誰が為の魔王 ~過去に戻った魔王、人間の子どもたちを非常食として飼う~
目を覚ました先には、鬱蒼とした木々が広がっていた。
剣や魔法によって傷つけられた痛みはない。不思議に思い、自分の体を確認する。
どこにも傷はない。
――いや、違う。
体の形態が昔に戻った、と言った方が正しい。
つるっとした五本指を動かしながら思う。
だってさっきまでの私に指はなく、代わりに鋭い爪が生えていたのだから。
(……いや、まだだ。そう決めつけるのはまだ早い!)
手を握りながら立ち上がると、水が流れる音がする方へと私は走った。
二本足だけで移動するなど、いつぶりだろうか。
だがこの体の足は短くて、思ったよりも速く進めない。本来の形態であれば、八本の足であっという間に辿り着くのに。
だがその苛立ちも、清流が見えたときには消えていた。
心の臓が強く脈打っている。
柄にもなく緊張しているのを感じながら、私は滑り込むように川岸に座り、大きく身を乗り出した。
肩から滑り落ちた長い黒髪が、川の流れで揺れている。それを頭の隅で邪魔だと思いつつも、水面に映る自分の姿に視神経を集中させた。
眉上で真っ直ぐに切りそろえられた前髪と大きな黒目が見えた。さらに水面が、痩けた頬と浮き出た鎖骨を映し出す。
ボロ雑巾のような衣服を身に纏った、人間の雌がいた。
しかし首の付け根から突き出た二本の触肢が、それを人外であることを示していた。
「嘘……だろ?」
唇が無意識に動く。
水面に映る雌の表情が酷く歪んで見えるのは、川の流れのせいだけではないはず。
水面から顔を上げると、周囲を見回した。
つい先ほどまでは、自分の姿を確認することに必死で、周囲に気が回っていなかった。だが改めて確認すると、この場所にも見覚えがあった。
いつだかは覚えていない。
だが、
(昔――私がまだ【魔族】と呼ばれていた時代に過ごしていた場所……)
いや、でもおかしい。
だって私はつい先ほどまで、自身が築き上げた城の玉座で戦っていたのだ。
世界平和を掲げ、【魔王】たる私に挑んできた三人の勇者たちと――
死闘。
まさしくそう評するに値する戦いだった。
一人一人の力が強いだけでなく、連携も素晴らしかった。
杖を持った人間が活路を開き、ヒラヒラした服の人間が傷を癒やす。そして二人から補助魔法を山ほどかけられた剣士が、人の手には余る大きさの大剣を私に向かって振り下ろす。
私の体は甲殻に覆われている。
世界一固い鉱石で造られた武器すら通さぬそれを、剣士に何度傷つけられたか……くぅぅ……
やつから渾身の一撃を食らい、私の体がよろけたときに、ヒラヒラした服のやつが放った閃光が、最後の記憶だ。
そして目覚めたら、森の中。
城は?
配下たちは?
勇者たちは?
死闘は?
世界の命運は?
どこ飛んでった?
そして、魔族に戻った体と、蘇るこの場所の記憶――
間違いない。
いや、間違っていて欲しいが、間違っていない。
私は大きく息を吸い込み、心臓の鼓動四回分だけ呼吸を止め、一気に吐き出した。
「何で、過去に戻ってるんだぁぁぁぁぁぁ!?」
絶叫に驚いた鳥たちが、一斉に空へと逃げていく。
木々が揺れ、落ちた葉が私の頭の上に乗った次の瞬間、この体が前に倒れ……大きな水しぶきをあげて川に沈んだ。
え、どゆこと?
ええ? どゆこと?
その言葉だけが、ぐるぐると脳内を回る。
プカッと水面に浮かび見えた空は、私の魔素で赤黒く染まった空とは正反対にある、澄み切った青色だった。
*
ある程度川に流された頃、私はやっと現実を受け入れた。
酷い空腹を感じたからだ。
ひとまず今が過去、そして自分が魔族であることを認識すると、私は森の中へと歩き出した。
(……獲物を見つけられればいいんだが)
と不安を抱えながら。
この頃の私は魔族の中でも弱かった。魔力が少ないため魔法が使えず、獲物を見つけるのが苦手だったため、餌を得るのに苦労していた。
背中から出した糸を張り、獲物がかかるのを待つ。
そうやって、生まれながら持っている身体的能力に頼ることしか出来なかった。
だからこの頃は、常に腹をすかせていた記憶がある。
そんな私が何故魔王になれたのか、謎だ。
魔族として突然この世界に生まれ、気づけば魔王になって人間を根絶やしにしようと奮闘していた。
何故人間を根絶やしにするのか?
