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01,《赦罪のリング》

 空を眺める時間より、きっと土を舐めている時間のほうが長い。土茶色に濁る砂の味と、次第に舌に広がる血の味はほとんど同じに思えた。

 容赦なく降り注ぐ拳をどうやり過ごそうかと考える時、御門鳴海みかど なるみはいつも空を見ようとした。飛んでくる拳も、やけに力んだクラスメイトの顔も、全て見なくて済むからだ。うつ伏せで倒れれば追撃として蹴りが飛んでくる。むしろ腹を相手に見せ、一瞬の躊躇を与えたほうが良い。彼らは相手が限界だと感じるまで、攻撃の手を休めようとはしない。だから、一時休戦をアピールするように、鳴海は大の字になって仰向けに倒れる。そうすれば、大抵の相手は鳴海がダウンしたものだと思って、手を緩めてくれるのだった。

 一通り一方的な暴行が終わると、彼らは飽きて去っていく。その頃には鳴海もボロボロの満身創痍で、そのまま数分は青臭い雑草の絨毯に身体を横たえているのだ。

 ――今日は快晴だな。

 鳴海は暢気にそんなことを考えた。緑に覆われた空の隙間から暖かい日差しが差し込んでいた。 

 どの学校にも、陽が当たりにくい場所というのがある。

 昼休みの教室よりも、授業中の講堂よりも、放課後の校舎よりも、もっと自由で無法地帯となりえる場所。L字型校舎の裏側、駐輪場から少しいったところにあるビオトープの横は、鳴海の特等席となっていた。鬱蒼とした林がぬめっとした空気を充満させている。日陰が好きなの、と首を出していた植物たちを踏みつけて作ったスペースは、いつしか「謝罪代行のねぐら」と呼ばれるまでになっていた。

 謝罪代行とは、鳴海のことだった。誰が名をつけたわけでもなく、自然とそんな名称が定着していた。

 自分が謝れば全てが丸く収まる。

 そのことに気付いたのは、学園に入学してから一ヶ月も満たない間だった。

 鳴海は自分の右腕を見る。直径4センチ弱の白銀で出来たリングが、手首に嵌められていた。一見して高級品に見えるが、実際に値はかなり張る。ただしそのリングは誰かがお洒落をするような感覚で身につけられるものではないし、大金を眼前に積まれて頼まれたって、嵌めたいとは思わないものだった。

《赦罪のリング》と呼ばれるそれは、罪人の証だった。

 実際には、罪人がその罪を赦され、一般人として活動できるようにするものだ。しかし白銀のリングとして「罪人」としてのレッテルを貼られることになる。

 この一ヶ月間、鳴海の受けてきた数々の仕打ちはこの《赦罪のリング》によって発生したものだった。鳴海自身も、それは入学当初から覚悟していたことだった。

『お前は犯罪者だったんだろう?』

 その言葉だけで、鳴海は誰に何をされても言い返せなくなる。

 殴られようと、蹴られようと、唾を吐かれようと。

 しかし、その境遇に不満を持ったことは無かった。そうなって然るべき人間、その意識が鳴海の中に強く根付いている。だから、謝罪代行を思いついたときは、むしろ自分の新しい価値が生まれたんじゃないかと思ったくらいだった。

 罪人である自分が殴られる。誰かの鬱憤を晴らすために、使われる。そうすることで、誰かの怒りが収まり、誰かの憎しみの炎が鎮火していくのなら、これ以上無いことだと鳴海は考えた。

 とは言え、

「いってぇ……」

 口の端から流れた血を舐めると、喉に張り付くような鉄の味がした。そういう扱いにこそ慣れたものの、痛みにだけは慣れない。五体どこを動かそうとしても鈍い痛みが走った。堪えて、ゆっくりと上体を起こした。

 がざ、と鳴海のねぐらを踏む音がした。思わず鳴海は身構えたが、現われたのは艶やかな黒髪を三つ編みにした、物静かそうな女の子だった。

 ――また来たのか……。

 鳴海は構えを解いて、すっと肩の力を抜いた。一瞬の緊張で硬くなった筋肉が解れて、鳴海はそのまま倒れそうになった。

 女の子は申し訳無さそうに目を伏せ、鳴海に近寄ってきた。

「大丈夫、ですか……?」

「し、司峰。なんとも無いよこのくらい」

 立ち上がり、急いでなんともないような顔を取り繕った。

「でも……あっ、血が出てますよ!」

 司峰は桃色のハンカチを取り出すと、爪先立ちをして鳴海の頬の傷に当てようとした。ふわっと、濃い緑の臭さを掻き消すように花の香りが漂った。鳴海は逃げるように身を引いて、両手を突き出した。

「き、汚いから。大丈夫、舐めときゃ治るって」

「きちんと洗ってありますから、安心して使ってください。ほらっ」

「そういうことじゃなくて、折角綺麗なハンカチなのに俺の血が付いたら……」

「ハンカチはこういう時に使うものなんですっ」

「いやでも……」

「でももおかしもありません」

「ぅ……」

 半ば押されるようにして鳴海はハンカチを受け取った。ハンカチはしっとりと濡れていた。ここに来る前に水道で濡らしてきたのだろう。

 司峰裕紀しほうゆうきは鳴海のクラスの委員長だった。ほとんどの生徒が鳴海を疎ましく扱う中、彼女だけは鳴海に良く接してくれていた。それは鳴海にとっても嬉しいことだったが、その反面、良くしてくれる彼女に引け目も感じていた。

 こうして司峰に介抱を受けるのも、今回が初めてではない。謝罪代行としてこの場所に連れてこられる度に、どこからか匂いを嗅ぎつけて司峰は毎回のように鳴海に気をかける。

 鬱陶しいとは思わない。ただ、その好意を素直に受け取れるほど、鳴海は自分を高く買ってもいなかった。

「そのさ、別に俺のことなんか気にかけてくれなくたっていいんだよ。俺が好きでやってることなんだから」

「じゃあ、私も好きでやってることですから。これ、消毒液です」

「いやだから、そんなことしなくても……いてっ」

 有無を問わずに、司峰はどこからか持ってきたガーゼに消毒液を浸して、傷に押し付けた。きついアルコールの匂いがして、思わず顔をしかめた。

 退けようとしたが、眼前に迫った司峰があまりに真剣な顔をしていたので、鳴海は何も言えなくなる。

「また、仁和にんなくんですか……?」

 司峰が神妙な面持ちで、そう訊いてきた。

「いや、その……」

「正直に言ってください。そういうことを隠すのは良いことじゃありません」

「……」

 黙ってしまう。

 仁和。鳴海のクラスで、権威を振るう男子の名前だった。いわゆるいじめグループの大将であり、父親が良いところに勤めているという単純な理由でクラスメイトを威圧していた。鳴海の謝罪代行の半分以上が、彼の境遇を知った仁和によるものであることは司峰にも知れていることだった。

