん」
真顔で言われた。
「え?」
驚いた。
「迷惑かけて」
あ、告白のこと?
「……だけどそれはあなたのせいというより……」
「迷惑なんだろ?」
言いかけた言葉を遮られた。
「え?」
「……だから」
彼は顔をしかめた。
「忘れて」
「……え?」
忘れてって。
「…………」
冗談だったんだ。
酔ってたし、本気じゃなかったんだ。
考える必要なんかなかった。
私はため息をついた。
すると彼は、痛そうな顔になった。
「……え?」
私が驚くと、彼は顔を赤く染めた。
「酔った勢いだったから」
弁明するような口調で。
「あんなこと言うつもりじゃなかった」
その顔が、本気で後悔しているように見えたから、私も罪の意識を感じてしまった。
「私こそごめんなさい。まさかこんなことになると思わなかったから」
そう言うと、彼の瞳が揺らめいた。
「……その、できれば、無視されたり気まずくなったりしたくないんだけど」
とは言うものの、彼は友人でもなければ、知り合いといえる程の関係でもない。
ただ、お互い名前と顔を知っている、たまたま同じ年に会社に入社した同僚というだけだ。
「昨日の電話はあなただったのね」
「……ごめん」
彼は肩を落として、うつ向いた。
「ただ、声が聞きたかったんだ。本当はそれだけだったんだけど」
キョトンとしてしまった。
「え?」
彼は赤い顔で居心地悪そうに、小さな声で呟くように言う。
「声を聞いたら舞い上がって、予定とは全然違うこと言ってしまって、その」
言い辛そうな顔をする。
「できたら、普通に話がしたいんだけど」
思わず相手を凝視してしまった。
「……今更、虫が良すぎるかな?」
赤い顔で上目遣いに言われたその顔が、ドキッとするほど可愛くて、なのにどこか真摯で男っぽくて。
「それって友達になりたいってこと?」
そう尋ねると、少し困ったように笑って、彼は頷いた。
「嫌なら無理には言わないし」
私は苦笑した。
「友達なら良いわ」
「本当!?」
彼はパッと顔を輝かせた。
「だけど、二度とあんなことしないでね。本気で恐かったから」
「恐かった?」
私の言葉に、彼は顔を引き攣らせた。
「だって名前言わないし、やけに慣れ慣れしいし、迎えに来るとか言うし」
そう言うと、彼は赤面した。
「……あー、その……ごめん」
頭を下げられた。
「酒癖悪い方なの?」
不思議に思って尋ねた。
「いつもあんなことしてるの?」
そう聞くと、彼は慌てて首を左右に振った。
「まさか。あんなことしたの、昨夜が初めてで。俺、酒は強い方なのに、昨日はやけに酔いが早くて」
「……だけど、大島君は未成年でしょ?」
私が言うと、ギクリとした顔になる。
「未成年の飲酒は法律で禁じられてるのよ」
「ぁ、うん、知ってる」
大島君は真っ赤になった。
「どうしてあんなに飲んだの? 何処で飲んでたの」
「家で。一人暮らしなんだけど、夕食はいつも塩と日本酒で」
「は!?」
思わず声を荒げてしまった。
聞き違いだと思いたい。何かの間違いだと思いたい。
「夕食は?」
睨むように言ってしまう。
「……だから、日本酒。顔が恐いよ、杉村」
「悪かったわね、恐くて。良く言われるのよ」
「あ、いや、恐いっていうか、目が笑ってないから……!」
「他に何も食べないの?」
「いや、あんまり腹空かないし」
「食べなきゃ駄目」
私はキッパリ言った。
「空腹だから、余計に酔いが回るんでしょ。でもそれ以前に、未成年の飲酒は駄目」
「ご、ごめん」
大島君は謝った。
「作るの面倒なの?」
「それもある」
「料理は苦手?」
「それもある」
反省はしてない。むしろ自慢げに聞こえる。
「朝は?」
「食べない。コーヒーだけ」
「昼は?」
「弁当とかパンとかおむすびとか」
たぶん手作りではないだろう。おそらくコンビニか。
「そんなので、十代なのに身体もつの?」
「少なくとも三年はもってる」
思わず顔をしかめてしまった。
「何よ、それ!」
叫ぶと、彼は決まり悪げな顔をした。
「あー、いや、家事苦手だから」
「一人暮らししてるんでしょ!?」
「うん」
彼は頷いた。
「実は杉村のアパートの隣り」
「……隣り?」
言われて思い返す。確かアパートの右隣は駐車場、左隣は民家だった筈だ。
「……まさか、一軒家に一人暮らし?」
「そう」
彼は頷いた。
「親は!?」
すると彼は困ったように笑った。
「いない」
「……いないってまさか」
「三年前に他界したから」
けろりとした顔で言った。
「時折、叔父や従兄弟が覗きに来るけど、大抵は悠々自適に気楽でマイペースな一人暮らし」
気楽なばかりではないだろうに彼は言う。
「酒はいわば遺品。飲まないともったいないから飲んでる」
「身体壊すわよ?」
私は言った。
「そんな生活は駄目。アルコール中毒や依存症になったら、どうする気なの?」
「ならないよ。加減して飲んでる」
「昨日も?」
聞くと、彼は黙り込んでしまった。
「毎日そんな生活してるの?」
詰問すると、彼は僅かに顔をしかめた。
「別に俺の勝手だろ?」
「駄目よ!」
思わず叫んでしまった。
彼は驚いた顔をした。
「……なんで」
「本人だけの問題じゃない。周りに迷惑かけるのよ。酒に溺れてる人ほど言うのよ。酔ってないとか、迷惑かけてないとか」
「……杉村?」
大島君は眉をひそめた。
「酒に酔って溺れてる男は嫌い。大嫌い」
そう言うと、彼は大きく目を見開いた。