簡単だ。
私が魔王だからだ。
世界に混乱をもたらし、人間を滅ぼす存在が魔王――そう求められているからだ。
さて。
私は触肢をすりあわせると、周囲に意識を向けた。下手なりにも、新鮮な肉の気配を探ろうとしたのだ。
しかしそんなことはせずとも、新鮮な肉『たち』は向こうから現れてくれた。
「うわぁぁぁーーーーん!」
聴覚を麻痺させるような音が、森中に響き渡った。
甲高い鳴き声だ。
何の動物だろうかと思ったとき、私が理解出来る言葉が聞こえてきた。
「な、泣くなよ、9番……獣に見つかるだろ?」
「にーしゃん……お腹すいたぁ……」
「うんうん、分かってる。5番。何か食べられる実を探すから静かにな?」
「うん……」
私が理解できる言語を話すのは、魔族をのぞくとたった一種。
――人間。
口の中に溢れた唾液を飲み下すと、喉が大きく動いた。
消化器官が動き、腹が空腹を訴え出す。
水分だけでは満たせぬ喉の渇きが起こる。
(新鮮な肉……食べたい……食べたい食べたい……)
思いっきり牙を突き立てたい。
溢れ出た血を啜りたい。
私の背中から飛び出した糸が周囲の木々と絡まり、いい感じの網となった。
(さあ、来い……)
土を踏む複数の足音が近づいてくる。
私は咄嗟に木の陰に身を隠すと、獲物が網にかかるのを待った。
現れたのは、予想通り三匹の人間だった。
しかし同時に、私はがっかりした。
獲物たちが小さかったからだ。
一番大きな人間でも、私の肩にくるかどうかぐらいの高さしかない。
残り二匹に至っては、もっと小さい。
一番でっかい人間と手を繋いで歩いている方は、私の腰辺りしかなさそうだ。
もう一方の小さい方に関しては、でっかいのに抱き上げられているため、大きさの詳細は不明だ。だが抱き上げて歩けるのだから、三匹の中で一番小さいと思って間違いないだろう。
それにしても小っさいのの鳴き声がうるさくてかなわん。
とはいえ、肉は肉。
小さくとも前菜ぐらいにはなる。
空腹には逆らえなかった。
(もう少し行け! そうすれば、網にかかる)
私の緊張と興奮を表すように、触肢がゆらっと揺れる。
固唾をのんで見守っていると、でっかい人間の足が不意に止まった。
前方を見たまま動かない。
歩いていた中っくらいのも、止まっている。
(罠がばれたか?)
焦りが生まれた。
しかしすぐさま何だか様子が違うことに気づく。
中っくらいのが、大きく肩を震わせているのだ。
二匹の様子から何かを察したのか、小っさいのの鳴き声も止まった。
ブルルルル……
人間とは違う鳴き声……いや獣的な唸り声が聞こえた方へ、私は目を向けた。
三匹が向かおうとしていた方向――私が張った網を挟んだ向こうに、ブルがいたのだ。
私の体の二倍以上はあるだろうか。真っ赤に充血した目を、三匹の人間たちに向けている。
ブルは獰猛な獣だ。気性も荒く、手当たり次第に突進してくる習性がある。厄介なのが、筋肉質で固い巨体と、頭に生えた大きな角。
だが――
(肉は美味)
次の瞬間、ブルの体がバラバラになった。
周囲の木々に塗料をまき散らしたかのように、辺りが赤黒く染まる。
私が張った網が、もの凄い勢いで突進してきたブルの体を引き裂いたのだ。
心が歓喜で震えた。
これだけの肉があれば、空腹を充分満たせる。
足下に転がってきた肉を手に取ると、触肢が感触や匂いを確かめるように蠢いた。
大きく口をあけ、一気にかぶりつく。
……うん、旨い。
乾いた土に水が染みこんでいくように、飢えた体をブルの肉と血液が潤していく。
一心不乱に肉に食らいつく。
そのとき、
「あ、あのっ……」
人間の鳴き声がした。
五つめの肉の塊を口にしようとした私の手が止まった。
視線を向けると、地面に座り込んだ三匹の人間たちが私を見上げていた。先ほど鳴いたのは、でっかいののようだ。
ブルの肉が大量に手に入った今、食べ応えのない大きさの人間たちに興味は無く、食べる気も起こらない。
「……にゃんは?(何だ)」
肉にかぶりつき、かみ砕きながら問う。もっちゃもっちゃと音を立て、唇の端から血を垂らしながら、でっかいのを見る。
ああ、そうかと納得をする。
こいつは私が魔族だと気づき、恐れているのだ。
糸と触肢に、ブルを屠る圧倒的な殺傷力を見せつけられれば、そうなるのも仕方ない。
優越感がこみ上げる。
だが次の瞬間、
グゥゥゥ……
でっかいのから大きな音が鳴り、
「……そ、そのお肉……僕たちにも分けてもらえませんか?」
先ほどの鳴った音を出した生き物とは思えないほど小さな声が、でっかいのの口から零れた。
*
(良く食うな……)
私は、ブルの肉に食らいつく三匹の人間を見ながらそう思った。
いやまあ私の方が、あの三匹よりも食べた。しかし魔族は、一度空腹を満たせば、長く食べずとも生きられる、非常に燃費の良い生物なのだ。
数十日食事を抜けば簡単に死んでしまう人間とは違う。
それに、
(肉を何故焼く?)
