第3話|断頭台の覚醒
王城の執務室は、無情なほど輝かしい朝の光に満ちていた。
重厚な黒檀の机の向こう側で、レオナルドが冷徹な手つきで書類に目を通している。
その目前に、微動だにせず一人の青年が立っていた。
端正な制服に身を包み、その背筋は鋼のようにまっすぐだ。
彼は昨日、狂乱するティータイムの場でただ一人、シャナを庇おうとした騎士。
名を、エイダンといった。
彼は決然と一歩踏み出し、静寂を破るようにして口を開いた。
「失礼いたします。昨日の件について、進言があります」
レオナルドは視線すら上げず、退屈を隠そうともしない気のない声で答えた。
「なんだ。お前もあの女の死を待ちきれないのか?」
「いえ。……シャノン様の罪についてですが、毒殺未遂の証拠は、あくまで状況証拠に過ぎません」
エイダンが、揺るぎない口調で言葉を重ねる。
「エリシア様の御心を鑑みれば、今一度精査し、証拠不十分として解放する道もあると思います」
その進言の奥底には、単なる正義感を超えた奇妙な確信が潜んでいた。
まるで彼だけが、シャナという存在の真実に触れているかのように。
「寛大な処置は、次期国王としての貴方の器を民に示す絶好の機会にもなり得ます」
差し向けられたのは、心まで凍りつくような冷ややかな視線だった。
「だから、なんだというんだ?」
執務室に、一瞬だけ重苦しい沈黙が降り積もる。
次の瞬間、レオナルドは嘲弄の笑みを浮かべた。
「君は、随分と彼女に肩入れするな」
「法に従っているだけです」
それは、余計な感情を排した淡々とした返答だった。
「処刑は決定事項だ。これ以上、あいつの肩を持つならお前も共犯として扱う」
エイダンは、悟った。
もはやこの場で何を説こうとも、あらかじめ決められた残酷な結末は覆らない。
彼は静かに一歩退き、感情を押し殺したまま深く頭を下げた。
────────────
翌朝。
滞りなく、その凄惨な儀式は執り行われた。
どこまでも突き抜けるような青空の下、肌を刺す冷たい風が吹き抜けていた。
処刑台は、広場の中央に呪わしい影を落としてそびえ立っていた。
血を吸ったような赤黒い木材と、陽光を浴びて鈍く光る鉄枠。
その中央では、ギロチンの刃が獲物を求めて静かに待ち構えている。
シャナは、静寂を纏いながらゆっくりと階段を上がった。
その瞬間──。
広場を埋め尽くした群衆のざわめきが、一気に烈火のような怒号へと塗り替えられた。
そこに渦巻くのは、安っぽい好奇と侮蔑、そして歪んだ安堵感だ。
彼女という「汚れ」が消えることで、世界が正しくなると信じて疑わない狂信的な目。
「さっさと死ね!」
「魔力ゼロのくせに王女面しやがって!」
「優しいエリシア様に謝れ!」
罵声とともに、鋭い石が投げつけられた。
それは頬をかすめ、肩を叩き、鈍い音を立てて冷たい地面に転がる。
だがシャナは、一度たりとも歩みを止めることはなかった。
惨めに視線を伏せることも、苦痛に顔を歪めることもない。
ただ、凛として前を見つめ、処刑台のど真ん中に泰然と立った。
(……そう)
(この国は、最初から私を必要としていないのね)
広場の最前列には、この悲劇を特等席で眺めるための王族席が設けられていた。
レオナルドは、沸き立つ群衆の醜態を満足げな表情で眺めている。
まるで、この残酷な光景の全てが、己の描いた完璧な演出であると言わんばかりに。
その隣で、エリシアは胸元で小さく手を組み、瞳に偽りの涙を浮かべていた。
その儚げな姿は、衆目の目にはこの上なく哀れに映ったことだろう。
少なくとも──世界からそう見えるよう、彼女は完璧な悲劇のヒロインを演じていた。
「……可哀想なお姉さま」
そして。
玉座に深く腰掛けた女王──シャナの義母は、静謐な冷酷さでその光景を見下ろしていた。
その薄い唇が、わずかに、しかし確実に吊り上がる。
それは長きにわたり王宮を汚していた異物が、ようやく排除されることへの、狂おしいほどの安堵だった。
────────────
王は、儀式の始まりを告げるように重々しく立ち上がる。
「罪人シャノン・ルーン」
その厳格な響きに、喧騒の極みにあった広場が水を打ったように静まり返った。
「毒殺未遂の罪により、貴様をここにて処刑する」
一拍の絶望を挟み、王は形式的に、無機質な問いを投げかける。
