第20話|再び出会う
「レイ、俺、結婚することになったんだ」
不意に投げかけられたその言葉に、レイモンドは思わず目を見開いた。
鼓膜を揺らした音が、意味を伴って脳に届くまで、数秒の空白を要した。
「……結婚、ですか?」
問い返す声が、自分でも驚くほど低く掠れる。
すると、ディアンは一点の曇りもない満面の笑みを浮かべ、快活に頷いた。
「ああ! 相手はラヴィーン家のご令嬢でさ。もう家同士の話はほとんど決まってるんだ」
その瞬間、レイモンドの胸の奥が、ひどく不快にざわめき始めた。
いつかはこんな日が来ると、分かっていたはずだった。
自分は国を背負う聖王子であり、彼は自分を支える最も近しい側近。
互いに立場があり、彼が家庭を持つのは、むしろ祝福すべき喜ばしいことだ。
それなのに、喉の奥に熱い塊がせり上がってくるような、不条理な拒絶感が身体を支配する。
(結婚なんて、しないでください)
叫び出しそうな衝動を、聖王子としての理性がかろうじて押し殺す。
指先を衣の裾に食い込ませ、なんとかひねり出したのは、事務的で冷ややかな祝福だった。
「そうですか……。おめでとうございます」
それが、今のレイモンドに絞り出せる精一杯の、そして最大限の嘘だった。
──レイモンド・アルロー・ヴェリタス。
彼の幼少期は鮮烈なものだった。
六歳の頃。
その孤児にとって、世界とは「拒絶」と「痛み」が交互に訪れるだけの、寒々しい檻のような場所だった。
孤児院という名のその建物は、救済の場などでは決してなかった。
力なき者が削り取られ、ただ消費されていくのを待つだけの、冷たい石造りの箱だ。
孤児は、孤児院の裏庭にある、ひときわ高く冷たい壁に痩せた背中を押しつけて、石のように息を殺すのが日課となっていた。
泣けば殴られる。
声を上げれば、より苛烈な理不尽がその身に降ってくる。
だから、泣かない。
叫ばない。
誰の視界にも入らないよう、ただ背景の一部として目立たずにいること。
それが、彼が幼い知恵で導き出した唯一の生存戦略だった。
それでも、痛みは容赦なく彼を見つけ出す。
その日も、そうだった。
汚れた、けれど自分よりはずっと大きな手が視界の端から伸びてきた。
細い腕を乱暴に掴み取られ、抗う間もなく固い地面に引き倒される。
「何様のつもりだ、この欠落品が」
何かを怒鳴られた。
けれど聞き取ることはできなかった。
頭がぐらぐらと揺れ、周囲の音だけがひび割れた陶器のように散乱していく。
(……逃げよう)
それは、生まれて初めての明確な拒絶だった。
気づいた時には、ボロ布のような服を翻し、裸足のまま孤児院の門を飛び出していた。
背後から聞こえる怒号を振り切り、深い森を抜け、文明から見捨てられた廃墟の村を越えていく。
泥が足の裏を切り裂いても、彼は止まらなかった。
ここで止まれば、自分は永遠に「名前のない石ころ」のまま壊される。
その恐怖だけが、彼を突き動かしていた。
たどり着いたのは、見知らぬ街の、入り組んだ裏通りだった。
「はぁ……はぁ……っ、はぁ……」
煤けたレンガの壁。
その狭い隙間に身を沈め、震える膝を抱えた瞬間。
路地の暗がりに、毒蛇のような、低く濁った複数の笑い声が満ちた。
「ほう。孤児じゃねぇか」
「おい、見ろよ。こいつの目、金眼だぞ。珍しいな」
「売れるぞ、これ」
レイモンドの身体が、氷を流し込まれたように強張った。
卑俗な欲望を隠そうともしない、汚れた手が目の前に迫ってくる。
(逃げないと……)
そう思うのに、足が重い鉄球に縛られたように動かない。
(……こわい)