火を通し、表面が黒くなった肉を見ながら思う。
生で食べた方が手間もかからず、絶対に美味しいはず。
新鮮さこそ至高。
私の視線を感じたのか、でっかいのが串に刺して焼いた肉を私に差し出してきた。
「ご、ごめんなさい……お肉分けて貰ったのに、僕たちばっかり食べて……」
……おいおいおいおい、新鮮さを侮辱したかと思ったら、今度は私を舐めてるのか?
焼いた肉を物欲しそうに見ていると思ったのか、この下等生物が。
私はいずれ魔王となる存在だぞ?
馬鹿にされたと思い、肉から顔を背けたが、中っくらいのと小っさいのが何やら鳴いている。
「にーしゃん、美味しいね!」
「おいちー」
小さいながらにもちゃんと歯があるようで、肉にかぶりついている。口の周りは油でベトベトだ。
美味しいとしか鳴かなくなった人間たちを見ていると、目の前に差し出された焼き肉に少し興味が湧いてきた。
どうせ旨くはない。
どうせ旨くなど……
「うまぁぁぁぁぁっ!!」
なにこれ。
鼻を突き抜けていく香ばしさ。いつもは口の中がねちゃねちゃする脂肪部分が熱で溶かされ、強烈な旨みとなって味覚を刺激してくる。
旨すぎる……
肉って焼くとこんなに旨くなるのか……
あっと言う間に肉串一本を平らげると、でっかいのが二本目をスッと差し出してきた。
そいつを素早く奪うと、香ばしさを噛みしめながら、でっかいのに問う。
「でっかいの。お前ら何故ここにいる。親はどうした」
こいつらは、恐らくまだ子ども。人間の子どもは、大人の人間の庇護下にある。
人間の子どもの傍には、常に大人の人間がいるはずなのだ。
でっかいのが、囓りかけていた肉串を下ろした。中っくらいのと小っさいのを交互に見ると、最後に俯く。
「……僕らに親はいません。売られそうになったところを逃げてきたんです。この子たちとも血は繋がっていなくて……」
「ふうん」
こいつらを庇護する大人の人間がいない、ということだけは理解した。 それだけ分かれば充分だ。
三匹に興味を失った私は、再び肉を食おうとした。
しかし、
「……あ、あのっ! お願いがあります!」
でっかいのが自分の肉を全部口に入れて飲み込んだかと思うと、もの凄い早さで私の前で土下座をしてきたのだ。
額を地面に擦りつけながら、鋭い鳴き声をあげる。
「ぼ、僕たちを守って貰えませんか!? この森にはさっきみたいな獰猛な獣が多くて……あなたは強いし……そ、その代わり、何でもしますから!」
でっかいの行動を見た中っくらいのと小っさいも、私の前で土下座した。
大・中・小、それぞれ違う毛色の後頭部が、私に向けられる。
……いや、なにこれ。
意味が分からん。
これ以上、混乱させられるのはごめんだ。
ならばいっそのこと殺して食ってもいいかもしれない、と考えたところで、名案が浮かんだ。
(非常食として飼ってもいいかもしれない)
人間は大きくなる。目の前の三匹が大きくなれば、さぞかし食べ応えがあるだろう。
それに庇護している限り、三匹は私の傍にいる。わざわざ獲物を探す手間も省ける。
獲物を育てて食うという初めての発想を見いだした私は、自身の思いつきに小躍りしそうになった。
が、実際小躍りはせず、肉串を食べきると、残った串をでっかいのに向かって投げつけた。
痛てっ、と鳴いて、でっかいのが顔をあげる。その顔に、にんまりと笑って見せた。
「いいだろう、でっかいの。そこの中っくらいのと小っさいのも含め、まとめてお前らを庇護してやろう」
「あ、ありがとうございます!」
そう叫ぶと、でっかいのは小っさいのと中っくらいのを抱きしめた。
明るい鳴き声が、三匹から発された。
この鳴き声は、喜んでいるのか?