「御門くん……」

 何故だか、母親に怒られているような気持ちになった。強くも、どこか優しい口調で名前を呼ばれ、鳴海は観念して口を開いた。

「良くある、男女の問題だよ。あいつらのグループのリーダーの彼女が、仁和に取られただとかなんだとか。はっ、俺に怒りをぶつけるくらいなんだから、そりゃ愛想も尽かれるわけだよ」

「また女の子なんですか……」

「仁和はモテるからな。羨ましい限りだ」

 皮肉っぽく言ってみたが、惨めになるだけだった。

「それを、それをどうして御門くんが謝らなきゃいけないんですか」

「謝罪代行ってのはそういうものだよ。仁和がそいつに謝る代わりに、俺が謝る。それで気が済むならそれでいいじゃねえか」

「だってそれって、仁和くんは何も反省しませんよ? また同じことを繰り返して……」

「――例えばさ」

 言葉を遮ると、ガーゼを当てる司峰の手が止まった。

「仁和とそいつらが殴りあったりして、何か起きたらやばいじゃん。そうなるくらいだったら、俺が殴られて一件落着、そっちのほうが良いだろ? 俺って結構身体は丈夫だし。それに、あいつらだって仁和と問題は起こしたくないだろ」

 必死に説明してみたが、司峰の表情は晴れない。

 仁和と問題を起こそうとする者は、学園にいない。それは司峰も良く分かっていることだった。仁和の父親は《裁判官ジャッジマン》と呼ばれる、司法機関《断罪教会》の最高権威に位置する役職で働く人物だった。仁和が父親に告げ口の一つでもすれば、たちまちその身分は危うくなる。彼の父親が厳格な人物で有名なのも相まって、仁和とはなるべく問題を起こしたくないというのが、この学園で生活する生徒全般が持つ共通認識だった。

 だからこそ、司峰も「御門に怒るんじゃなくて、仁和に怒れ」と強く言うことが出来ない。

「こんなこと、許されていいはずがないんです。御門くんだけが損をして……」

「いいんだよ。だってほら、俺はこういう人間だしさ」

 言って、右腕の《赦罪のリング》を見せた。木漏れ日で白銀が映えて見えたが、薄汚れたリングはお世辞にも美しいなんて言葉を選ばせなかった。

 自虐以外の何ものでもない。軽いジョークのように言っても、司峰は視線を外し、触れないようにした。フォローも出来ないし、慰めも出来ない。こう言うと相手が困ることを、鳴海は良く知っている。卑怯な手段だと分かっていても、相手を黙らせるには十二分な力を持つものだった。

「その腕輪は、本物なんですよね……?」

 何を今更、と言おうとして止めた。

《赦罪のリング》を見る。記憶の片隅に、子どものおぼろげな姿が浮かんだ。

「昔、仲が良かった女の子がな。酷いことをしたのに、俺を断罪しなかった」

「そう、なんですか……」

「ごめんな、なんか気を遣わせちゃって」

「そんな……! 私は……」

 優しいんだな、と鳴海は思う。委員長だからわざわざ気にかけてくれるのだろうとは思うが、それにしたって《赦罪のリング》をつけている人間になんて係わり合いになりたくないのが、当然の反応。

 元、とは付いても、犯罪者。

「伊藤秀斎がさ――」

「はい……?」

「えっと、なんだっけか」

 鳴海はポケットから、やけに使い古された手垢だらけのメモ帳を取り出した。パラパラと捲って、目的のものを探す。

「あった。『人と人が分かり合えない時は、私がその想いを担おう』、伊藤秀斎が五年前に出した本に書いてあったことなんだけどさ、争いを決して望まなかった秀斎が罪を担う存在となった、その理由の一つなんだって」

「どういうこと?」

「加害者の衝動も被害者の憎しみも、全て自分が請け負えば争いは生まれないってことだよ。なんつーか、すげえよな。思っても出来ないことだし、実際秀斎はそれで幾らか犯罪を未然に防いだらしいんだ」

「……御門くんって、伊藤秀斎が本当に好きですよね」

 あまり感心した様子は無く、司峰は言った。

「こういうと、やっぱり人には白い目で見られるけど、秀斎は俺の憧れなんだ。罪人でありながら、《神》と崇められるまでになったあの人が。自分が、何も出来ないし、人に迷惑しかかけない存在だと思っていた俺にとっては、救いみたいな存在だった」

 メモ帳を捲る。そこには秀斎が執筆した本に書いてあったこと、テレビ放映で口にした言葉、その数々がぎっしりと詰まっていた。誰かにとっては文字の羅列でしかないが、鳴海にとっては一つ一つが輝いて見えた。

 罪を憎んで、人を憎まず。誰かの罪を負い、誰かの憎しみを受けること。

 秀斎がしてきたことは、人が人を憎まない世の中を作り上げること。そのために、秀斎は人を辞めた。彼は『罪』になったのだ。誰かに恨まれ、憎まれ、石を投げられる。それを受け入れ、秀斎は耐えた。

 鳴海が耐えられなかった烙印を、秀斎はむしろ好機としたのだ。

「俺は、秀斎みたいになりたいんだ。謝罪代行ってのもその一つだな」

「でも、伊藤秀斎は……」

「――断罪されたよ」

 鳴海の表情にすっと陰が差した。

「だからって、俺は秀斎が間違っていたとは思わない。自首だったらしいけど、あの人は自分が間違っていたって、そう思っていたわけじゃないはずだ」

 そうは言うものの、秀斎の断罪に関して鳴海は大きな不安を抱えていた。

 テレビで放映された、秀斎の公開断罪。白銀の十字架にかけられた秀斎の姿は、神とはほど遠い、格好だけは立派であっても纏っていた空気は浮浪者のような弱弱しいものだった。

 画面の前で固唾を呑んで見守っていた鳴海は、ひたすらに秀斎の言葉を待った。何か、何かきっとわけを話してくれるだろうと。膝の上に作った拳を震わせながら、じっと待っていた。

