プロローグ・《神》の断罪
《神》が断罪される。
世界でも稀に見なくなった公開処刑が、日本で行われようとしていた。
トウキョウ大聖堂を中心として約二キロが封鎖され、その内部に報道陣と関係者が集まった。テープを境にして、老若男女問わず聴衆が詰め掛けている。
集まった聴衆は、固唾を呑んでその場を見守っていた。全国からこの瞬間をテレビに写そうと集まった放送局の連中が、一同にカメラを構えている。中継に来たテレビ局のレポーターは目の前の光景に言葉を失っていた。カメラマンは神の一挙手一投足を見逃すまいと、バッテリーに気を配りながらカメラを回している。しかし、どこからもシャッターを切る音は聞こえてこなかった。もはやそこでは音という音が煩わしく、生唾を飲む音でも聞こえようものなら隣人から肘で小突かれるくらいだった。
真夏日で相当な人数が密集しているため、灼熱とも言える熱気が辺りを立ち込めていた。しかし、誰も汗を拭こうともしない。
異様な光景。大聖堂の門の奥で、全長三メートル以上はあろうかという十字架が立てられていた。一面白銀で歪に輝くクロスは、まさしく神の墓標。裁きの証。断罪と赦しの象徴。ここは神の墓場であるぞと、門兵が敵を威圧するように、それは裁くものでありながら、立ちはだかるものだった。各々考えることは様々だが、皆が皆、その神々しさに圧倒される。
その十字架に、両手両足と額を鎖で縛られ穿たれた男がいた。羽織姿に足袋を履き、胸元には大きな紋章が掲げられていた。長く伸びた白髭と無造作に垂らした髪が顔の半分以上を覆っている。歳は七十前後に見える初老の男だが、その実際の年齢は二百を超える。五つの時代を生き、一つの天下を築き、化物と恐れ戦かれていたのも束の間、男は次第に《神》と称されるようになった。
名を、伊藤秀斎という。
彼は多くの人間を、罪を担うという手段を以って救った。その業績は、首元から頬まで埋め尽くされた黒い刻印の数々が証明している。羽織を脱ぎ裸体を晒せば、小さな毒蛇が蠢いて見えるようなおびただしい数の刻印が見られる。磔する際に、首元から秀斎の身体を見てしまったある男は、言いようの無い悪寒に襲われて寝込んだほどだった。担った罪の数は数千とも数万ともされているが、その実情は定かではない。
十字架の周りで、数十人の聖鎧を纏った人間が円を作るように並んでいた。鎧といっても無骨で戦場に出るようなものではなく、れっきとした集団の正装であった。汗一つ流さず銅像のように仁王立ちしており、周りの目からは本当に人間が中に入っているのかと疑問に思えてしまうほどだった。
彼らこそ、神を裁く《裁判官》と呼ばれる者。
伊藤秀斎が「罪を担う者」であるならば、彼らは「罪を裁く者」。慇懃な立ち振る舞いが、この荘厳な場を作り出している。
静寂。もはや夏の風物詩である蝉すらも鳴くことを止めてしまったかのような錯覚すら覚えるほどに、その場は静かに思えた。
秀斎の前に、一人の裁判官が歩み寄った。裁判官の中でも最も高位の、教皇と呼ばれる人間だった。腰に二刀を携え、肘までを白い手袋で包んでいた。まだ顔立ちも若く、しかしどこか威厳のある雰囲気を醸し出していた。
「伊藤秀斎殿。私はこの日を長らくお待ちしておりました」
この熱気の中、そこだけ秋風が吹いたかのような涼しげな声だった。
「黒田の末裔……か。名はなんといったかな?」
対する秀斎は、枯れた大地のようにしゃがれた声で返した。
「黒田栄春でございます」
「そう、栄春だったな。まだお主が泣きべそをかいていた頃に一度だけ顔を合わせたことがあるが、まあまだ物心付いて間もない時だった。覚えてはおらんだろうな」
「失礼ながら」
「正直でよい。その目、相当に儂を憎んでると見える。どうだ、儂を断罪出来て嬉しいか若造」
