第6話|天空国家、誕生
巨大な魔法陣が、世界の歯車を逆回転させるような重低音を響かせて旋回する。
空間の輪郭が、悲鳴を上げるように軋んだ。
そして──
シャナの背中から、光が解けた。
大気を引き裂く鋭い音とともに、純粋な魔力の骨組みが形を成し、そこから幾千もの虹を織り込んだ羽が生まれていく。
人々がその美しさを形容する言葉を探し当てるより早く、彼女の「飛翔」は完成していた。
「……つ、翼……」
王の唇が、力なく震える。
翼が大きく打ち振られた。
刹那、彼女の身体は重力の呪縛を断ち切り、天へと吸い込まれていく。
怒号も、血の匂いも、この世界の澱みもすべて置き去りにして。
高度を上げるたび、王都は模型のように小さく、醜く縮んでいく。
「……いい眺め」
シャナは雲海の只中で、両手を広げる。
彼女の思考が「記述」へと変わる。
まず、足場が生まれた。
雲の上に、白い大地が敷かれる。
次に、形。
塔の線。
壁の輪郭。
道の伸び。
光の筆致が、空白の空に「街」を描き込み、次々と実体を与えていった。
花が芽吹く。
木々が立ち上がる。
水が集まり、湖になる。
雲の上で、新しい場所が組み上がっていく。
誰の手も届かぬ、不可侵距離。
命令も、裁きも、支配の及ばない絶対領域。
シャナは、ようやく安らかな溜息を吐いた。
(……できた。
私の、誰にも奪われない場所)
翼がゆっくりと閉じられ、粒子となって消えていく。
足元の白い石は、まだ生まれたての産声を上げているように眩しい。
視線の先には無限の可能性を秘めた「余白」が広がっていた。
魔法陣は最後の光を残し、静かに回り続けていた。
そして、天空国家が誕生した。
広場では、王が青ざめた顔で空を見上げていた。
「天空に国が……」
レオナルドは、屈辱に顔を歪めて拳を握りしめた。
「クソッ……こんなことがあってたまるか」
女王とエリシアは、自分たちが捨てた石ころが、突如として宝石になった事実を前に、震える膝を押さえることさえ忘れていた。
そして、人々はただ、見上げるしかなかった。
(さあ、これからどうしよう?)
胸の奥が、陽だまりのような温かさが広がる。
これまで感じたことのない、静かな満足感。
シャナは、空の上に腰を下ろした。
風が、優しく髪を撫でていく。
その時、ふと瞳の裏側に、ある「温度」が蘇った。
──柔らかな笑顔。
──記憶の淵で、自分を呼ぶ声。
──魂の片割れのように馴染んだ、温かな手。
「……彼」
シャナは、胸に手を当てた。
心臓が、静かに鼓動を刻んでいる。
「彼も……この世界に、来ているはず」
共に果てのない転生の海を渡り、この物語へ介入した最愛の存在。
「会いに行かないと」
シャナは立ち上がり、生まれたばかりの天空国家を見渡した。
広大なこの世界で、一人の魂を探す。
それは砂漠で一粒の宝石を拾い上げるような難事だ。
(まずは、この箱舟を完成させないと。
……魔力の循環が止まれば、この国は堕ちてしまう)
シャナは、魔法陣に意識を向けた。
天空国家を動かすには、膨大な魔力が必要だ。
今のままでは、長くは持たない。
(魔力の循環システムを作らないと……)
シャナは、ゆっくりと呼吸を整えた。
胸から溢れる虹色の魔力を、毛細血管のように都市の隅々へと行き渡らせる。
建物に、道に、木々に、泉に。
すべてが彼女の脈動と同期し、天空国家全体が呼吸を始める。
やがて、天空国家全体が淡く光り始めた。
これで、しばらくは維持できる。
「それじゃあ……」
シャナは思考の舵を切り、天空国家をゆっくりと、そして傲然と動かし始めた。
魔法陣が星のように回転し、巨体が雲を裂いて進む。
地上の怨嗟も、怒号も、湿った執着も、もう彼女の衣を濡らすことはない。
シャナは、一度だけ振り返った。
遠くに見える、ルーン王国の王都。
あそこで生まれ、泥を啜り、そして一度、確かに死んだ。
(……もう、戻ることはないわ)
シャナは、未知の地平へと視線を据えた。
誰にも縛られず、誰にも支配されず。
ただ、自分の意志で。
天空国家は、ゆっくりと遠ざかっていく。
雲の向こうへ。
──数日後。
「移動する天空国家」の噂は、烈風のように世界を駆け巡った。
恐怖、畏敬、あるいは救済への期待。
ルーン王家は、失態を隠蔽できぬまま沈黙を守り、世界は「新秩序」の出現に騒然としていた。
その噂は、国境を越え、潮風に吹かれる港町の酒場へと辿り着く。
裏通りの、潮の香りが染み付いた古い宿屋の一室。
一人の男が、無造作に広げられた新聞の記事を指先でなぞっていた。
ルーン王国から遠く離れた港町。
『王都上空に"移動する天空国家"出現』
『王女シャノン・ルーン、蘇生する』
『王家の判断に、各地で疑問の声』
「……ハハッ」
男は短く、愉しげに笑った。
「ずいぶん面白いことになってるな」
軽い口調とは裏腹に、その鋭利な「赤い瞳」は、記事の背後にある力関係を冷徹に分析している。
ディラン・ウェンディー。
ルーン王国から国家反逆の烙印を押された元伯爵。
部屋の奥では、もう一人の青年が古びた地図を広げていた。
レイ・アレン。
元はルーン王国に敗北した公国の王子。
今は何の肩書も持たない青年。
「王家が差し出した『温かい檻』を、彼女は一蹴したようですね。
交渉の余地さえ与えずに」
「ああ」
ディランは椅子の背にもたれかかる。
「処刑台という最悪の舞台で、あそこまで合理的に『防衛』と『独立』を完遂するとは。
感情的な行動に走ってもおかしくない状況だったはずだ」
レイは淡々と、しかし確信を込めて同意を示した。
「力を振りかざすより、距離を取った。
だからこそ、私たちの側に立つ保証はないですね」
ディランが頷く。
「そうだな……」
ディランは、低く息を吐き、新聞に目を通しながら言う。
「この天空国家を維持できる魔力量と制御能力。
これは、異常だ」
「その上」
レイが自身の推測を補強するように言葉を継ぐ。
「攻撃魔法を一切見せていません。
戦力として、底が見えない」
ディランが低く息を吐く。
「どうしたものか……」
その時、重苦しい沈黙を切り裂くように、扉が鋭くノックされた。