 だが、秀斎は結局一言も喋らなかった。断罪の炎により焼かれている最中でさえも、彼は黙ったままだった。

 ただずっと、不適に笑い、遠くの何かを見つめるような目をしていた。

 空。多分、空だったと鳴海は思う。秀斎はずっと空を見ていた。そこに帰るべき場所でもあるかのように。求めた神の国が、そこにあるとでも言うかのように。

 鳴海は照れくさくて頬をかいて、司峰から目線を外した。

「なんつーか、ごめん。司峰に迷惑かけちゃ本末転倒だよな」

「そ、そんなことありません。私がしっかりしていれば、御門くんがこんなことをすることもないんです。仁和くんには私からきつく言っておきます!」

「そうしてくれ。あいつも、委員長に言われれば改心するかもしれない」

「任せてください!」

 ぐっと拳を作って、司峰は息荒く笑った。しかし、ふと表情に影を落とすと、

「……聞いてくれないと思いますけど」

「ん? なんだって?」

「いえ、なんでもないです」

 司峰は首を振って否定した。そのまま腕時計に視線を落とすと、慌てたようにハンカチをポケットに仕舞った。

「そろそろ授業が始まります。お昼はきちんと食べましたか?」

「いや食ってないけど、今日はどうせ五時間目で終わりだし」

「ダメですよ、体力をつけないと授業に集中出来ません。これ、あげるから食べてください」

 ポケットの中から、ビスケットが一つ。直径十センチ以上はある、コンビニなどで売っている大きいサイズのものだった。受け取ることを逡巡したが、ぐう、と腹の音が鳴ると、観念して貰うことにした。

「いいのか?」

「はい。私はもうお弁当をいただいたので。これ以上食べると太ってしまいます」

「そっか。でも、なんでこんなの持ってんだ?」

「御門くん。お菓子は本来、学校に持ってきちゃいけません」

「そりゃあそうだ」

「でも、おなかが空いている人にあげるためなら、別にいいと思いませんか?」

「ん、まあ、そうなのかな」

「そうなんですよ。委員長が言うんだから間違いありません」

「な、なんだそれ……」

 思わず笑ってしまった。司峰は基本的に真面目だが、たまにおかしなことを言う。委員長としての自信からなのか、良く分からない我の通し方だった。

「それじゃあ、私は先に帰ってます。遅刻しないでくださいね」

「ああ、さんきゅーな」

 またにこっと笑うと、お下げを揺らして司峰は校舎へ向かって行った。

 一緒に帰ろう、そう言わないことが、鳴海にとってはありがたかった。司峰に変な誤解を受けさせたくないし、何より変なとばっちりでも受けようものなら謝罪代行も止めなければいけない。

 今の自分に満足はしている。だが、司峰に迷惑をかけてまで続けることでもない。出来ることならこの場所にも来て欲しくは無い。

 ただそう、一つ問題があるとするならば、

「……」

 惚けた表情で、司峰の去ったほうを見つめている鳴海がいた。

「ふう……」

 鳴海は嫌々言いつつも、司峰がここへ来てくれることが嬉しかった。自然と頬が緩んでしまう。《赦罪のリング》をつけてからこの方、普通に人と会話することさえも困難となってしまった鳴海にとって、司峰は学校においては救いの存在だった。外見はそこまで好みというわけでもない、むしろ地味なほうだ。だが、司峰の優しさが身に染みるたびに、彼女に少しずつ惹かれていく自分を自覚する。

 司峰から貰ったビスケットを袋から開けて頬張る。口に甘さが広がり、空きっ腹にほんの少しの満足感を得る。

 食べ終わったら教室に戻ろう、そう思って、もう一口噛り付いた。







 謝罪代行で何かがあると、鳴海はいつもここへ来る。

 一人暮らしをしているアパートの真横で、一軒のラーメン屋の屋台が開かれていた。道路沿いで営業すればいいものを、その屋台はわざわざ人通りを避けた小さな路地に開かれている。ちょうちんに明かりを灯し、店主にしか分からない程度の音量でラジオが流れている。隠れ名店などではない。アパートの住人は皆知っているし、何よりここのラーメンは「まずい」と評判だった。

 夜中の六時辺りを回ると、屋台がやってきて開店する。ちょうどそのタイミングで、鳴海はアパートを出て、小さな赤い暖簾をくぐった。

「梅ラーメン一つ」

「あいよ、ってまた兄ちゃんか。また学校でいじめられたのか?」

「違いますよ、殴られる仕事だって言ったじゃないですか」

「最近の若いモンはよくわかんねーなぁ」

 頭に鉢巻、紺色の甚平を着ている。顔の深い皺が、大分歳を食ったおやじだということをしみじみ思わせる。

 開業十年、秘伝の味を生み出したと息をまいて都会に繰り出したは良いが、そのラーメンは「酸っぱい」ラーメンだった。ただし、酢を使ったものではない。

 梅である。スープも具も全部梅である。頼めば、梅のジュースも出てくる。

 初めこそものめずらしさで客も引けたが、それも一度きり。いくらかの物好きな常連がいるくらいで、明らかに商売繁盛とはいっていない。そもそも実家が梅を栽培しているらしく、相当なローコストで作られているらしかった。

「へいおまち」

 ごと、とラーメン丼が置かれる。

 湯気とともに昇ってくる猛烈な梅の香りが鼻についた。それだけで、傷に染みてきそうだった。色合いだけ見れば、単なる塩ラーメン辺りに見えないこともない。だが、黄金色に輝く湖は、明らかにそれとは別物。大体、中央に浮いている真っ赤な梅干の自己主張があまりにも激しかった。

「傷にしみねえか、俺のラーメンって」

「今更何を言ってるんですか。むっちゃしみますよ」

「だよなぁ……しみないラーメンもメニューにないとまずいか?」

「作れるんですか?」

「チャルメラくらいなら」

「……」

 鳴海は麺を盛大に啜った。しみるが、うまい。評判は軒並み最悪だったが、鳴海は何故かこの味にはまってしまい、今では常連客の一人になっている。とは言っても、鳴海はこの時間帯で自分以外の客を見たことがないのだが。

 夜を知らせるように、人の喧騒は収まり、代わりに虫の鳴き声がちらほらと聞こえてくるようになった。正面を見ると、ラーメン屋のおやじは夕刊を読んでいた。背面の記事では大きく秀斎のことが取り上げられていた。

 ずずずっ、と最後の一滴まで飲み干す。鼻から突き抜けるような梅の香りがするが、それも一つの醍醐味だった。

「ごちそうさまです」

「おう。六百円な」

 どんぶりの横に代金を置いて、暖簾を払った。陽は完全に落ちており、屋台のちょうちんが白いアスファルトを琥珀色に照らしていた。

 不気味な静けさが辺りを包んでいた。街灯から伸びた細い影が、街を檻で囲ったように覆っている。屋台の明かりが黒い海原の灯台に思えた。ここから一歩でも離れたら、五里霧中の闇の中にさ迷ってしまうのではないか。いつもはそんなことを考えもしないのに、何故だか鳴海は言いようの無い不安を抱えた。

 ピシッ、とプラスチックが割れるような音がした。杭で打たれたように、鳴海の足が止まる。

 ――なんだ?

