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第21話|名をくれた手⑴



「ディアン様! 護衛の目を盗んで、どちらへ行っていたのですか!?」


 玄関ホールで待っていた年配の執事が、主の姿を見るなり血相を変えて飛んできた。


「悪かったって!」


 少年──ディアンは、執事の狼狽をあっけらかんと受け流す。


「これは旦那様に報告させていただきます。

勝手な外出は厳禁だとあれほど……」


 説教が始まろうとした瞬間、ディアンは焦ったように言葉を遮った。


「それより! こいつ連れてきたんだ!」


「……こいつ?」


 執事が不審げにディアンの背後を覗き込む。


「この子は……?」


 執事の声が、怯えるレイモンドを見て、少しだけ柔らかくなる。


「そういえば名前聞いてなかったな。名はなんて言うんだ」


 ディアンの問いに、レイモンドは再び首を横に振った。


「ないのか?」


 ディアンは目をぱち、と瞬かせ、驚きに瞳を揺らした。


「……それなら、俺がつけてやる!」


 執事が「え」と制止の声を出しそうになるが、ディアンは構わなかった。


 少年は少し考えるように、じっとレイモンドを見つめる。


 その視線はあまりにも真っ直ぐで、逃げ場がないほどに強かった。


 そして、ディアンはぱっと太陽のように笑った。


「そうだな〜……レイモンド。レイモンドなんてどうだ?」


 ──その瞬間。


 「孤児」だった少年の魂に、新たな輪郭が刻まれた。


 レイモンド。


 呼ばれるだけで、凍てついた胸の奥が震えるのを感じる。


「愛称はレイだ! これからはレイって呼ぶからな!」


 ディアンの手が、レイモンドの頭を優しく撫でる。


 よしよし、と、まるで大切な宝物に触れるような手つきだった。


 触れられた場所が、じわじわと熱を帯びていく。


「俺は、ディアンだ。ディアン・ヴァレンタイン・ブラッドベリー。よろしくな!」


 そして、ディアンは再びレイモンドの手を握りしめた。


「それじゃあ、レイをお風呂に入れてやらないと。こんなに泥だらけだ」


 その時。


 静かな玄関ホールに、やけに響く音が鳴った。


 ぐぅ。


 レイモンドの腹が鳴ったのだ。


 ディアンは一瞬、きょとんとして目を丸くしたが、すぐさま快活に笑い声を上げた。


「その前にご飯だな!」


 少年は執事に向き直り、堂々と命じる。


「フィリップ! ご飯を用意しろ!」


 執事──フィリップは、主のあまりの奔放さに一瞬言葉を詰まらせた。


 だが、少年の背後で震える小さな影を見つめると、諦めたようにため息を一つ吐き、パンと手を叩いた。


 その合図で、屋敷の使用人たちが一斉に動き出す。


 案内された食堂で、温かいスープと柔らかいパンが運ばれてきた。


 レイモンドは椅子に深く座らされ、震える手で銀のスプーンを握りしめた。


 乾いた口に、少しずつ、慎重にスープを運ぶ。


 熱い。けれど、それ以上に温かかった。


 パンをちぎって口に運ぶたびに、身体の芯に残っていた冷たい強張りが、少しずつほどけていく。


 ちゃんとした食事を口にしたのが、一体いつぶりだろうか。


 気づいた時には、視界がじわりと滲んでいた。


 溜まっていたものが溢れるように、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちる。


「おい、どうした? どこか痛いのか!?」


 ディアンが慌てて身を乗り出し、顔を覗き込んでくる。


 レイモンドは必死に首を横に振った。


 言葉が出ない。


 喉の奥が熱くて、うまく喋れないのだ。


 代わりに。


 彼は、精一杯の微笑みを浮かべた。


 表情筋が長らく使われずに固まっていて、自分でもぶきっちょだと分かるような、歪な笑み。


 それでも、それを見たディアンは、ハッとしたように息を呑んだ。


「……ありがとう、ございます」


 掠れた声で、なんとかそれだけを告げる。


 ディアンの胸の奥から、言いようのない熱い感情が込み上げてきた。


 ディアンは満面の笑みで力強く頷いた。


「おう!」


 その時、食堂に新しい足音が響いた。


「ディアン、これはどういうこと?」


 優しく、けれど芯の通った眼差しの女性が玄関から現れた。


 ディアンの母――サラだった。


 少年はこれ以上ないほど誇らしげに胸を張る。


「レイが悪い奴らに襲われてたから、助けたんだ!」


 サラは、無邪気な息子の頭をそっと撫でた。


「偉いわねぇ。立派な騎士様じゃない。……でも、これからはどうするの?」


「おれが世話する!」


「だめよ、ディアン。レイちゃんはペットじゃないのよ」


 サラは困ったように微笑み、言葉を続ける。


「残念だけど、うちが支援している孤児院で暮らしてもらうしかないわね」


 その言葉に、ディアンの顔が一気に曇った。


「嫌だ!」


「孤児院はすぐそこよ。いつでも会えるわ」


 サラが諭すように言う。


 その「孤児院」という言葉を聞いた瞬間、レイモンドの脳裏にあの日々の恐怖が蘇った。


 反射的に、彼はディアンの服の裾をぎゅっと掴んでいた。


 孤児院は嫌だ。あそこに戻れば、また自分は名前を失う。


 救いを求める、悲痛な眼差し。


 ディアンは裾を掴んだレイモンドの指の震えを感じ取り、母親を真っ直ぐに見上げた。


「……じゃあ、従者として迎え入れるってのは?それなら、この屋敷で生活させてもいいだろ!」


 サラは驚いたように目を瞬かせ、息子の本気の眼差しを見つめた。


 そして一瞬だけ目を閉じ、観念したように息を吐き出す。


「……わかったわ。ディアンがそこまで言うのなら。レイちゃん、あなたはそれで大丈夫?」


 レイモンドは、何度も何度も小さく頷いた。


 ディアンの顔がぱっと明るくなる。


「やったー!」


 ディアンは思わずレイモンドを抱きしめた。


「レイ、これからはずっと一緒だ!」


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