(馬鹿だな……非常食として飼われるだけなのに)
私の目論見も知らず、無邪気に喜びを奏で続ける三匹を見下ろし、心の中で嘲笑った。
*
とはいえ、人間の子どもを飼うには、色々と準備がいるようだ。
まずは住処。
魔族と違い、人間には巣がいる。
だが私の記憶によれば、この森には巣に最適な洞窟があったはず。
餌についても問題なさそうだった。
この森には獰猛な獣が多く、人間たちが近寄らない。そのため、餌となる草木も多いのだ。
肉が必要となれば、こいつらを囮にしてブルでも狩ればいい。
これで飼育の計画は立った。
あとは実行のみ。
「おい、小っさいのと中っくらいの。お前らは寝床に草を敷け。あとでっかいの、お前は川から水を汲んでこい」
巣作りの準備を命令すると、中っくらいのが生意気にもキーキーと甲高い声をあげた。
「中くらいって名前じゃないもんっ! 5番だもんっ!」
「はっ?」
名前の話をしているのに、何故5番なのか。
疑問が声に出たとき、でっかいのが私に詫びた。
「ごめんなさい、5番が失礼なことを。僕たちは番号で管理されてて、名前がないんです」
「中っくらいのは番号を名前だと思っているのか?」
「はい。ちなみに僕は11番。あの子が9番です」
でっかいのが小っさいのを指さしながら言う。
が、問題はそちらではない。
「……今なんて?」
「だから僕が11番、あなたに口答えをしたのが5番、そして一番小さい子が9番です」
何故番号に規則性がない?
呼ぶときに、考えないと駄目なやつだろ。
「あのっ……もう一度言いましょうか?」
「……いらん」
私は首を横に振った。
三匹の顔をそれぞれ見つめ、大きく息を吐いた。
せせら笑いながらでっかいのに説明してやる。
「私には、お前たちの顔の見分けがつかん。だからそもそも名乗られたところで意味が無い」
「えっ? そんなこと……」
「なら、お前はブルの見分けがつくのか? 生えている植物一本一本の見分けがつくのか?」
「つ、つかない……です……」
「それと同じだ。だから名は不要だ。お前らのことは体格で呼ぶのが一番いい」
名前の話は終わりにし、早く水を汲みに行けとでっかいのに命令しようとしたとき、
「だから僕のことをでっかいのって呼んでたんだ……でも呼びにくそう……」
という、でっかいのの発言に、
(……確かに、一理ある)
と、私は眉間に皺をよせた。
特に、【中っくらいの】が一番呼びにくいのだ。
しかし、あいつらの番号で呼ぶのはややこしい。かといって、特有の名前をつけたところで見分けがつかない。
(言いやすくて、さらに迷わない呼び方……)
少し考え、でっかいのを指さした。
「お前はこれから【グラン】だ」
次に中っくらいのを指さす。
「お前は【メディ】」
「メディ?」
そう聞き返す中っくらいの――もといメディの反応は、先ほどと比べて大人しかった。
反応は悪くない、ということか?
まあいい。
最後に、
「で、そこの小っさいのが【ピッコ】だ」
命令もきかず、草の上でうつらうつらしている小っさいのを指し示した。
グラン・メディ・ピッコとは、何かの言語で【大・中・小】という意味にあたる。
これなら呼びやすいし、私も迷わない。
己の博識さに、目眩すらしそうだ。
「……グラン……あ、ありがとうございます! 僕、今日からグランって名乗ります!」
「メディも、メディも!」
これは、私が庇護すると宣言したときにあげていた鳴き声と同じ高さだ。
つまり喜んでいるのだろう。
ただ、大・中・小を言い換えただけなのに。
(本当に人間とは愚かだな。言葉の意味も知らずに喜んでいるとは……)
私が授けた名とも言えぬ名を呼び合う二匹を見ながら、心の中で嘲笑う。
ピッコを草の上に寝かせながら、でっかいの――グランが私に聞いてきた。
「あのっ、あなたは何という名前なのですか?」
グランに問われ、私は記憶を探った。
私には元々名前はない。
だが今から未来……といっても私にとってはついさっきのことなのだが――私は人間たちからこう呼ばれるのだ。
「魔王マーテル。私のことはそう呼べ」
グランとメディが、ブルと出会ったときのように恐怖する姿を想像したのだが、
「魔王マーテルですね? 分かりました!」
「まおー!」
おい、お前ら!
魔王の意味が、分かっているのか!?