 何かを踏んだのかと思い、靴底を上げて見てみた。しかし、砂利が詰まっているほかには何も無かった。

 ピシッ、ピシッ。

 気のせいなんかじゃない。そして、耳を澄ましてよく聞いてみれば、その音の正体には覚えがあった。

 鳴海は建物の隙間に目を走らせる。どこかに……。

 一本の影が、ぬうっと背伸びするように家と家の間から伸びてきていた。

 影。否、影ではない。明らかに物質として形を持ったそれは、黒い枝だった。先ほどから聞こえる音は、この枝が少しず伸びる時に発する音。小さな芽が一瞬にして大樹に成長するかのごとく、枝は侵食を始める。

「あれは……!」

 強烈な寒気がして、両腕に鳥肌を作った。

 急いで屋台に戻り、風情に感じていた暖簾を鬱陶しく叩いた。

「おじさん! 逃げろ!」

「な、なんだ急に……どうしたんだ?」

「《カルマの発現者》が近くにいる……!」

 それを聞くと、おやじは顔を蒼くして新聞紙を取り落とした。

「嘘だろ……? この辺りは教会が統治してるから発現者がいるはずが……」

「枝が見えた。もうすぐそこにいるかもしれない」

 おやじの眉間から汗が一筋頬を伝った。

「み、店仕舞いだ。兄ちゃんも早く帰んな!」

「わ、分かってるよ」

 おやじが激しく取り乱し始めたのを見て、鳴海も焦りを感じ始めた。

 おやじは大なべに蓋を被せ、店の代金だけを持って逃げようとした。

 しかし。

 鳴海はその時、目の前に黒い壁が出来たのかと思った。屋台の屋根が貫かれ、さっきまでラーメンを食べていた席が粉々に破砕される。木屑が弾け飛び、丼が割れる甲高い音がした。

 一歩間違えれば、粉々になっていたのは自分……?

「う、うわぁ!!」

 おやじが奇声を上げた途端、隠れていた恐怖心がどっと押し寄せてきた。

「ちょ、やば……」

 逃げようとするも、足が沼にでも絡め取られたように動かない。どころか、底に沈んでいくように鳴海は腰を抜かした。

 逃げなきゃ、死ぬ。

 目の前でおやじが這うように逃げていく姿が見えた。そうだ、足が動かなければ腹で這ってでも逃げればいい。指先はガタガタと震え、握りこぶし一つさえ作れない不良品と化してしまったが、腕なら動く。這えばいい、這えば。

「盾、発見」

 空から声が落ちてきた。

 見上げると、月夜をバックにして人が飛んでいた。跳躍ではない、背中に巨大な枯れ木を集めて作ったような翼を持っている。しかし翼風は一切起こさない。飛んでいるのではない、浮いていると言ったほうが鳴海の視覚的には正しかった。

 そのまま急降下し、逃げようした鳴海の前に降り立った。

「どーも」

「やめっ……!」

 襟首を掴まれると、一瞬で腕を絡め取られた。黒い枝がナイフのように伸びてきて、首元に触れる。冷たくも暖かくも無い。ただ、ぴりぴりとした殺気が枝の先から伝わってきた。

「抵抗したら殺すから」

「――」

 それだけで、鳴海は動けなくなった。

 見ると、降ってきた男は浮浪者のような格好をしていた。薄汚れたTシャツに、底が壊れた靴を履いている。髪の毛は油でギトギトで、饐えた匂いが漂ってきていた。

 どうやら、最悪の場面に出くわしてしまったらしい。

「おい出て来いよ、隠れてないで」

 誰か、もう一人いるらしい。しかし、闇に紛れているのかその姿は見えない。

 しかし鳴海は安心した。本当に男と二人だったら、恐らく怖さで簡単に屈していたことだろう。誰かがいるということが、鳴海の精神をギリギリ保たせた。

 それに、なんとなくだが鳴海には闇に紛れた人物の正体がつかめていた。

 こういう人物を追うのは、彼らと相場が決まっている。

 暗がりの奥から、何かが浮かび上がってきた。

「《裁判官ジャッジマン》……?」

 現れたのは、騎士だった。それも、相当時代錯誤な格好をしている。邪を払うような白銀の鎧に身を纏い、同じく白銀のブーツ、ガントレット、そして円筒型の兜に完全に頭部を収めている。無骨さは一切感じず、水が流れるような流線型が一体を統一していた。右手には十字のシンボルが入ったロングソードを携えている。月光か街灯か、淡い光源を反射し、歪に銀色の光を放っていた。

 確かに《裁判官》は鎧に身を包んでいるために騎士のような様をしているが、ここまでそのまま騎士の体を成していたのは鳴海も初めて見た。それも、あまりにも美麗。自分の危機が迫っているというのに、鳴海は思わず見とれてしまっていた。

「……」

 それは一言も言葉を口にしない。目の前の敵を見据え、討つだけの存在。ただ、鳴海が人質に取られているせいか、下手に動けずにいるようだった。

「俺を見逃せばこいつは無傷で受け渡す。だが、そこから一歩でも動けば、こいつの首は宙を舞うだろうよ」

「……」

「もし交渉を受けるんだったら、その剣を捨て、頭を抱えて伏せろ」

「……」

 動かない。実は展示品だったのではないかと疑ってしまうくらいに、それは微動だにしない。

「おい、聞いてんのか? 早く剣を捨てて伏せろっつってんだよ。それとも何か? 偉大なる《裁判官》様は人質を見捨ててまで、俺ら発現者を潰そうってのか? そりゃあいくらなんでも、こいつが可哀想だろうよ」

 どの口が言うんだ、と思いながらも、鳴海は抵抗出来ないでいる。

 しかし、鳴海自身もそれが動かないことに言いようの無い不安を覚えていた。あまりにも『人』を感じられないその立ち振る舞いが、本当に自分を見捨ててしまうのではないかと思ってしまう。

 ――大体、あれは本当に《裁判官》なのか?

 ロングソードに穿たれた十字架のシンボルは《裁判官》の証。偽者でもなんでもない。鎧の形だって同じだった。《裁判官》に違いないはず。

 疑念から染み出した恐怖感が、突然鳴海を襲った。

「た、たすけ……」

 上手く声は出ず、かすれた蚊の鳴くような声が発せられた。思っても無い声が出て、鳴海は驚いた。 疑念が疑念を呼び、自分が助からないかもしれないという絶望が鳴海の中に広がっていく。

 どうして喋らない?