栄春の頭上から、挑戦的な調子で秀斎は言った。
「無論。黒田家が遥か過去より望んできたことの一つですので」
「……の割には、浮かばれん顔をしとるのぉ」
「そのように見えますか」
「見えるとも。千年の宿敵と決着を付けるという顔ではない」
栄春は極力無表情であるように心がけていたが、その内面は海流が渦巻くように荒れ、また迷っていた。
実際、栄春にとって秀斎は千年の敵ではない。いや、黒田にとってはそれこそ打つべき仇敵とも言えたが、栄春にはその自覚が実際の経験としてなかった。
「秀斎殿。私は、あなたがしてきたことは間違っていたと思います」
「奇遇じゃなぁ。儂もそう思うよ」
「……は?」
間抜けな答えが返ってきたことがあまりに予想外で、栄春は思わず秀斎を見上げた。そこには、不適に笑う秀斎の得意げな顔があった。
「儂が、何故自首をしたと思う?」
「何故、とは?」
「まさか儂が今までしてきたことを悔い改めるために、この場でクロスに架かっているとでも思っておるのか? だとしたら、今代の黒田は相当な間抜けということになるのぉ」
「――厭世的なのでしょう、あなたは」
茶化しにきた秀斎を一蹴するように、栄春はそう言った。
「いつだってあなたはそういう観点から世界を見ていた。そもそも、罪を担うなどと、この世界が少しでも善いものに思えているのならば決してしない行い。あなたは、世界の膿を潰すような自身の作業に嫌気が差したのではないのですか」
神は、世界で一番世界を憎んでいた。
「――明答だ。黒田」
ぞわっ、と栄春の腕に鳥肌が立った。秀斎が睨みを効かせたのだ。圧倒的な存在感の前に、栄春の片足は一歩後ろに下がった。
「厭世的と言っても、それでも儂は世界の根源とは美しいものだと信じていた。黒田は世界の果てと呼ばれる場所で、朝日を拝んだことがあるか? あれは良いものだ、闇を払うかのように差す朝日は、心を浄化されるようだった」
記憶に想いを馳せながら、恍惚とした表情で秀斎は語った。
「だが黒田よ。所詮はその程度なのだ。陽が山脈の狭間から顔を覗かせるその様に感動する、その程度の世界なのだよ。我々の空はいかに澄んでおっても、地上は天を拝まねばその世界の価値を見出すことすら出来ぬ、その程度」
言って、秀斎は空を見上げた。
手を伸ばせば、恐らく届いただろう。あの空を我が物とすることが、秀斎には出来た。その力が、彼にはあった。だが、秀斎の望む救いとは空を手中に入れることではなく、地を這う自分と同じ人のカタチをしたものを救うこと。
無理だったのだ。空を手中に収めることが出来る秀斎でも、人を救うことは困難を極めた。
哀しいと思う。哀しいとは思うが、同情はしたくない。自分も同じ人間の身であり、同様に罪人なのだ。だからこそ磔にされているのだ。両手を広げ、足首を交差させ、額を打たれたこの有様は、自分が咎人であるからに他ならない。
秀斎は、思わず自嘲の笑みを漏らした。
「人は、救われなくともよい」
天に唾を吐くような言葉だった。
栄春はその言葉を聞き届けると、近くにいた裁判官を呼んだ。断罪を執行する、そう伝えるために。
一人の裁判官が、報道陣の前に設置された壇に上がり、その場を仕切り始めた。止まっていた時が動き出したかのようにシャッターが鳴り響き、レポーターたちはこれ見よがしにマイクを前に集めた。
「これより、《罪無き世界の実現》の当主、伊藤秀斎の公開断罪を行う。彼の者は、数多の《業》を吸い上げ、罪の力を身体に宿した。自らを神と名乗り、多くの人民を惑わし、人々を救うためという口実を利用して抑圧の力を手にし、我々を貶めてきた。今こそ、この罪の権化である伊藤秀斎を断罪し、奪われた罪の浄化と憎しみの連鎖を断ち、人々に平穏を齎さんとする!」