「……最後に、言い残すことはあるか」
シャナは、王を見た。
女王を見た。
レオナルドとエリシアを見た。
そして──。
憎悪に染まり、自分に向けて石を投げ続けた民衆を、静かに見渡した。
誰一人として、彼女の残す言葉など待ってはいない。
ただ、目の前の命が断絶される、その瞬間を確認したいだけなのだ。
「いいえ」
シャナの表情は、最期の瞬間まで、凪いだ湖面のように変わらなかった。
浴びせられた罵声も、下卑たざわめきも、今は遠い世界の音のように聞こえる。
(これで終わりだ)
視界の端で、鳥の群れが自由を謳歌するように、遥か彼方の空へと消えていく。
彼女の視線の先には、ただ、どこまでも透き通った空があった。
(やっぱり、綺麗だ……)
その鮮やかな青は、彼女の手にはあまりにも遠すぎた。
「処刑を執行しろ」
王の非情な声が、広場の空気を震わせて落ちた。
ゆっくりと、瞼を閉じる。
一切の音が、消え去る。
一拍の、濃密な空白。
そして。
ガシャン。
────────────
シャナの首が、ギロチンの刃によって切り落とされた。
想像していた痛みはない。
温かな血の感触さえ、そこにはなかった。
ただ、奈落へ突き落とされるような落下感だけが支配していた。
視界が、緩やかに回転する。
石畳の地面が見えた。
処刑台の無機質な縁が見えた。
そして、最後にもう一度、あの空が見えた。
(ああ……やっぱり、きれい)
そこでぷつりと意識が途絶える。
──はずだった。
(……?)
違和感は、遅れてやってきた。
(……おかしい)
死んだはずなのに、まだ思考している。
(……時間が)
(止まってる……?)
瞬きの間の出来事であるはずが、引き伸ばされた長い沈黙が続いている。
『これで、ようやく……』
どこかから、聞き覚えのある声が届いた。
それは遠く、懐かしく、それでいて揺るぎない確信に満ちた声。
その瞬間。
凄まじい濁流のような記憶が、脳裏へと怒涛の如く押し寄せてきた。
風を斬り、空を自在に舞った感覚。
そして、生涯を共にした人と、決して解けることのない約束を交わしたこと。
──あの人の慈しみ深い笑顔、優しい呼び声、手の温もり。
そして。
「この世界に行きたい」
(ああ、そうだ。私は確かに、そう願った)
(どこか遠い場所で。別の人生を謳歌していた時に)
(この物語の世界に、自ら入り込みたいと)
意識が混濁するはずが、不思議なほどに、冷徹なまでの冷静さが保たれていた。
むしろ、パズルの最後のピースがはまるように、すべてが腑に落ちていく。
(そうか)
(私は、この世界の物語に──)
元々存在していた者として、組み込んだ。
数ヶ月前、このエリシアの義姉という役割を纏って。
だが、まさか選んだ役が「処刑される運命」を背負った義姉であるとは思わなかった。
役割そのものは選べても、その役に付随する不可避の悲劇までは選べなかったのだ。
未だに全ての記憶の封印が解けたわけではない。
あの人の名前も、本当の過去も、依然として霧の向こう側にある。
それでも。
胸の奥底に、黄金色の温かな灯火が宿った。
それは死への恐怖ではなく、帰るべき場所を見出したような不思議な安心感だった。
次の瞬間、脳裏の映像は弾けるようにして霧散した。
止まっていた静寂の世界が、わずかな軋みを立てて動き始める。
『肉体を再生するよ』
また、あの懐かしい声が鼓膜を震わせた。
その響きを単なる“幻聴”と切り捨てるには、あまりにもその存在の輪郭が鮮明すぎる。
気づいたとき、彼女の残骸は目も眩むような白い輝きに包まれていた。
それは失われた命を無理やり繋ぎ止め、元の形へと強引に再編しようとする光。
光の粒子は、時間の流れを逆再生するように一点へと収束し始める。
命の輪郭が、まばゆい光の中で、あるべき姿へと正しく組み上げられていく。
やがて、狂乱の光が静かに収束し──。
処刑台の上には、確かに命の鼓動を刻み、毅然と立ち上がるシャナの姿があった。
広場の誰もが、声を発することを忘れた。
ただ、あまりの光景に手を滑らせた騎士の剣が、石畳に落ちて鳴り響く音だけが、不自然なほど大きくこだました。
一拍の、永遠にも似た静寂。
そして。
「——ッ!?」
悲鳴にも似た凄まじいどよめきが、地鳴りのように広場を駆け抜けた。