 どうして早く剣を捨ててくれない?

「……」

「――っ」

 いや、違っていた。

 この状況、鳴海を助ければ《カルマの発現者》を逃がしてしまうことになる。考え方を改める。むしろ、ここは自分が犠牲になるべきなんじゃないかと。

 秀斎は誰かの憎しみを背負い、人に恨まれ、傷つけられながら生きていた。自分がもしも秀斎と同じようになりたいと願うのであれば、ここは助けを求める場面じゃない。発現者を捕らえることに、むしろ協力するべきだ。

 ぐっ、と鳴海は恐怖を堪えるように、腹に力を入れた。

「お、俺のことは気にせずに、こいつを……」

「てめえ、死にてえのか!」

 取られた腕を更に強く締め上げられて、鳴海はうめき声を漏らした。首に触れていた黒い枝も、鳴海に痛みを感じさせた。

 その一瞬。

 疾風、騎士が突撃した。地を二度蹴り、しなやかな肢体が跳ねるようにして一気に距離を詰める。剣の切っ先が鳴海へ向けられ、一撃。首筋に当てられた黒い枝に直撃し、粉々に砕け散った。

「くそがっ……!」

 鳴海の頬を掠めるようにして剣を持たない左手が伸びてくる。もはや鳴海のことなどお構いなしに、そのまま男の顔面をガントレットが捉える。

 右を引き、左を押す。鳴海と男の間に小さな空間を作ると、鳴海を掴んだ男の腕に柄で一撃を与える。

 解放された鳴海は尻餅をつき、肺に大きく息を吸い込んだ。

 男たちのほうを見ると、男は顔面を押さえつけられて組み敷かれていた。だが、男の背中から伸びた黒い枝が空中から騎士を狙っている。

《カルマの発現者》特有の、《カルマの樹》である。まるでカラスの羽のように広がった枝は、あの男が持つ個人特性だった。

《業の樹》は人によって形は様々だ。男の《業の樹》は羽型で伸縮が可能なものだった。初めに空を飛んでいたのも、これを使っていたのだ。しかし、羽は空を飛ぶためだけのものではない。

 刃。

 鳴海の首筋に赤い血が伝う。これは、あの羽が傷つけて流れ出した血。これに貫かれれば、あのロングソードが肉を裂くのと全く変わらない殺傷能力を持つだろう。それが今、白銀の鎧を貫こうと狙いを定めている。

「死ね」

 ――あぶないっ!

 鳴海が叫び出すその直前、羽は勢いをつけて空を滑るように騎士の背中を目掛けて襲い掛かった。

 その惨劇から目を瞑るようにして鳴海は顔を背けた。

「……?」

 鉄と鉄がぶつかり合う鈍い音こそしたが、誰かのうめき声が聞こえたわけでもなく、静かな時間が流れているだけだった。

「知らないのね、あんた」

 ついに白銀の騎士が口を開いた。その声は鳴海も、そして男も予想していなかったものだった。女の声だったのだ。鳴海が恐る恐る視線を二人に戻すと、黒い羽の切っ先は鎧に止められ、その先へ進むことは叶わないでいた。

「断罪教会製の鎧は《業の樹》に特化した造りになってるわ。だから、首筋や関節を狙うならまだしも、背中じゃあねえ……」

「お、お前……女……!」

「女で何が悪いのよ」

「だって、《裁判官》に女がいたなんて話は……」

「そりゃそうでしょうね。あたし、今日から仕事に配属された新人だもの」

「し、新人……」

「そう。新人。あなたと同じね」

 持っていた剣を適当に放ち、そっと天に掲げる。

 右手に青い炎が渦巻き始めた。男はそれを見て「ひい」と悲鳴を上げ、なんとか抜け出そうと暴れ出したが、がっちりと顔面を捕らえた左手がそれを許そうとしない。

「断罪します」

 事務的な口調でそう言う。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! そうだ、警察、警察に自首するからさ。豚箱で臭い飯食いながら永遠に反省する、な、それでいいだろ? 許してくれよ」

「……許す?」

「そ、そうだよ。この通りだからさ」

 言って男は両手を頭の上に掲げた。

「それは、誰に許されるものなの」

「は、はぁ?」

「誰に許してもらおうとしているのって、聞いてるの」

「そ、そりゃあ、俺が殺した奴の遺族、とか?」

「何をして償うつもりなの」

「償い? か、金なら払う。必死で働いて稼いで……」

 それを聞いて、騎士は呆れたように首を振った。

「お金で解決するなら、私たち《裁判官》はいらないのよ。あんたがどれだけ償っても、許されないものは許されない。《カルマの発現者》なら分かるでしょう? 罪の意識ってものが、どれだけ厄介なものなのか」

「じゃ、じゃあどうしろってんだ!」

「だから私たちがいるんじゃない。あんたみたいな救われない罪人を解放してあげるために、断罪してあげるんじゃない」

 あげる、の部分をやたらと強調して言った。

「罪に纏わる全ての感情と事実をこの炎で浄化する。ね? とっても優しいでしょ?」

「ふ、ふざけんじゃねえ! てめえら、その断罪の炎が浄化すると同時に何を奪っていくのか知ってんだろ!?」

「当たり前でしょ。そうね、あんたの場合は殺人で発生した《業》だから、六十年くらいで済めば上々かしら」

「ぐううううう!」

 男が身体をばたつかせて発狂する。

 六十年。それは、浄化の炎によって焼き尽くされる男の寿命だった。罪を浄化し、その事実を完全に無かったことにする《断罪》。しかし、代わりに浄化された人間は罪の意識に比例した寿命を焼かれることになる。《カルマの発現者》が《裁判官》恐れる理由の最たるものだった。

 男はもう三十は過ぎた年齢に見える。とすれば、人生で残された時間は長くて七十年。下手をすれば、六十年分の寿命は残されていないかもしれない。

 そう、男にとって今断罪されることは、同時に「死ぬかもしれない」という眼前に剣を突きたてられているような圧倒的恐怖を覚えることなのだ。

 だから男は激しく暴れる。目を真っ赤に充血させ、狂ったように手足で騎士を殴る。喉が切れる限界まで叫び声を上げる。身体全体が激しい痙攣を起こしていた。断頭台に昇って尚、男はその生に必死にしがみ付こうとしている。

 その前で、淡々と仕事をこなす騎士を、鳴海は少し怖く感じた。割り切っているのだろう。《裁判官》がいちいち人の生死に感情を持ち込んでいたらきりがない。騎士から男がどのように見えているのか、それは鳴海が知る由もないことだが、少なくとも同情しているようには見えなかった。

