第2話|甘い嘘と紅茶
その決定的な事件は、あまりにも穏やかで、偽りに満ちた午後に起きた。
義妹のエリシアが主催した、小規模なティータイム。
招かれたのは数名の令嬢たちと、そして、疑いを知らないシャナだけだった。
「お姉さまがくださった茶葉、とても香りが良くて……。
みんなにも飲んで欲しくて用意したんです」
向けられた柔らかな微笑みに、シャナの胸は春のような温かさに包まれる。
(嬉しい……喜んでくれてたみたいで、良かった)
冷遇される日々の中で、その言葉だけが救いだった。
手慣れた所作で使用人が紅茶を淹れ、白磁のカップが整然と並べられていく。
立ちのぼる香りは、確かに彼女が贈ったもの特有の、清涼で心地よいものだった。
だが、シャナが目の前に差し出されたカップへと指先を伸ばした、まさにその瞬間。
ガタンッ。
乾いた衝撃音が響く。
エリシアが手にしたカップを落とし、苦悶に満ちた表情で胸を押さえ、その場に崩れ落ちたのだ。
「エリシア様!?」
「しっかりしてください!」
庭園に鋭い悲鳴がこだまする。
令嬢たちが我先にと駆け寄る混乱の中、一人の使用人がエリシアのカップに添えられていた銀のスプーンを手に取った。
──そして、その顔を驚愕に凍りつかせた。
「……これは……」
その声は、恐怖に小刻みに震えている。
見れば、白銀に輝いていたはずのスプーンが、紅茶に触れた部分から禍々しい黒色へと変色していた。
「飲んではいけません。この反応……毒です」
場を包んでいた華やぎが、音を立てて凍りついた。
逃げ場のない沈黙が降り積もる中で。
不信の視線が、ひとつ、またひとつと鋭く編み上げられていく。
最終的に──その全ての刃が、シャナ一人へと向けられた。
「この茶葉……シャノン王女のものでしたわよね。贈り物だったって……」
「まさか……」
令嬢のひとりが、なじるような、あるいは怯えるような震え声で追及を続ける。
「シャノン王女が……嫉妬していたって噂もありましたわ」
「エリシア様に劣等感を抱いていたって……」
あまりに唐突な断定に、シャナは激しい困惑に襲われながらも、必死に声を絞り出した。
「違う……私じゃない!
もし私が犯人なら真っ先に疑われるようなことはしないわ!
それにカップには一度も触れていない」
だが、必死の弁明は虚空を切り、タイミングを計ったように駆け込んできた騎士の声が、全ての真実を押し流した。
「毒殺未遂との報告により、即時身柄を確保する。シャノン・ルーン王女を拘束しろ!」
騎士たちが容赦なく動き出し、細いシャナの腕を乱暴にねじり上げる。
その緊迫した空気の中。
一人の若い騎士が、戸惑いを隠せずに声をあげた。
「待ってください、まだ犯人と決まった訳ではありません」
しかし、その良心的な進言は、すぐさま上官の容赦ない一喝によって遮られた。
「これだけの証言があるんだ。
シャノン・ルーン王女を牢へ連れていけ」
抗う術もなく、冷たい金属の枷が彼女の手首を無慈悲に締めた。
ガチャン、という鈍い音。
その音は、シャナのこれまでの人生が、そして運命が、永遠に閉ざされる合図だった。
────────────
地下深くにある牢獄は、ただ冷たく、重苦しく湿っていた。
石の床で膝を抱え、絶望に震えるシャナの前に、不吉な足音が響き渡る。
「……誰?」
問いかけに返事はない。ただ嫌な予感だけが、泥のように胸を満たしていく。
やがて暗闇の向こうから、聞き馴染みのある、しかし異様に明るい声が届いた。
「やあ。牢獄の居心地はどうだい?」
(その声は……)
そこに立っていたのは、レオナルドだった。
愛する婚約者が捕らえられているというのに、その口調には微塵の悲しみもなく、あまりにも軽薄だった。
その瞬間に、シャナは全てを悟った。
(……嵌められた)
「あなたが、エリシアに毒を盛ったのね」
するとレオナルドの背後の影から、もう一人の少女が静かに、そして軽快に現れる。
「ざんねん。正解は私でした。ふふっ」
「エリシア……!」
その歪んだ笑みを見た瞬間、点と点が一本の線で繋がった。
「今までの……全てが嘘だったのね……」
「そうよ」
「毒を飲んだのも……?」
「ああ、あれ?