名付けられて喜ぶときと同じ鳴き声の高さで反応する二人に、私は心の中で頭を抱えた。
*
「おい、ピッコ! ぐずぐずするな! グラン、隙を見せるな! ……よし、いいだろ」
「はぁー……しんど……グラン、打ち込み強すぎ」
「ピッコ……お前がそれ言う? 見ろよ、この痣を……」
グランがシャツの腕をまくり、ピッコに打たれて出来た青たんを見せる。
ピッコは気まずそうに視線を逸らすと、ペロッと舌を出した。
自分が悪いのをごまかすときの、こいつの癖だ。
大木の根元を一瞥すると、本を読んでいるメディが見えた。
相変わらずな奴だと大きく肩を落とすと、大股で近づき、メディから本を取り上げた。
「おい、メディ。お前もたまには体を動かせ。だからピッコに背を抜かれるんだ」
しかしメディは私から本を取り返すと、私がいる方向とは逆の方を向いて寝転がった。
「いいの。俺は頭脳担当だから」
「……何だそれは」
奴の頭を足先で突くと、メディの顔面に分厚い神書が落ちてきた。
「い、痛っ! ま、マーテル、止めろよ、もうー!!」
というメディの叫び声が響き渡った。
後ろで休憩しているグランとピッコが、魔王を頭につけるの忘れてるよー、と呑気に言っているが、
(お前らだって、つけてないだろうが!)
と心の中で叫びながら、後ろの二人を睨み付けた。
気づけば、あっという間に三匹は大きくなった。
小さかったピッコも、私の背に近づきつつある。ピッコに抜かれてしまったメディも、私と視線が同じになりつつある。
グランに至っては、早々に私を追い抜いていった。
三人ともよい体格になってきたので、そろそろ狩りを教えなければならないと思い、ひとまずやる気のあるグランとピッコを鍛えているところだ。
こいつらが狩りを出来るようになれば、私も楽が出来る。
そう思っての指導だった。
まだまだ二人とも弱い。
だが特にグランは、戦いの素質がある。このまま私が教えてやれば、ブルなど簡単に屠れるほどの腕前にはなるだろう。
再び訓練を始めた二人、そして寝転んだまま本を読み始めた一人を視界に収めつつ、私はこれからのことを考えた。
もともと非常食として飼いだしたが、別の活用手段があるのではないかと考えるようになっていたのだ。
というのも未来の私は、人間たちの反撃に手を焼いていた。
中でも、リトラース帝国への侵攻は非常に手こずった。
最終的に魔王たる私自らが向かい、滅ぼしはしたが、戦力を整える時間が必要なほど被害が出た。
確か、配下の三分の一を失ったか……
だがもし、私の手足たる人間を、リトラース帝国内に送り込めたら、どうだろう。
未来の戦いの際、大きな損害を受けずに済むかも知れない。
(こいつらは私に忠実だ。鍛え上げ、人間の軍に送り込めば、内部をかき回すことも可能……)
幸いにも、未来の人間軍はどこも人手不足だ。そんな中、腕が立つ人間が現れれば、簡単に懐に入れてしまうに違いない。
そのまま武功をあげさせ、軍の中枢に入り込むのもいい。下手すれば、戦争する前に勝利を収めることができるかもしれない。
(天才か? 私は……)
何故過去に戻ったのか、今でも理由は分からない。
しかし最近では、逆にチャンスではないかと考えるようになっていた。
自分の頭脳に戦いていると、
「ねえ、マーテル?」
「うぉっ!?」
音もなく私の視界に入り込んできたピッコに、思わず声をあげてしまった。
未来の魔王たる私が、慌てるなど柄にもない。
魔王の私は、もっと冷酷で、もっと残酷で。人間を滅ぼすことしか考えていない、無慈悲な存在であり、
人間たちにとっての絶対悪なのに――
そんな畏怖すべき存在である私に、ピッコが抱きついてきた。勢いが良かったため、受け止めきれず、後ろに倒れてしまった。
咄嗟に触肢で支えたため、後頭部をぶつけることは回避できたが。
「ピッコ……お前いい加減にしろ! 魔王を押し倒す奴がいるか!」
私の上に乗っているピッコに怒鳴りつける。しかし私の目の前に映ったのは、口角をあげ、目を細めたピッコの顔だった。
「マーテルって、私がピッコだって分かるようになったよねー?」
「……えっ?」
呆けた声を出す私の視界に、グランとメディが映り込んできた。
二人ともお互いの顔を見合わせると、うんうんと頷いた。
「そう言えばそうだな。確かマーテルって、俺たちのことを体格差で判断してるんだっけ?」
「ピッコがメディの背を抜いたときも、間違えなかったしね」
メディの発言にグランが頷く。
三人に指摘されて、初めて気づいた。
人間の顔の見分けがつかない私が、体格差が変わった今でも、奴らの名を間違えていない事実に――
三人は私から視線を外し、互いの顔を見合わせると、あははっと声をあげた。
その表情には、笑顔が浮かんでいた。
――笑顔。
嬉しいときに浮かべる表情。
同時に疑問も湧く。
私はいつからそれを判断出来るようになったのだろうと。
何故か胸の奥が熱くなった。
だが、
「……当たり前だ。お前たちにはこれから色々とやって貰わねばならないことがある。顔の見分けがつかなければ、困るだろ」
意味の分からない体の反応に気づかないフリをし、私は三人をかき分けるようにして立ち上がった。
*
(全くあいつらは……体だけがでかくなって、中身は全然変わらん!)