それは革命軍の進軍だった。裁判官が壇を拳で打てば、一斉に聴衆は立ち上がり、何かに鼓舞されるように声を張った。
全員が全員、秀斎を憎み、彼の断罪を望んでいたわけじゃない。ただ、その荒波のような空気に飲まれるかの如く、その場は一瞬にして裁断場と化していた。
栄春はその様子を黙って見ていた。これが人の姿なのだと、秀斎が救おうとしていた人の姿なのだと。見せ付けられているようだった。秀斎が救われなくともよいと言ったその全貌を。
「秀斎殿。あなたはとても偉大な方だった。これだけ民衆の心を動かした人物は、あなた以外に私は知らない」
「石を投げられる存在というのも、極めれば偉人。ある意味では、儂の目指した神の形と言えるわ、かっかっか!」
「だからこそ、私はあなたを断罪することに恐れを抱いている」
「ほう……?」
栄春は掌を天に翳した。すると、どこからともなく青白い炎が集い、小さな火の玉となって手の上で燃え始めた。
「あなた一人の死によって、時代は確実に動きます。私にはそのビジョンがある程度見えている。あなたがそれを狙っているのか否か、それは私にも分かりません。ただ、事実として様々なことが変化していく。私には、それを抑える自信があまりありません」
「弱音を吐くことも正直だな、お前さんは。何、世の流れに身を任せておれば善いのだ。わざわざ逆らえぬ激流に自ら向かっていくこともあるまい」
「その流れには、逆らえないとあなたは仰りますか」
「逆らえぬよ。絶対に。人がいる限り存在し続ける感情、意識、思想。世界が始まった時、花が花粉を飛ばすようにして生まれたものだ。叩ける根源などありはしないし、あったとしてもそれは人の手が届くところにあるものでもない」
「それでも私は、あなたの犯した間違いを正してみようと、そうも思います」
「ふむ……」
百数十も歳の離れた若者に、秀斎は感心から唸った。
「《罪無き世界の実現》、あなたのやり方こそ間違っていましたが、理想とあなたの想いだけは間違っていなかったと信じたい」
「お主に肯定されても嬉しくもないわい」
「私は、あなたの理想を受け継ごうと思っています」
二人の間に小さな沈黙が生まれた。秀斎は栄春を図るように、じっと視線を送った。栄春もまた、その意識をほかに漏らさないように勤めた。
栄春を取り巻く炎が、一層激しさを増していく。轟々と燃え盛る炎の雄叫びが、外界の全ての音という音を遮断する。
「何故そう考える?」
「さて、何故でしょうか……単にあなたの理想の熱にやれらてしまっただけなのかもしれません」
秀斎の体中にある無数の刻印が、炎に反応してのた打ち回る爬虫類のように蠢き始めた。
「――あるいは、断罪教会の一員であるならば、私も同様の理想を抱いているのかもしれません」
栄春の真摯な言葉を受けて、秀斎はそれが冗談で出たものではないと悟る。
人の罪を我が物とし、世界の罪を一身に請け負おうとした秀斎。その方法こそ、今では秀斎自身ですら愚かだと感じるものだが、彼の理想はまさに《罪無き世界の実現》だった。他人が他人を怨まず、その敵意は全て秀斎へ向けられる。彼はそうして全ての罪をその身体に刻み込んだ後に、こうして断罪を受けようとしていた。しかし、それは泡沫の夢のように、理想のまま弾けて消えた。
「黒田よ。貴様も遥かなる道を歩もうと言うのか」
「私はあなたとは違う。人の罪を請け負うことが正しいなどとは微塵も思いません。だから、私は私の方法でその場所を目指そうと思います」
「成る程」
「あなたには、天より私を見守っていただきたいのです。偉大なる先人として」
「天、とな。儂は地の使いに腕を取られるだろうよ。地の獄の天井を越えるためには、蜘蛛の糸でも引き寄せなければなるまいに」
「あなたにはそれが出来てもおかしくはない」
「――言ってくれる」
