第23話|光の産声
季節の風が湿り気を帯び、木の葉がわずかに色を変え始めた頃のことだった。
「レイ! 」
ディアンが弾んだ声で、レイモンドの部屋の扉を勢いよく開けた。
「お父様の友達の息子が誕生日パーティーを開くそうだ。
辺境伯の領地だから、馬車を飛ばしても一週間は帰ってこれそうにないんだ」
レイモンドは手にしていた書物を置き、主であり救い主である少年を見上げる。
「一週間、ですか」
「ああ。……それで、お前も一緒に行かないか? 従者としてなら、俺の傍にいられるだろ?」
ディアンは、期待に満ちた瞳でレイモンドを見つめた。
レイモンドに迷いはなかった。
あの日、路地裏でディアンに手を引かれて以来、レイモンドにとってディアンと離れることは、再びあの日々の暗闇に放り出されるのと同義だった。
「はい。お供させてください」
「よし、そうとなれば支度だ! 最高の服を用意させるからな!」
そう言って笑うディアンの眩しさに、レイモンドは小さく胸を震わせた。
当日。
辺境伯の屋敷は、言葉を失うほどの絢爛豪華さに包まれていた。
高くそびえる天井からは幾千のクリスタルが輝くシャンデリアが吊り下げられ、床には磨き抜かれた大理石が敷き詰められている。
集まっているのは、色とりどりのドレスや礼服に身を包んだ、選りすぐりの貴族の子女たちだ。
その華やかさの中で、ディアンの半歩後ろに控えるレイモンドは、否応なしに浮いていた。
「……ねぇ、あの子。ディアン様の隣にいる子、孤児なんですって」
「まあ、汚らわしい。あんな出所不明の子供を、パーティーに連れてくるなんて」
扇に隠された、剃刀のような囁き声。
冷ややかな視線が、針のようにレイモンドの肌を刺す。
レイモンドは俯き、自分の指先を強く握りしめた。
しかし、その冷え切った手に、ディアンの温かく力強い掌が重なった。
「──おい、聞こえてるぞ」
ディアンは周囲を威圧するように、傲然と言い放った。
「レイは俺の大事な親友で、唯一の従者だ。
文句があるなら、ブラッドベリー家が直接相手をしてやる」
怯んだ貴族たちを背に、彼はレイモンドの手を強く引き、会場の真ん中を堂々と歩き出す。
ディアンの言葉は、レイモンドにとってどんな魔法よりも心強い盾だった。
この人がいてくれるなら、誰が敵になっても構わない。
そう思えた、その時だった。
──ドォンッ!!
祝祭の音楽を切り裂くような、凄まじい轟音が響き渡った。
悲鳴が上がるよりも早く、会場の結界が物理的に食い破られる。
大理石の床を粉砕して現れたのは、影そのものが形を成したような、禍々しい異形の獣だった。
「シャドウ・ビースト……!? なぜこんな場所に!」
大人たちが混乱に陥り、衛兵が駆け寄るよりも早く、その獣は紅く光る目を細めた。
「グルルッ……!」
そして、獣が地を蹴り、黒い閃光となってレイモンドへ肉薄する。
あまりの速度に、レイモンドは避けることすら忘れ、ただ死の予感に身を固くした。
「逃げろ……!!」
叫んだのはディアンだった。
彼はレイモンドを突き飛ばすようにして後ろへ追いやり、自ら獣の牙の前に立ち塞がった。
「氷城壁!!」
ディアンの掌から放たれた極低温の魔力が、重厚な氷の壁を形成する。
獣の爪が氷を削り、耳障りな音を立てる。まだ幼いディアンにとって、このレベルの魔物を相手にするのは文字通りの命がけだった。
「レイ! 早く逃げろ! 後ろを向かずに外へ走れ!!」
ディアンの顔から余裕が消える。
魔物の猛攻を受け止めるたび、ディアンの身体は小刻みに後ろへと滑り、氷の壁には無数の亀裂が入っていく。
魔力の過剰行使により、彼の鼻からは一筋の鮮血が垂れ落ちた。
「ディアン様……!」
「いいから行け!! お前を守るって……言っただろ……っ!」
『レイ、これからはずっと一緒だからな。俺がお前を守ってやる』
初めて一緒に夜を越した時に言った言葉。
ディアンが歯を食いしばり、必死に踏ん張る。
レイモンドの目には、自分を庇う少年の背中が、小さく震えているのがはっきりと見えた。
怖いのだ。
自分と同じ子供である彼が、死ぬほどの恐怖を抱えながら、それでも自分を逃がすためだけに命を削っている。
──バキィッ!!