そんなことを考えながら、私は森の外を歩いていた。
魔族に時間感覚はない。
ある時、突然ここにいることを意識する。多分そのときに『生まれている』のだろう。
巣と餌があればでかくなる人間とは違い、魔族は成長しない。だが突然、膨大な魔力に目覚める変異体が発生する。
溢れ出る魔力に惹かれ、魔族たちが集まってくる。それは大群となって溢れ出て、やがて人間が住まう土地を侵す。
その変異体を魔王と呼ぶ――とメディが集めた神書に記されていた。廃屋となった教会で、うち捨てられていた物を気まぐれで持ち帰ったのだが、メディの心を捉えたようで、そこから本の虫となってしまったのだ。
だが問題ない。
教会も、やがて我が障害となるからだ。あいつらは、魔法使いとは違う魔法――法術が使えるため厄介なのだ。
メディを教会に潜り込ませ、内部から破壊するのも面白い。
あの三人が大きくなってからは、私は森を出て周囲を探索することが増えた。
人間の暮らしを観察し、人間の道具を持ち帰り、私の初めての配下である三人の教育に当てた。
全ては、いずれ魔王となる私の足場を固めるため。
だが肝心の私は、未だ魔王となっていない――
夕日が照らす森を遠目で見つめながら、ぼんやりと考える。
魔族たちが恐れ敬う魔王。
世界の絶対悪たる魔王。
人間を根絶やしにするために私は存在している。
しかし魔族である今の私には、人間を根絶やしにする理由も必要性もない。
もしこのままずっと魔族のままだったらどうなるのだろうか。
今の日々が、続くのだろうか。
――ずっと。
(そんなわけがない。私は魔王になる未来が確定しているのだから)
それに、魔王でない自分など想像できない。
出来ないのに……それを否定出来ない自分がいる。
何故、と己に問う。
だが答えはなく、代わりに閉じた瞳の裏にあの三人の笑顔が思い浮かんだ。
(まあいい)
瞳を開く。
私に時間は関係ない。
魔王になるのは今から遠い未来なのだろう。
そのときが来れば、きっと――
「……えっ?」
視界の端に見えた橙色に、私は声をあげた。
それは瞬く間に範囲を広げていく。
炎だ。
森が燃えている。
そしてあの方向は――
「グラン、メディ、ピッコぉぉぉっ!!」
気づけば、三人の名前を呼びながら全速力で走っていた。
森の中は酷い熱さだった。だが私を傷つけるほどではない。
三人は大丈夫だと何度も自分に訴え続ける。
グランは体が大きい。
障害があっても、難なく脱することができるはずだ。
メディは頭がいい。
炎から脱する方法を思いつき、二人を導いているはずだ。
ピッコは機転が利く。
不測の事態が起こっても、あいつなら何とかするはずだ。
大丈夫だ。
だいじょう、ぶ、だ――
しかし私が洞窟の前で見たのは、明々とした炎に照らされた、三つの体。
大・中・小の、体――
「あっ、あぁ……」
声が零れた。
これほど掠れて震えた声を出したのは、初めてだった。
ふらつく足下を何とか堪えながら、三人の元へと向かう。
三人は、折り重なって倒れていた。
地面には、真っ赤な血が染みこんでいる。二つの血の筋が、三人の体がある場所で交わっている。二人は別々の場所でやられたのだろう。
地面をよく見ると、たくさんの足跡があった。
獣ではない。
靴跡――つまり人間。
魔族ではないと判断したのは、周囲が荒らされていたこと、三人の体が食べられずにあることが理由だ。
「ぐ、グラン……メディ……ピッコ……」
血を流し、動かない三人の名を呼びながら手を伸ばす。
次の瞬間、ピッコの悲鳴が頭の中に響き渡った。それが消えると同時に、人間たちの映像が目の前に浮かび上がり、頭の中に低い怒声が響いた。
『誰が女を殺せと言った! 男を殺れって言ったんだぞ!?』
『すまない。あいつ妙に強くてさ、手元が狂って……』
『……くっそ。久々の獲物だったんだぞ!? なのにとんだ骨折り損だ』
チッと言う音がしたかと思うと、倒れているグランとメディの上にピッコの体が放り投げられた。
その光景に息が止まった。
だが、
『ピッコまで……許さない……ゆるさないっ!』
グランの声がした。
耳障りな鳴き声が、男たちから巻き起こる。
『まだ生きてるのか、お前。許さない? 誰が? 何を?』
『あぁぁああっ!!』
次の瞬間、グランの悲鳴が響き渡った。男がグランの頭を踏みつけたのだ。
喉の奥が詰まり、私の息が乱れる。