喉が引き攣れ、声の一片すら絞り出せなかった。
絶望に目を閉じた、その時だった。
路地の空気が、一瞬にして剃刀のような冷気を帯びて凍てついた。
「──やめろ」
それは、少年の声だった。
幼く、けれどその響きには、どんな剣よりも鋭い芯があった。
男たちがぎょっとして振り返る。
次の瞬間、何もない虚空から結晶化した氷が走った。
ぶわっ、という風切り音と共に、無数の鋭いつららが具現化する。
それらは男たちの喉元、眼球の数ミリ前、胸の寸前でぴたりと静止し、冷酷な切先を震わせて一列に並んだ。
つららの先が、男たちの荒い呼吸のたびに僅かに揺れ、死の予感を突きつける。
「……ひっ! 魔法使いかよ!」
「ちょ、ちょっと待て……! 」
氷の放つ強烈な冷気が、路地の汚れたレンガ壁まで白く染め上げていく。
「分かった! 分かったから魔法を解いてくれ。こいつには手を出さない。約束する!」
一人の男が恐怖に顔を引き攣らせ、両手を上げた。
その言葉を聞き届けた瞬間、空中に浮かんでいた氷は音もなく溶け、水へと還った。
床に落ちる水滴だけが、ぽた、ぽた、と静かに鳴り、緊張を解いていく。
「二度と来るな」
少年はそれだけを低く言い放ち、逃げ腰の男たちを鋭く睨みつけた。
男たちは舌打ちしながらも、少年の放つ威圧感に気圧され、背を向けて路地の向こうへと逃げ去っていく。
足音が遠ざかり、再び静寂が戻った裏通り。
助けてくれたのは、自分と同い年くらいの少年だった。
夜の帳を溶かしたような艶やかな黒髪。
レッドダイヤモンドを思わせる鮮烈な紅い瞳。
そして、影を落とすほど長い白いまつ毛。
少年は孤児の前に静かにしゃがみ込み、泥と涙で汚れたその顔を覗き込んだ。
「お前、大丈夫か?」
彼と、目が合った。
その瞬間、胸の奥が──ひどく、鳴った。
理由は分からない。
けれど、赤い瞳に見つめ返された刹那、世界がそこで一度、組み替えられた気がした。
「お前……どこかで会ったか?」
その少年もまた、なぜか目を逸らせない感覚に囚われていた。
孤児は口を開いたが、喉の奥が石灰のように固まっていて、音が出ない。
「声が出ないのか?」
少年の問いかけに、孤児はただ、縋るようにその瞳を見つめ返し、小さく顎を引いた。
「家は?」
短く問われ、ゆっくりと首を横に振る。
少年はわずかに眉を寄せた。
それは同情というよりは、何か重大な事実に直面したかのような表情だった。
「……そうか」
少しだけ困ったように呟くと、少年は、次の言葉をあまりにも当たり前のような響きで口に出した。
「それなら、俺の家に来るか?」
孤児は目を丸くした。
(……いえ?)
わけがわからない。
なぜ、見ず知らずの、こんな汚れた自分を誘うのか。
けれど、少年は迷わない。
レイモンドの小さな手を、驚くほど熱い掌で力強く掴んだ。
そしてそのまま、拒絶する隙も与えず、力強く引っ張って歩き出す。
路地を抜け、端正な石畳を渡り、巨大な門の前に立った時。
そこにあったのは、これまで孤児が「現実のもの」として認識したことのない、豪奢な屋敷だった。
高くそびえる塀。
威厳に満ちた重い門。
そして、手入れの行き届いた静かな庭。
孤児は、思わず足を止めた。
(……貴族のいえ?)
自分のような存在が足を踏み入れていい場所ではない。
怖くなって、繋がれた手を離そうと指に力を込める。
だが、腕が抜けない。
少年の手は自分と同じくらい小さいはずなのに、なぜか万力のようにびくともしないのだ。
あまりに無力な自分が、ひどく情けなくなる。
そのまま、抵抗むなしく屋敷の中へと連れ去られた。




