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第26話|夢の中の訓練




 聖宮の一角、精緻な彫刻が施された談話室には、淹れたてのハーブティーの柔らかな香りが漂っていた。


 窓から差し込む朝の陽光は、侯爵家の養女として完璧な淑女を演じるオーロラの髪を、透き通るような白銀に照らしている。


 しかし、その端正な顔立ちに浮かぶ瞳は、相変わらず感情の読めない、冷徹なまでのジト目のままであった。


「……というわけで、今夜から魔法訓練が始まるよ。ヴィクターの師匠が、夢の中で指導してくれるんだって」


 オーロラが、まるで今日の献立でも語るかのように事も無げに告げたその言葉に、対面に座るレイモンドは眉をひそめた。


 一方で、ディアンは瞳の奥に好奇心の火を灯し、面白がるように身を乗り出した。


「夢の中、か。なるほど、理にかなっている」


 ディアンが不敵な笑みを浮かべ、指先で自身の顎をなぞる。


「夢の世界なら、現実の物理法則や聖宮の強度、それに体裁なんてものを気にする必要がない」


「つまり、普段は抑え込んでいる高出力の魔術構成も、文字通り『やりたい放題』試せるってわけだろ?」


「ええ。痛みも感じないし、もし失敗して死んでも、この世界で目が覚めるだけ。とっても気楽だよね」


 オーロラの言う「気楽」が、常人のそれとは乖離していることを、レイモンドたちはまだ正確には理解していなかった。


「──はい、その通りです」


 音もなく、影が不自然に伸びたかと思うと、そこから染み出すように一人の男が現れた。


 レイモンドたちの背後にいつの間にか立っていたその男は、底の知れない、しかし丁寧な笑みを浮かべて会釈した。


「申し遅れました。私はカイ・セナと申します。これから、皆様の夢の中での訓練係を務めさせていただきます」


 カイ・セナと名乗った男は、慣れた手つきで、古びた羊皮紙を三枚、テーブルの上に並べた。


 そこには、緻密で不気味なほど美しい魔法陣が、墨の黒とは異なる深い青色で刻まれている。


「今回はこれを渡すために来たのです」


 すると、カイ・セナはレイモンドたちにある羊皮紙を渡した。


「寝る前にこれを枕の下へおいてください」


「これは、なんでしょう?」


 レイモンドが、未知の術式が刻まれた紙を慎重に指先で摘み上げ、光に透かして観察する。


「これは、夢と夢を繋ぐ接続付です。

これがないと、訓練に参加できませんので、お気をつけて」


 ディアンは、羊皮紙を見つめながら、静かに呟いた。


「……この魔法陣、

 かなり複雑な構造をしているな」


「よくお気づきで」


 カイ・セナが、感心したように頷く。


「これは、三重の術式が重なっています。

 意識の接続、記憶の保持、

 そして──」


 カイ・セナは、そこで言葉を止めた。


「そして?」


「……緊急時の強制切断です。

 万が一、夢の世界で

 取り返しのつかない事態が起きた場合、

 私が強制的に皆様を

 現実へ戻すことができます」


「取り返しのつかない事態、ですか」


 レイモンドの問いに、カイ・セナは微笑む。


「それでは──お茶の時間をお邪魔してすみませんでした。私はこれで」


 カイ・セナはそれだけ言うと、空気の中に溶けて消えた。


 机の上に残された羊皮紙の魔法陣は、心臓の鼓動のように淡く脈打って光り、まるで“今夜”という運命の一点だけを強く指し示している。


 ディアンは、子供が新しい玩具を手に入れた時のように、面白そうに紙をひらひらと揺らした。


「枕の下に置くだけで同じ夢を見る、か。便利だな」


「そうだね」


 オーロラは冷めた紅茶を見つめながら、最後のハーブティーをゆっくりと喉に流し込んだ。



 その夜、聖宮は深い静寂に包まれた。


 しかし、同じ寝室に横たわるレイモンドとディアン、そして別室で眠りにつくオーロラの胸中には、期待と、それを遥かに上回る予感が渦巻いていた。


 意識が遠のき、全身が深い泥の中へ沈んでいくような、あるいは空へ吸い込まれるような感覚がした。


 重い瞼をゆっくりと開けると、そこは既に、見慣れた聖宮の寝室ではなかった。


 そこは、現実の鮮やかな色彩をすべて奪い去ったかのような、蒼白い月光に支配された石造りの廃都であった。


 天を仰げば、異常なほど巨大な満月が居座り、ひび割れた石畳を冷徹に、そして残酷なまでに明るく照らし出している。


「ようこそ、《静寂の古都》へ」


 廃都の中央広場、崩れかけの噴水の前に、カイ・セナが静かに佇んでいた。


 そこには、ヴィクターも、使い古された騎士の装備を纏って立っていた。