「断罪します」

「やめろぉぉぉおぉぉ!」

 青い炎が一気に燃え上がる。右手を一度空にかざし、そして男の胸に押し付けた。

「あああああああああああ!」

 悲痛な叫びが木霊すると同時に、青い炎は天を突く柱となった。轟々と炎の乱れる音が響く。男の黒い羽が焼失して、宙に粉塵となって舞った。

 鳴海は真正面にいながら不思議と熱は感じなかった。断罪の炎は対象者以外には一切被害を及ぼさない。知っていたことだったが、目の前で燃え盛る灼熱を夜風を浴びるような心持で眺めているのは、異様な懸隔があった。

 許されぬ罪が、唯一許される方法。断罪教会による、《断罪》。

 右腕のリングだけが、やけに熱を持ったように感じた。

 やがて炎が収まる。辺りが焦げ付いた様子も無く、男は魂を奪われた人形のように口を開いたまま昏睡していた。騎士が立ち上がると、傍に放った剣を鞘に戻しに数歩移動した。

 鳴海は呆然とその様子を見ていた。

「お疲れ様」

 突如、鳴海の後ろから声がした。驚いて振り返ると、同じく《裁判官》の格好をした男が騎士を見つめていた。

「大丈夫でしたか、御門くん」

 名前を呼ばれて、ようやく鳴海は声の主の正体に気付いた。

「栄春さん……?」

「久しぶりだね。こうして顔を合わせるのは何年ぶりだろう」

「あ、え、あ……?」

「ははっ、少し落ち着く時間が必要なようだ。私は彼女と話をしてきますので、深呼吸を何度か繰り返して心を落ち着かせておきなさい」

 男は黒田栄春といって、断罪機関の教皇をしている人間だった。顔見知りだったために鳴海も何か言葉を返そうとしたが、そこまで冷静な思考に至らなかった。

 言われた通り、三度ほど深呼吸をする。

 ――ふう。

 止まっていた心臓が動き出したのかと思うほどに、耳奥で鼓動の音が五月蝿く響いていた。舌が異様に乾いている。夜の冷たい空気を吸うと、喉が水分を求めて唾液を無理矢理嚥下させようとした。

 落ち着けた、とまではいかないにしても、なんとか周りの状況を把握するくらいには頭も冷えてきた。

「助かった、のか……」

 手足が動く。呼吸が出来る。まだ腰が抜けて立てないが、多分歩けるだろう。結局、断罪教会の《裁判官》に助けられた。犠牲にはならずに済んだ。死ななかった。その事実が一気に襲い掛かってきて、今までで一番大きなため息をついた。





 鳴海がようやく立ち上がれるくらいになる頃には、断罪教会の面々が集まっていた。断罪された男の処理を行うのだろう。さっきまで夕飯を取っていた場所は、一瞬にして戦場の跡地のになっていた。

 断罪された人間は、意識を取り戻した後に警察へ引き渡される。本人に記憶はないものの、一応調書を取られ、自宅まで普通に送られる。被害者の関係者も記憶を改竄されるために、教会と警察が一丸となってフォローに入る。そういう手はずになっていた。

 ただ、問題なのは意識を取り戻さなかった場合。

 この場合は、加害者の関係者などに教会が説明に入らなければならない。断罪というシステムがある程度理解の上で行われているとは言え、国家の法的な手続きを介さない断罪は、いつも突発的だった。このことで恨まれたことは前例にないが、加害者の家族に気持ちのいい顔をされることはそれでも有り得ない。

 その後、警察による死亡認定が行われるのだから。

 断罪教会の教会員が男の脈を測っている。推定六十年の寿命が蒸発した。命の危険は、十分に考えられた。

 なんとなく心配になって近寄ってみると、それを遮るようにあの騎士が近づいてきた。一人だけ様相の違う、白銀の鎧と兜に身を包んだ姿。近くで見ると、更に異様に思えた。

「……」

「あ、ありがとうございました。助けてくれて……」

「……」

 相変わらず言葉を発しようとしない。ただ、戦闘の最中に聞いた声は、明らかに女性のものだったことを覚えている。この中に入っているのが女性とは、どうにも想像できなかった。

「あんた、御門鳴海、なのよね。そういえば《赦罪のリング》もつけてるし」

「え、えっと……? そうですけど」

 栄春から聞いたのだろうか、そう思って一応頷いておいた。

「何でそんな低姿勢なのよ。え、まだ分かんないの? 頭の回転遅くない? 一応県内でも相当高い偏差値の学校入ったって聞いたんだけど、もしかして落ちこぼれた?」

「は? なんでそんなこと知ってるんですか?」

「むしろなんでそんなこと聞いてんのよ。断罪教会に世話になってんだから、色々報告はしてるんでしょ? 栄春様から聞いたのよ」

 断罪教会には世話になっている。鳴海が一人暮らしをしている際に発生する諸所の代金などは、全て教会に賄ってもらっていた。

 過去、鳴海は断罪教会に保護されている。生活費等々は、保護した断罪教会が責任を持って受け持つことになっていた。

「た、確かに俺は昔教会に住まわせてもらってたんで色々報告はしてますけど、でもなんでわざわざ栄春さんに聞いて……」

「気になるからに決まってるじゃない」

「えっ! な、なんで……」

「もしかして、まだ気付いて無いの……?」

 やれやれ、といった様子で騎士は肩を落とした。戦っている姿は見せ物の彫像のようだったが、こうして会話をしているとそれが嘘みたいに思えた。

「そのリング、つけたのあたし」

 騎士は鳴海の右腕にあるリングを指差した。

「ば、馬鹿言うな! これは俺が昔、一緒に遊んでた女の子が……」

 一瞬、その女の子の顔がフィードバックして胸が締め付けられた。

「だから、その女の子があたしだって言ってんの」

「は、はぁ? 俺が知ってるその子はもっとおしとやかな子で……」

「がさつっぽくて悪かったわね。あたしが知ってる男の子も、昔はもっとやんちゃで自己中心的な人だった気がするわ。ね、鳴海くん?」

 嘘だと思いながらも、名前を呼ばれたことでその女の子と目の前の騎士が、ぶれたピントが合わさるように重なっていく。

 鳴海は恐る恐る訊いた。

「さ、裁織さおりちゃん……?」

「低姿勢な割には昔の呼び名で呼ぶのね。この歳でちゃん付けはなんかくすぐったいわ」

「ご、ごめん。在科ざいかさん……」

「だからなんでそんな低姿勢なのよ……」

「えっと、その」

「……昔みたいに呼んでくれて良い」

「……ありがとう」

「別に、そんなこと言われる筋合いもないわ」

 言って、ようやく騎士はその兜を脱いだ。

 鳴海の知る少女は、見とれるほどに美しく成長を遂げていた。肩に届くほどのショートヘアに、前髪を質素なヘアピンで留めている。すっと伸びた睫毛の下には少し釣り上がった凛々しい瞳が垣間見られた。熱で上気した肌に汗が流れる様は、朝露の滴る花のようだった。少しも化粧ののっていない素肌は、若さ故かまだ瑞々しく汗を弾いた。桜色に彩られた唇がふう、と小さな息を吐いた。