グランの呻き声と悲鳴が続き、次第に弱くなっていく中。
『マーテル……』
ポツリとグランが呟いた。
その声色だけで、グランの命が尽きる寸前だと伝わってくる。
体全てを聴覚にし、グランの言葉を聞き取ろうとしたが、耳障りな低い鳴き声によってかき消されてしまった。
『マーテル? ああ、この坊主も言ってたな。マーテル、マーテルー! ってな!」
『そういえばこの女も言ってたな。助けて、マーテルぅぅー! って』
メディとピッコの言い方を真似ているのだろうか。
吐き気がする。
これ以上聞きたくなくて耳を塞いだが、声は止まらない。私を嘲笑うように、頭の中で響き続ける。
全身が冷えているのに、胸の奥だけが熱い。
そんな私の中で、グランの声がした。
『マーテルは……魔王、だ。お前たちなんて……お前たち、なん、て……』
ここで、魔王という単語がグランの口から出て驚いた。
信じていたのだ。
私が魔王であることを。
しかしグランの声は、耳が腐りそうになるほど醜悪な鳴き声によってかき消される。
『魔王様か! いいねぇ! 連れてこいよ、その魔王ってやつを!』
『魔王が現れれば、世の中が混乱に陥る! 教会や兵士たちの監視もなくなって、俺たちも商売がやりやすくなる!』
『早く人間を殺しにきてくれよ、魔王様ー! 俺ら、腹が減ってしんじゃうよー!』
酷くひび割れた雑音の中。
かすかにグランの声を聞いた気がした。
『……マー……テルお母さ……ん』
と――
男たちの姿が消え、積み重なった三人の体だけが残った。
不快な雑音は、気づけば炎が爆ぜる音へと変わっていた。
「ははっ……あははっ……」
三人の体を見つめる私の口から、笑いが零れた。
何故笑っているのか、分からなかった。
何故景色が揺らぐのかも、分からなかった。
私が手塩にかけて大きくした非常食を、無駄にされた。
私が手塩にかけて育てた配下を、無駄にされた。
ただ気まぐれで飼っていただけなのに、何故これほどの殺意が生まれているのか――
グランの頭を撫でながら呟いた。
「大丈夫だ。私が殺す。お前たちを殺したあいつらを、皆殺しにする」
しかし、残酷な事実に気づいてしまう。
私は、人間の顔の見分けがつかない。
男たちの顔は見たが、体つきの違いしか分からなかった。
そのとき、耳障りな鳴き声が蘇った。
『連れてこいよ、その魔王ってやつを!』
男たちが、魔王を求める声が――
胸の奥が熱くなる。
憎しみが膨らみ、はじけ飛ぶ。
背中から無数の糸と、巨大な八本の節足が飛び出した。胸の奥から魔素が噴き出し、木々もろとも吹き飛ばす。
膨大な魔力の本流に押し流され、消えそうになる意識の中、ああそうか、と声がした。
簡単なことだ。
本当に単純で、恐ろしいほど簡単なことだ。
――人間を、皆殺しにすればいい。
「お前たちが望んだのだ、魔王を」
それが魔族だった私が発した、最後の言葉だった。
*
魔王となった私は人間を殺した。
たくさん殺した。
たくさん、たくさん殺した。
たくさん、たくさん……気が遠くなるほど戦って、殺して……気づけば人間を皆殺しにすることしか、記憶に残っていなかった。
本当に、
本当に大切なことを、忘れてしまって――
私は目を開いた。
そこに広がるのは、魔王たる私が築いた城。
そして、私と死闘を繰り広げていた三人の勇者たちの姿……今も、昔も、私を散々手こずらせ、煩わせた存在たち。
何故、分からなかったのだろう。
私がこの世界でたった三人だけ見分けがつく、人間たちなのに――
景色が揺れた。
しかし瞬きをすると、それは生暖かい滴となって頬を伝っていった。
「グラン、メディ、ピッコ……」
武器や杖を構えていた三人の肩から力が抜け、表情に笑顔が浮かぶのが見えた。
「良かった……俺の法術が効いたみたいだ……」
メディの呟きが聞こえた。
グランは剣士となっていた。あいつは昔から剣筋が良かったから、納得しかない。
メディはひらひらの服――聖衣を着ていた。メディはずっと、神書を読んでいたし、こちらも納得だ。
ピッコは杖を持っているので、魔法使いだ。だが、魔法使いの素質があったか? でもピッコは昔から機転が利くから、そちらにも向いていたのだろう。
私にとって特別な存在たちが生きていた。
もうそれだけで充分だった。
だが、全てを思い出した今だからこそ、違う感情も同時に生まれた。
多くの人間たちを殺した罪悪感だ。