残酷な音が響き、ディアンの氷壁が粉々に砕け散った。
魔物の一撃がディアンの肩を捉え、彼の身体が紙屑のように吹き飛ばされる。
「──あ」
レイモンドの視界が、スローモーションに切り替わった。
大理石の床に叩きつけられ、苦痛に顔を歪めるディアン。
そのディアンを目掛けて、獣が止めの一撃を加えようと、漆黒の鎌のような爪を振り上げる。
(嫌だ……)
あの日、路地裏で救われた熱。
自分に「レイモンド」という名をくれた声。
一緒にスープを飲み、一緒に眠り、自分に「明日」を教えてくれた唯一の光。
それらがすべて、一瞬で消えようとしている。
(やめて……ください)
孤児院で殴られていた時とは違う。
自分が傷つくことなど、どうでもよかった。
けれど、彼が。
ディアンが傷つくことだけは、たとえ神が許しても、自分が許さない。
(嫌だ、死なないで……!ディアン様のいない世界なんていらない!)
胸の奥で、何かが爆ぜた。
それは願いを超えた「執念」であり、道理を拒絶する「絶叫」だった。
──直後。
会場からすべての「音」が消失した。
レイモンドの金色の瞳が、太陽を直視するような圧倒的な光を放つ。
彼の内側から溢れ出したのは、これまでの魔力体系とは一線を画す、根源的で神聖な力の奔流だった。
白と金。
閃光が、レイモンドを中心に爆発的に広がった。
「ガ、アアア……ッ!?」
魔物が悲鳴を上げる間もなく、その光に飲み込まれる。
神聖な光は、不純物を一切許さない。
影の獣は、光に触れた瞬間に「浄化」を迎え、一片の塵も残さず虚空へ消えた。
だが、光は止まらない。
衝撃波が会場を駆け抜け、窓硝子が音を立てて砕け散る。
避難しようとしていた貴族、戦おうとしていた衛兵、そして主催者の辺境伯。
その場にいたすべての人々が、抗い難い神聖な威圧感の前に、言葉を失う。
「な、なんだ……この光は……」
「魔法じゃない、これは……」
数瞬の静寂の後、一人の老魔術師が震える声で叫んだ。
「神聖力……!! 間違いない、選ばれし者の輝きだ!!」
その言葉が、火薬庫に火をつけた
。
「神聖力だと!? ということは、あの子が……」
「ありえない。あんな孤児が、力を覚醒させたというのか!?」
会場にいた貴族たちは、そのあまりにも神々しく、同時に抗い難い威圧感を持った光を前に、絶句していた。
会場は一転して、熱狂的な狂乱に包まれた。
つい数分前まで「汚らわしい孤児」と蔑んでいた貴族たちが、今はその圧倒的な光の源である少年に向けて、畏怖の念を込めて立ち尽くしている。
「……聖王子だ」
誰かが呟いたその言葉が、波紋のように広がっていく。
「聖王子の誕生だ……! 我が国に、新たの救世主が降臨されたのだ!」
「辺境伯! すぐに王都へ早馬を! 予言の子が見つかったと報告するのです!」
大人たちの下卑た打算と、狂信的な歓喜が入り混じった声が、粉砕された大理石の床に響き渡る。
彼の金色の瞳からは感情が消え、まるで天上から地上を睥睨する神のような、冷徹なまでの美しさを湛えている。
「……レイ?」
床に倒れ込んだままのディアンが、呆然とレイモンドを見上げた。
確かに助かったはずなのに。
自分を見つめるレイモンドの瞳に、いつもの「慕い」の色が見当たらない。
数秒後、レイモンドを包んでいた光が霧散し、彼はその場に崩れ落ちた。
「レイ!!」
ディアンが傷だらけの身体を懸命に動かし、倒れたレイモンドを抱きかかえる。
レイモンドは気を失っていた。
しかし、その小さな手は、意識を失ってなお、ディアンの服の裾を万力のような強さで握りしめていた。
この日を境に、二人の関係は決定的に変わることになる。