 変わってしまったわけじゃない。だが、鳴海はまるで別人を見ているようだった。数年見なかっただけで、これほどまでに女性らしさを醸し出せるのかと、見とれて言葉が出なかった。

「何よ。じろじろ見ないでくれる」

「あ、いや……ごめん」

「防具としては文句ないんだけど、すっごい暑いのよねこれ。あ、匂いとか嗅ぐんじゃないわよ。ぶん殴るから」

「し、しねぇよ!」

「どーだか」

 裁織は悪戯っぽく笑った。

 しかし、ふとした拍子に伏し目がちになり、表情に影を落とした。

「久しぶり……だね」

 何かに想いを馳せるような、色のついた声だった。夜風に髪の毛が靡き、裁織はそれを鬱陶しそうに払った。

「あたし、《裁判官》になったの」

「みたい、だな。正直驚いた。俺が断罪教会から出た後、こんなことになってるなんて」

「予想以上に大変だったわ。今なら鳴海くんと腕相撲しても瞬殺出来る気がするもの」

 言われて、裁織の腰に提げられた剣を見る。明らかに重量を持った剣は、街灯の緩いオレンジを反射して妖しく光っていた。

「ね、教会を出てからどんな風だった? 元気にしてた?」

「まあ、それなりには……」

「自炊とかしてるの? 鳴海くんって昔っから生活力無さそうだったし、毎日カップラーメンとかなんじゃないの?」

「そんなことない。教会から仕送りされてんのに、無駄遣いなんて出来ないだろ。たまに外食はするけどさ……」

「ここでラーメン食べてたしね」

「う、梅ラーメンは良いんだよ。俺の憩いなんだから」

「梅? ラーメンに梅が入ってるの? うわ、まずそっ」

「……あんまり万人受けはしないかもな」

 久々に顔を合わせたというのに、ぐいぐいと押すように会話を振ってくる裁織に、鳴海は気圧されていた。教会を出て中高と学校に通ってきたが、鳴海は事情が事情なだけに人と多く会話を交わして過ごしてこなかった。今ではせいぜい、二日に一回司峰と話すくらいになっている。だからか、鳴海は自分が上手く喋れているかが心配だった。あまり舌が上手く回っている気がしないのだ。

 大体、鳴海からすれば裁織のアクティブっぷりは新鮮で慣れないものだった。記憶の限り、物静かで臆病なイメージがあった裁織が、ここまで積極的な人間になっているのだから、あたふたするのも無理は無い、と鳴海は自分で自分を納得させていた。

「学校は、どう? 楽しくやってる?」

 先ほどまでとは打って変わって、少し遠慮気味に裁織が訊いた。

「……そんなわけないだろ。俺は《赦罪のリング》をつけてんだぞ」

「だよね。安心した。忘れてたらどうしようかと思った」

「わ、忘れるわけ無い! 幾らなんでも俺だって……」

 裁織の飄々とした挑発に思わず言い返しそうになったが、途中で段々と言葉は力を失っていった。

「いや、なんでもない。そんなこと言える立場じゃないもんな……」

「……」

 裁織にはどうやっても頭は上がらない。それは、裁織にも分かっていること。

《赦罪のリング》は、断罪教会によって送られるものだが、脱着の判断は教会が決めるものではない。犯罪事件における被害者と加害者、その両者が合意の上でリングははめられるものだった。

 よって、裁織の一存で《赦罪のリング》は無くなることになる。鳴海は現在、このリングの存在によってあらゆる法的な裁きから身を守ることに成功しているが、リングが無くなれば世間的には犯罪者と同一の存在と見なされる。鳴海からすれば、裁織の温情に預かっていると言っても過言ではない。

 言わば、飼われた害獣のようなものだ。

 世間様からすれば裁織のつけた首輪によって猟銃を向けられずに済んでいるが、鳴海本人に襲う意思が無くとも、首輪を外されれば害獣は害獣。畑地を守るために撃たれても、文句は言えない立場だった。

 二人が黙り込んでいると、男の処理を終えた栄春が近づいてきた。携えた二刀が腰元で揺れて、妙な音を出していた。

「在科くん、男が目を覚ましたよ。警察の方が来ているから事情等々は君のほうからお願いできるかな」

「栄春様……承りました。行って参ります」

 最後に鳴海を一瞥すると、裁織は上体を起こし夢から覚めたような顔をしている男の下へと駆け寄って行った。

 鳴海はほっ、と安堵した。栄春はその様子を見て、そっと鳴海の肩に手を置いた。

「きちんと話せたみたいだね。まさかこんなところで君に会うとは思っていなかったけれど、良い機会だったかもしれない」

「……裁織ちゃんは《裁判官》になったんですね」

「君が一般の中学に入るために教会を出て行った時には、もう決めていたみたいだったね。女性の《裁判官》なんて聞いたことが無かったから、私も驚いたよ」

「どうして《裁判官》に……」

「さあね、理由はよく知らない。私も初めは反対していたのだけれどね、彼女の熱意に押される形で、とうとうここまで来てしまった。どうなることかと不安でもあったけど、大丈夫そうだね」

 見ると、裁織は警官服を来た男と何か話しているようだった。そこには逃げ惑っていたラーメン屋のおやじもいた。近くで腰を抜かしているところを保護されたらしい。内容は聞こえないが、仕事っぷりは傍から見ていて新人だとは思えない。凛として、彼女はその場に立っていた。

「何せ、人を裁く仕事だ。脆弱な心身では、すぐに罪悪感などに苛まれて狂ってしまう。どれだけ人事だと頭で理解していても、目の前で裁いた人間が、下手をすれば命さえ落とすかもしれないと想像するなら、まともではいられない」