秀斎は愉快そうに口元を歪めた。
真に、真に愉快だった。元より秀斎は人に認められる存在ではない。《神》と仰々しく称されるものの、ほとんどは憎しみの対象として、《悪魔》と呼ぶような調子で使われる。
しかし、この黒田栄春はどうだ。
まるで、神の成り損ねに対して吐くような言葉の数々。
私が代わりに神になってみせようと、そう宣言する様。
これを愉快と言わずに、何と言おうか。秀斎はほかの言葉を持ち合わせていなかった。
「はっ……!」
満たされていく。枯れた泉に清らかな川が流れ込むように、秀斎は胸のうちに今まで感じたことの無い満足感を得ていた。
男の身でありながら、子を出産したかのような満足感と言えばいいのだろうか、秀斎は身の内に有り余る感情を、どう表現していいのか分からなくなった。
ただ、そう。自分は終えたのだと確信が持てた。二百年、あまりにも長き時を経て、ようやく自分は人としての死を迎え、この身がしてきたことを種子として地に残すことが出来たのだと。
秀斎は力強く呟いた。
「行け。貴様が指揮を執らねば断罪は始まらない」
「では……?」
「期待に応えよう」
「――」
栄春はその場を離れ、裁判官がいる講壇へ行った。
カメラのフラッシュがすっと止んだ。熱に冒されたように激しさを増していた聴衆たちが皆、栄春を前にして様々なものを飲み込んだ。
さて――。
果たして、この民衆のうち、何割が秀斎の死によって変化するだろうか。集まった人間の一人一人の顔を流し見する。本当に老若男女様々な人間が集まっている。このうち何割が、秀斎を憎んでいることだろう。
秀斎は笑うのだ。自分を憎んだ全ての人間を笑う。
――儂が、貴様等の罪を贖うのだ、と。
背後にひしひしと感じる秀斎の存在。この強大なるものが、今失われようとしている。栄春の、自らの手によって。
燃え盛る炎は、逆巻き、圧縮し、棒状に形を留めた。形状は槍、これで秀斎の心臓を貫く。
「断罪を、行います」
深呼吸。
この一投を、決して蔑ろにしない。意識する、刻み込む、栄春の身体と精神に、秀斎が身に纏ったカルマの刻印の如く覚えておく。
槍を振りかぶり、力んだ拳をふっ、と解放した。
秀斎の心臓目掛けて強く槍が放たれる。
「――」
直撃。
業火に飲み込まれる。秀斎は全身が焼け爛れたような熱を感じた。否、焼かれているのだからそれは当然。秀斎の目の前が一瞬にして青き炎に包まれる。視界からあらゆるものが焼失し、深海に引きずり込まれていくような圧迫を身体中に感じる。歯が溶け、舌が焼ける。全身を締め上げていた大蛇が、肉の痛みと共に絶叫を上げていた。
だが、秀斎はただの一声すらも口にしない。周りで見ていた民衆は秀斎がどのような悲鳴を上げるのかを想像していた。しかし、その期待は真っ向から裏切られる。轟々と燃え盛る炎の咆哮のみが彼らの耳を震わせる。ただ、それだけで十分だった。目の前で人が焼かれて死のうとしているのだ、ただそれだけで異様だった。
天を突くように上がった火柱の周りを、黒い塵が舞っていた。秀斎の身体を覆っていた刻印の燃え滓だった。彼の命を散らすかの如く、刻印は灰燼と化していく。
燃える。まだ燃える。炎は燃料となる罪を喰らい続ける。
その時、観衆から沸きあがるような声が上がった。お祭りで花火が上がったのを見るかのように、その光景を突然祀り上げ始めた。嬌声、罵声、奇声、様々な感情が化学反応を起こし、バチバチと鼓膜を破るほどの音を上げていた。
――これが、人。
栄春は祈った。頭を垂れ、胸の前で小さな拳を作る。栄春は消え行く《業》に想いを馳せた。
神か仏か、はたまた肉眼では見えない超人的な何かか。
なんでもいい。
我が祈りに答えよ。
報われぬ。あまりにもこの男は報われない。
だからせめて。
――彼の男の罪を赦し給え。