「今回の課題は至ってシンプルです」


 カイ・セナが、背後の巨大な時計塔を指差しながら、訓練の概要を語り始める。


「この都市の最深部にそびえる神殿から『聖印核』を回収すること」


「それは最強の守護者の心臓部に安置されていますが、今は『封印の鎖』によって深く眠らされています。ですから、安心してください」


 師匠は淡々と、しかしどこか試すような響きを含んだ声で説明を続ける。


「制限時間は夜明けまで。無事に核を回収し、ここまで戻れば成功です。

……ああ、それからヴィクター」


 呼ばれたヴィクターが一歩前に出る。


「君にはこれを持っておいてもらいましょう」


 手渡されたのは、月光を反射して鈍く光る、金色の「お助けカード」であった。


「何かあった時に使いなさい。使い方は……その時になれば分かります」


「分かりました」


 そして振り向いて、オーロラたちを見渡す。


「守護者が眠っているなら、音を立てずに近づいて取るだけだ。

 隠密なら騎士の基本訓練に含まれている。任せておけ」


 ヴィクターが、自信満々に告げた。


 だが、レイモンドだけは師匠の言葉の端々に漂う、妙に整いすぎた「作為的な沈黙」に気づいていた。


 神殿内部は、数千年の時を止めたかのような、あまりにも不自然で静謐な迷路となっていた。 


 何世紀もその姿を保ってきた石柱が、飴細工のように無残に折れ、天井からは土砂が雨のように降り注ぐ。


 一歩足を踏み出すごとに、乾いた靴音がどこまでも反響し、得体の知れない不安が一行の背中を撫でる。


「レイモンド様、そっちの階段は罠ですよ。三つ目の角を右に」


「……そういうこともわかるのですか?」


 レイモンドの驚きに、ヴィクターは表情ひとつ変えずに、淡々と、しかし確信に満ちた声で答える。


「はい、これまでこういう場所で何度も試練を受けたことがあるので、慣れています」


「凄いですね」


 驚くべき速度で迷宮を突破した一行は、ついに神殿最奥、祈りの間へと辿り着いた。


 中心部には、数条の光の鎖に縛られた、巨大な騎士像のような魔物が静かに鎮座していた。


 その半透明の胸部には、心臓の鼓動に合わせるように、黄金の結晶──『聖印核』が美しく、しかし禍々しく埋め込まれている。


「これを取ればいいのね」


 オーロラが、まるで道端の石を拾うような気軽さで聖印核に触れようとした、その時だった。


 ──バシーン!


 鋭い音と共に、目に見えない強固な障壁がオーロラの手を弾き飛ばした。


「防御魔法がかかってる、しかも、相当に頑丈なやつが」


 ディアンが目を細め、横に立つヴィクターを肘で突いた。


「おい、ヴィクター、この防御魔法陣の解析、どれくらいかかりそうか?」


 ヴィクターが慎重に、額に汗を浮かべながら周囲の魔力の流れを指先でなぞった。


「……厄介だ。少なくとも三重、いや、重層化されている」


「外層は物理反射、次は干渉遮断、その奥に“起動連動”の術式が組まれている」


 ヴィクターが空中に魔力を流すと、見えない結界の輪郭が、幾何学模様として淡く浮かび上がった。


「下手に触れば、封印そのものに警報が入る仕掛けだ。時間をかけて、外側から順番に剥がしていくしかない……」


 ディアンが忌々しげに、背後の格子窓から見える月の位置を確認し、舌打ちする。


「夜明けまでって言ってたよな? この密度を解析して、間に合うのかよ」


「……急げば、ギリギリだ。だが、少しでも焦って手順を間違えれば、その瞬間に詰む」


 ヴィクターの張り詰めた声が落ちた瞬間、神殿の空気はさらに一段、冷え込んだ。


 しかし、その絶望的な静寂を、オーロラの、極めて冷ややかな呟きが切り裂いた。


「……なら、私に任せて」


「え?」とヴィクターが振り返るより早く、オーロラの瞳が、月光よりも鋭く、そして残酷なまでに澄んだ光を宿した。


「解析なんて、尺の無駄だよ」


「おい待て、何をする気だオーロラ!」


 ヴィクターが制止の声を上げ、手を伸ばす。


 しかしその刹那、ヴィクターの視界は、宇宙の特異点が爆発したかのような、純白の閃光にかき消された。


「──《スーパーノヴァ》」


 オーロラは、緻密に編まれた多重防御魔法を「解く」という、退屈な選択肢を即座に捨て去った。


 代わりに彼女が選んだのは、その魔法の構造自体を、圧倒的な熱量と超高密度のエネルギーで物理的に粉砕し、根こそぎ蒸発させるという暴挙であった。


 バコォォォォォォォン!!!


 神殿全体が、まるで巨大な鐘を内側から特大の槌で叩いたかのように激しく震動した。



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