「裁織ちゃんは、あまり躊躇しているようには見えませんでした」

「……の、ようだね。初めての仕事にしては上出来どころか、ベテランに匹敵するほどだけれど、ただ、一切の躊躇も無い、というのもまた問題だね」

「問題、ですか?」

 白銀の騎士の動きを思い出して、果たしてどこに問題があったのか鳴海には思い当たらず、思わず聞き返した。

「私が教えることが無くなってしまうじゃないか。あれだけ優秀だと、私も参ってしまうよ」

 言って栄春は小さく微笑んだ。しかし何か妙に影を纏った、トーンの低い声をしていた。

 鳴海が怪訝な顔をしていると、栄春は「それより」と話を続けた。

「迷惑をかけてしまったね。この辺り一体は夕方過ぎ辺りから封鎖していたはずなんだけど、まさかこんなところに屋台があるなんてね」

「そういえば、ここは教会の保護区域なのになんで……」

 街には《カルマの発現者》と呼ばれる、あの男のような能力を持った人間がいる。多くは傷害事件等でまだ逮捕されていない、所謂犯罪者たち。身体のどこかに黒い刻印を持ち、そこから《業の樹》を発生させている。法律的には容疑者の状態であるが、その刻印がそのまま犯罪者のレッテルとなるために、《カルマの発現者》たちは基本的に身を隠している。

 そして、彼らから人々を守るために設置された、断罪教会の保護区域として登録された地域が幾らか存在する。基本的には居住区となっていて、二十四時間断罪教会の監視があるために、《カルマの発現者》は保護区域には近寄らない。

 そのはずだったのに、《カルマの発現者》は現れた。今回の件で鳴海はそのことを不思議に思っていた。

「《罪無き世界の実現イノセンス》の中にある、反伊藤秀斎の派閥、所謂過激派の運動が、最近激しくなっているんだよ」

「過激派……反秀斎の派閥なんてあったんですか?」

「あった。今までは鳴りを潜めていたんだが、秀斎の断罪がきっかけとなったんだろうね、形振り構わず行動するようになってきた」

「どうしてそんな……秀斎がいなくなったから、自由になったってことですか?」

「そうとも言えるが、実際は違う。秀斎は我々断罪教会と対立する時に良いパワーバランスを作り出していたんだ。彼がいるから我々も強く前に出られないし、彼がいたから《イノセンス》の連中はそれなりに統率が取れていた。そのパワーバランスが崩れたんだ」

 栄春が秀斎を断罪する時に懸念していたことの一つだった。

 何も無い状態なら、対《業の樹》用の聖鎧と断罪の炎を持つ断罪教会が圧倒的に有利な立場にいる。しかし、それすらも凌駕する秀斎の力があったからこそ、互いは互いに手を出せない、にらみ合いのような状態が続いていた。

 だが、秀斎が消えたことで、その天秤は一気に片方に傾くことになる。

「《イノセンス》が最も恐れていたことは、我々断罪教会が強行突破を仕掛けることだ。そんなことをすれば軽い戦争になってしまうからするつもりはないんだが、彼らからすれば巨大なバックを失っているからね、過剰に敏感になっているんだよ」

「怖いから、行動するってことですか?」

「そう。秀斎クラスの力を身につけられれば教会を恐れずに済む、とそう思っているはずだ。だからカルマを吸引することを急いだり、中にはわざわざ罪を重ねようとする人間もいる。僕等からすれば、出頭さえしてくれればどうにでもするというのにね」

 嘆息を吐き、栄春は肩を落とした。

 断罪教会は何も、《カルマの発現者》を断罪することだけが仕事ではない。警察の手に負えない能力者を『保護』という形を取って一度拘束し、その後正当な裁判によって裁くケースも存在する。その際に被害者家族との和解が取れた場合に身に着けるのが《赦罪のリング》である。裁判の結果、断罪されることも少なくは無いが、教会とて無理矢理断罪するよりかはそちらのほうが良い。

 縛り付けてまで絞首台に上げようとは思わない。ただ、相手が凶器を持って街を徘徊しているというのならば話は別になる。

「今後、こういうことは無いようにしたいが、難しいかもしれない。警察の方にも一層手厚く警備するように手配してもらっているけれど、今回みたいなケースが今後起きないとは断言できない。御門くんも気をつけて欲しい」

「気をつけてって言ったって……」

 今更ながら、男に人質に取られたことを思い出して身震いした。

 下手をすれば死んでいたかもしれない、そんな日々が、続くかもしれない。そう思っただけで、気分は陰鬱になった。今回はたまたま助かっただけかもしれない。次回は、なんて考えれば、鳴海は身体のうちから体温が冷えていくような気がした。

「夜間の外出は控えたほうがいいかもしれないね。私も色々善処はしてみるよ」

「お、お願いします」

 鳴海が頭を小さく下げると、栄春も呼応して頷いた。

「さて……私は仕事に戻るけど、御門くんはどうする? 在科くんはこの後空くだろうから、食事でも誘ってあげたらどうだい?」

「えっ! いや、それはなんていうか……」

 鳴海は恨めしげに栄春を見上げた。しかし、栄春は何のことかと分かっていないのか、首をかしげて鳴海の返事を待っていた。

「止めておきます。やっぱり、彼女と話すのはまだ……」

「……辛いのかい?」

「辛い、なんて言葉は俺が吐いていいものじゃないです。ただ、まともに顔を合わせられないっていうか」

「まあ、在科くんも気にしていないと言えば嘘になるだろうしね。でも、これから顔を合わせることは多くなると思うからよろしく頼むよ。彼女はずっと断罪教会で箱入り娘みたいに育ってきたからね、世間知らずなところもあるだろうし、君が引っ張っていってくれると嬉しい」

「えっと……はい? 裁織ちゃん、断罪教会の寮を出るんですか?」

「いや出ないよ?」

「じゃあ顔を合わせることなんて別に多くはならないんじゃ……」

「そのうち分かるさ。本当はもうちょっと後で御門くんと在科くんは顔を合わせる予定だったんだけど、まあ、いいクッションになったんじゃないのかな」

「それはどういうことで……?」

「ははっ、じゃあ私は今回の処理があるから、また機会があれば話そう」

 鳴海の問いをまったく無視して、栄春は裁織と警察が話すほうへと行ってしまった。

 一人になった鳴海は、もう一度だけ男のほうを見た。男はびくびくと周りに怯えながら、警察の話を聞いているようだった。もう自分が罪を犯したという自覚どころか、記憶すらも無いのだろう。身に覚えの無い話を聞かされて困惑している。

 しばらく見ていると、同じく事情を説明していた裁織とたまたま視線が合った。何か言いたそうにしていたが、鳴海は背を向けてそれを拒絶した。

 ――帰ろう。

 喧騒を背に歩き出すと、ふっと肩の荷が降りたような気がした。しかし同時に、後ろ髪を引かれるような、ここに留まったほうがいいんじゃないかという気もした。それを振り切り、断罪教会の面々が見えなくなるまで鳴海は早足で立ち去って行った。


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