第5話|空を選ぶ
永劫にも似た沈黙が、処刑場を塗り潰していた。
やがて、誰かの息を呑む音が、静寂の膜を破った。
「本当に……あの神託は実在したのか……」
「世界を書き換えるという、あの」
震える呟きが連鎖し、やがて畏怖を含んだざわめきとなって波紋のように広がっていく。
「ま、待て……! 目を醒ませ、騙されな!」
狂ったような叫びが上がる。
「あいつはエリシア様に毒を盛った、稀代の悪女だぞ!」
しかし、広場の空気は残酷なまでに二分されていた。
敬虔な信徒のように額を地に擦り付ける者。
網膜に焼き付いた虹色の残像に、魂ごと射抜かれたように立ち尽くす者。
そして、底知れぬ恐怖に支配され、己の存在を消そうと後ずさりする者。
つい数分前まで、娯楽として石を投じていた群衆が、血の気の引いた手を見苦しく隠した。
「……っ、私は、ただ……!」
「皆が投げていたから、不本意だったんだ……!」
自己保身の言葉が、腐敗臭のようにあちこちから噴き出す。
「私は、最初から予感していました!
王女様こそが、真なる救済の光を宿しておられると……!」
昨日までの罵倒を忘却し、聖女を称える厚顔無恥な声に、周囲の憎悪が噛みつく。
「嘘をつくな!さっきまで罵ってたくせに!」
広場は、醜悪な弁解と糾弾が渦巻く混沌へと堕ちていった。
──その喧騒を、上から押し潰すように冷徹な圧が圧殺した。
シャナの身体から溢れる魔力が、空気そのものを重くする。
その魔力は留まることなく広がり、広場を、建物を、街そのものを包み込んでいく。
人々は、ただ呼吸をするという行為さえ、肺に鉄を流し込まれるような激痛を伴う苦行へと変えられた。
景色が僅かに、たわんだ。
この場にいる全員が、細胞レベルで同じ感覚を共有していた。
(この女を敵にしてはいけない)
王は、剥き出しの恐怖に喉を鳴らした。
かつて玉座から見下ろしていた「出来損ないの石ころ」は消え、そこには理解の範疇を超えた「未知の現象」が立っていた。
──しかし、その絶頂の最中で。
シャナの喉がわずかに詰まった。
「……っ」
奪った魔力が、あまりにも膨大で、無秩序に流れ込んできた結果──
その負荷が、今になって肉体を締め上げる
胸の奥で、何かが軋む音がした。
身体が拒絶しているわけではない。
だが、受け止めきれていない。
シャナは、わずかに眉を寄せた。
(……だめ)
(今は、まだ……)
(こんな醜悪な観客の前で、一滴の弱さも零してはならない)
奥歯を噛み締める。
シャナは、外側に放たれていた意識を、無理やり自身の内側へと沈めた。
世界に融けかけていた知覚を引き戻し、暴走する魔力をひとつの針のような鋭さへ集束させる。
肺胞のひとつひとつが焦熱に焼かれるような激痛が走る。
だが、彼女はその苦痛さえも燃料へと変え、制圧した。
やがて──
世界を圧迫していた重圧が、潮が引くように収束していく。
暴れていた魔力は、次第にシャナの内側へと折り畳まれていく。
大気の歪みが平らになり、視界から極彩色が消える。
(……ふう)
ほんの一瞬だけ、張り詰めた肩の力が微かに揺れる。
だが、その感覚もすぐに引き締められた。
(……今の私は、まだ制御がたりない)
処刑台が、低い断末魔を上げて軋んだ。
シャナは、一度も地上を見ない。
ただ、遥か高みの蒼穹を見上げていた。
処刑台の残骸の上で、静寂が支配する時間が続く。
王も、貴族も、神官も──
その視線は皆、シャナを正面から見据えられずにいた。
王は震える足で玉座を立ち、威厳の残骸をかき集め、言い放つ。
「……その力、もはや一個人の罪業で測れるものではない」
一瞬、言葉を選ぶような間。
指先を衣に隠し、掠れた声を絞り出す。
「シャノン・ルーン!
処刑は執り行われた。
これからは──王家の一員として、最高位の待遇で迎え入れようではないか」
慈悲を与える者の顔。
だがその奥に宿るのは、猛獣を檻に閉じ込め直そうとする卑屈な計略だった。
シャナの唇に、氷のような笑みを浮かぶ。
「私を“魔力ゼロの忌み子”と呼び、十数年、存在しない者として扱ってきた、その王家が?」
「それは……誤解だ。お前を正しく評価できていなかっただけで──」
続いて、レオナルドが熱に浮かされたように前へ出る。
「そうだ!
今後はお前を、俺の正妃にしてやる。
これまでのことはすべて水に流そう」
当然のように告げられた言葉に、広場にどよめきが走る。
だがシャナは、レオナルドの言葉に一瞥もくれなかった。
彼の声は、彼女にとって羽虫の羽音にも満たなかった。
エリシアが声を上げる。
「……っ、な、なんですって!?
それじゃあ、私はどうなるのよ!」
レオナルドは、ゴミを見るような目で彼女を払いのけた。
「お前か? 側室にでもしてやる」
エリシアが一歩踏み出し、声を荒らげる。
「嫌よ!!
お姉様より下なんて、死んでも嫌!!」
女王も声を張り上げる。
「そうよ!
あいつはエリシアに毒を盛った極悪人です!!」
醜悪な権力争いと愛憎劇。
女王の金切り声が重なり、広場は再び泥沼のような欲望にまみれていく。
──しかし。
その醜態の中心にいるはずのシャナは、別の方向に意識が向いていた。
視線は彼らを通り越し、果てしない空を見上げている。
──空。
権力が一切届かない場所。
命令も、裁きも、許可もない。
触れられず、
囲われず、
所有されない。
そこにある雲は、誰に許可を求めることもなく、ただ自由な軌跡を描いて流れていく。
(なんて自由なんだろう……)
泥沼の中で育て続けてきた、たったひとつの純粋な渇望。
それが今になって、ふと浮かび上がった。
シャナは、空を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「……そうだ……行けばいいのよ」
その声はあまりにも小さく、地上に執着する者たちには届かない。
次の瞬間──
彼女の足元から、淡い光が溢れ出した。
王の顔が驚愕に歪む。
「……な、何を……!」
空が、彼女の呼びかけに呼応していた。
光の波紋は、幾重もの円上を描きながら、処刑台を食い尽くしていく。
ひとつ、またひとつと重なり合う光の輪。
地面から浮かび上がったそれは、巨大な魔法陣だった。
「……広域転移……!? いや、この規模は……」
王の声が震えに呑まれる。
魔法陣は一瞬にして膨張した。
広場を、城壁を、そして王都全土を飲み込むほどの巨大な光の曼荼羅が、空一面に同じ紋様を投影する。
「シャノン・ルーン、何をするつもりだ!」
「王都を滅ぼす気か!」
王たちの悲鳴が、絶望となって響き渡る。
だが、シャナは一度も振り向かない。
視線は、ただ上へ。
魔法陣の中心で、光が脈打つ。
一度、深く沈み込み──。
次の瞬間、全エネルギーが解放された。
空気が裂ける音。
溢れ出した白光が、
すべての罪と欲望、
そしてすべての記憶を塗り潰していった。