私が魔王となったきっかけは、確かに人間だった。しかし、三人を失った私と同じ絶望を、死を、関係のない人間たちにもたらしたのだ。
食べるわけでもなく、ただ感情のまま殺したのだ。
罪悪感を抱えたまま、勇者として戦い続けてきたこの子たちと生きることはできない。
私は、下に向けられていたグランの剣を掴むと、鋭く尖った剣先を喉に突きつけた。
三人の瞳が大きく見開かれる。
だが受け取って欲しい。
罪を犯した私が、お前たちに与えられる唯一のものを――
剣先が喉の柔らかい部分にめり込んだ。
「どうか私を殺し……お前たちの手柄にしてくれ……」
*
魔王は倒された。
だが勇者たちも相打ちとなって死んだ。
人々は勇者たちを讃えた。
しかし誰も知らない。
幼かった勇者たちを庇護し、育てたのが魔王自身であることを。
魔王を産みだしたのが、争いを望む人間の醜さであったことを。
誰も知らないのだ。
これからも知ることはないだろう。
「――この三人以外は……なーんちゃって!」
「おい、待てピッコ。俺の活躍、足り無くないか? もうちょっと色々とやってるだろ」
「えー、メディって他になんかやってたっけ? 法術でマーテルの意識を過去に飛ばしたぐらいじゃない?」
「もっとやってるだろ! そういうお前も、グランの足引っ張ってばかりだったからな!? いつも真っ先に突っ走りやがって! な、グランも何とか言ってやれよ!」
「……ピッコ、僕のあの技には名前があるんだけど」
「うるさいぞ、三人とも!!」
もうやめろ、恥ずかしい。
後ろでギャーギャー言い合っている三人の方を振り向くと、私は怒鳴りつけた。
三人は一瞬ピタリと止まったが次の瞬間、笑い転げた。
こうなったら私も手のつけようがない。
大きくため息をつくと、先を行く。
その後ろを、まだ声を震わせている三人がついてくる。
三人の気配を感じながら、私はあの日のことを思い出していた。
魔王が倒され、三人の勇者たちが死んだとされるあの日のことを――
「……何故、私の首を差し出さなかった?」
心の声が、思わず口を衝いて出た。
気づけば足も止まっていた。
後ろの三人から、笑いが消えたのが感じ取れた。
「私の首を差し出していれば、お前たちは英雄だった。何でも思い通りの人生だったはずなのに、何故私だけでなく、お前たちも死んだことにした?」
振り返り、三人を見る。
ずっと聞きたかった。
何故あの日、私を殺さなかったのかを――
三人は答えない。ただ不思議そうに私を見つめ返すだけだ。埒があかないと思った私は、語気を荒げた。
「それに私は、お前たち人間を皆殺しにしようとしたんだぞ!? いわば人類の敵だ!」
ここまで言えば分かるだろう。
今からでも遅くはない。
(私の首を持って、城にでも教会にでもどこにでも行け……)
そう続けようとしたとき、三人がお互いの顔を見合わせたかと思うと、ほぼ同時に同じ言葉を口にした。
「「「……だから、何?」」」
「へっ?」
予想外の発言に、私の喉の奥から変な声が出た。
言葉を失っている私に、グランが心底呆れたように眉尻を下げると、吐き出した息と一緒に肩を落とした。
「別に僕たちは何とも思ってないよ。それに勇者を目指したのも、マーテルに会うためだったし」
えっ?
グランの言葉に、メディがうんうんと頷く。
「そそ。人間を救うとかそういうの、建前だし。そもそも小さかった俺たちを売ろうとしたのも人間だし。あ、マーテルが殺り損ねた野盗、俺たちが探し出して始末しといたから」
始末とか、教会の人間が一番言っちゃ駄目な単語だろ。
呆然とする私に、ピッコが抱きついてきた。
「私たちにとって、マーテルとまた一緒に暮らすことだけが、全てだったってこと! 瀕死の状態から奇跡的に回復法術に目覚めたメディに命を救われてから私たち、人間には一切期待してないからねー」
それ魔族側の発言じゃないか?
ドン引きしている私に、グランが微笑む。だがその口から出てきたのは、人間とは思えないトンデモない発言だった。
「僕らに人間の倫理とか常識とか、求めちゃ駄目だよ、マーテル。だって僕たちは――」
私の右手をグランが、左手をメディが握った。私に抱きつくピッコの腕に力がこもる。
三人の笑顔が、私の視界に映る。
澄み切った青色を取り戻した空の下、三人の声が綺麗に重なって響き渡った。
「魔王の子だから」
了




