第8話|選び続けたものたちへ
天空国家、その未完成な外縁。
シャナは、空に架けられた橋を駆け抜け、気の向くままに跳ね回っていた。
どこか遠くで、陽気な笑い声が風に乗って響く。
それはまだ存在しないはずの、この国に集うであろう民たちが未来から投げた残響のようだった。
形のないはずの未来が、今のシャナを包み込んでいる。
その感触を慈しむように、シャナは真っ白な手すりに指をかけた。
眼下に広がるのは、世界のすべてを覆い隠すような厚い雲の海だ。
(……静か)
あの息の詰まる王都の喧騒も、自分を汚物のように扱った民衆の罵声も、この高度までは届かない。
ここには、シャナを否定する者も、彼女を既存の道徳で裁こうとする者もいない。
風が、祝福のようにその髪を優しく撫でて通り過ぎていく。
(……これが、自由、か)
シャナは、胸の奥に溜まっていた毒を吐き出すように、小さく息を漏らした。
その時──
その静寂を切り裂くように、探知魔法が鋭く反応する。
「……はあ、攻撃ね」
地上から放たれたであろう、数条の光。
ルーン王国の魔導師たちが、その誇りと全魔力を捧げて放った、最大火力の追尾魔法だ。
空を焼き、猛烈な速度でこの浮遊島を墜落させんと迫りくる。
シャナは、指先で空中に小さな円を描いた。
「──お断り」
それは拒絶でも、宣戦でもなく、ただの距離の宣言だった。
パキン、と空間が凍りつくような音が鳴る。
国全体を覆う多重防衛障壁に触れた瞬間、猛烈な破壊の光は、春の雪が温かな水に溶けるように、音もなく無へと消滅した。
迎撃でも反撃でもない。
ただの圧倒的な「無効化」という名の拒絶。
しかし、シャナはわずかに目を細め、視線のピントを世界の細部へと合わせた。
「……偵察者もいるわね」
数多の国から送り込まれた観測用の使い魔や遠隔透視の術式。
それらが、必死にこの「異形」の正体を暴こうと、うごめいている。
「覗き見されるのは、趣味じゃないわ」
シャナは、今度は両手を広げた。
虹色の魔力が彼女の髪を揺らし、天空国家の基部へと染み込んでいく。
「隠蔽」
瞬間。
天空国家の輪郭をなぞるように虹色の奔流が駆け巡り、それが光の繭となって浮遊島を包み込む。
そして、巨大な質量は、水面に落ちた波紋が消え入るように、空の青へと溶け込み同化した。
視覚的な不可視化だけではない。
音、熱、そして何より──膨大な虹色の魔力そのものを、世界から切り離し、隠し去る。
数秒後。
王都を見下ろしていたはずの巨大な影は、空の彼方へと溶け込み、そこにはただ、何事もなかったかのような青空だけが残された。
もう誰も、この国を捉えることはできない。
シャナは満足そうに、その場に作り出したブランコに腰を下ろした。
「これでよし。……さて。
ゼノを探す方法を考えよう」
前世で愛し合い、契りを分かちあった彼だ。
シャナは、揺れるブランコの紐を軽く握ったまま、目を閉じた。
(……問題は、どう探すか、よね)
この世界に、かつてと同じ姿でいるとは限らない。名前も、立場も、あるいは種族さえも。
それでも、胸の奥には確かに、欠けたままの輪が互いを呼び合うような、微かな引力の感覚があった。
(……ゼノ)
声に出さなくても、その名は自然に浮かぶ。
彼もまた、転生している。
シャナは、空を仰いだ。
この世界のどこかに、
世界に馴染みきれず、
けれど消えきれずにいる存在がいる。
シャナは小さく笑った。
「……気長にいこ」
再会は、追い詰めてするものじゃない。
同じ速度で、同じ方向を向いたとき──
自然に、重なるものだから。
泳ぐようなブランコに身を預けながら、シャナは思いつく。
「そうだ!
国民を募集しよう」
パッと花が咲くような笑顔。
「紙をばら撒けば──
ゼノの目にも届くかもしれない。
確率は低いけど、やってみる価値はあるわ」
(でも……)
その瞳には冷徹な光が戻る。
(誰でもいいわけじゃない。この国に相応しい者を選ばなければ)
この国に入れる人には、条件がいる。
「そうね……選別が必要だわ」
シャナはブランコを止め、考えた。
誰が民で、誰が排除されるか。
「でも、善悪で分けるのは……ダメね」
少し考える素振りをしてから、軽やかに続けた。
「だって私、ルーン王国から見たら完全に悪だし」
小さく肩をすくめる。
「世間から悪と言われる人でも、居場所を持てる国にしよ。
でも、悪にも種類があるよね」
紙が宙でひらり、と舞った。
「だから──国民の条件は……」
シャナは、空中を泳ぐ羽根ペンを走らせながら、新たな国の法を書き込み始めた。
「一つ目、『加害性の方向』。
それが、”構造”に向いていたか。
それとも、”個人”に向いていたか」
シャナはペンを止め、少し考える。
「世界を壊したのか、人を壊したのか──
その違いは、大きいわ。
ただし敵討ちとかの場合は別ね」
指を二つに折って、書き進める。
「二つ目、『選択肢の有無』。
本当に、他の道はなかったか」
シャナは、少し視線を落とす。
「追い詰められて、やむを得なかったのか。
それとも、他の選択肢があったのに、選ばなかったのか。
それも、見極めないとね。」
三本目の指を折る。
「三つ目、『存続前提意識』。
この国の存続を、前提として考えているかどうか」
理由は何でもいい。
でも──この国が壊れてもいいと思ってる人は、お断り。
言い終えて、シャナは満足そうに頷いた。
「うん、いいわ」
独り言のように、けれど確信を込めて。
「これは“正しい人”を集める国じゃない」
少しだけ、声の調子が落ち着く。
「選び続けようとした人が、息をできる場所」
善人である必要はない。
無垢である必要もない。
ただ──
「考えることを、放棄しなかった人」
シャナは、遙か眼下の地上を見渡した。
「それだけで、十分」
楽しげな笑い声を風に乗せる。
しかし、そこで現実的な懸念が彼女の足を止めた。
「でも選別方法はどうしようかな…」
シャナが一人一人見るわけにはいかない。
『なら、”選別の天秤”って選択肢もあるよ』
その瞬間。
鼓膜を震わせるのではなく、思考の隙間に滑り込むような、未知の響きが彼女に落ちた。