事前に解毒剤を飲んでいたのよ。
微量の毒なら、数分で無効化できるの。
知ってた?」
エリシアは、壊れた玩具を眺める子供のように笑った。
「お姉さまの顔、見ものだったわ。本気で心配してくれてたのね」
そしてエリシアは、勝利を誇示するようにレオナルドの腕に絡みついた。
「バカなお姉さま。最初から、本命は私だったのよ」
底知れない絶望の淵に立たされながらも、シャナは静かに、射抜くような眼差しで相手を見据えた。
「……なら、何故わざわざ私と婚約したの?」
レオナルドは退屈そうに肩をすくめ、その醜い本心を吐露する。
「世間は“健気な婚約者”が大好物でね。
哀れな姫を庇う男──それだけで名が売れた。君には感謝しているよ」
「……そう」
はらわたが煮えくり返るような激しい怒りを、氷のように冷徹な思考で強引に押さえつける。
シャナは静かに、震える指先を悟られぬよう背後に隠し、短く息を吐いた。
「驚かないのかい?」
「絶望で声も出ないの?」
エリシアが高らかに嘲笑を響かせる。
しかしシャナは、それまでよりもずっと落ち着いた声で、冷淡に問い返した。
「ここに来たということは……私の処罰は、もう決まったのかしら?」
エリシアは、待望の瞬間が訪れたといわんばかりに、歓喜に身を乗り出した。
「ええ!決まったわ、処刑よ。明日には広場でギロチン」
「……そう」
その言葉だけが、喉の奥で氷の欠片のように冷たく鳴った。
想定外の反応の薄さに、二人は不満げに眉をひそめる。
「聞こえなかったの? 処刑よ」
「……」
シャナは奥歯を噛み締め、砕けそうな平常心を必死に繋ぎ止めた。
目の前の二人は、一瞬だけ石のように固まった。
惨めに許しを乞う姿を、あるいは尊厳を捨てて泣き叫ぶ醜態を、心ゆくまで期待していたのだろう。
だが、そこに彼らが望むような軟弱な反応は存在しなかった。
「泣いて縋るなら、助命を進言してあげてもいいんだよ?」
「そうよ、私からもお父様に言ってあげる」
それは、獲物を弄ぶような甘く毒々しい誘惑だった。
けれど、シャナはただ静かに、その澄んだ瞳で二人を射抜いた。
「いいえ。あなた達に許しを乞うくらいなら、罰を受けた方がマシよ」
「……!?」
明確な、一点の曇りもない拒絶。
この卑劣な二人に優越感を分け与えるつもりなど、一滴たりとも持ち合わせていなかった。
エリシアが苛立ちを露わにし、鋭く問いかける。
「正気なの?」
それでもシャナは、凛として立ち尽くしたまま黙秘を貫いた。
「なぜそんなに余裕でいられる? やはり協力者や隠し球でもあるのか?」
「あったら今頃こんな場所にいないわ」
レオナルドは興味を失ったように、薄汚い笑みを浮かべた。
「ほらね、言ったでしょ。わざわざ確認しに来る必要なんてなかったのよ!」
「そうか。ならいいんだ。
まあ君の絶望顔が見れなくて残念だったけど」
それだけを言い残すと、彼はゴミを捨てるように、彼女から視線を外した。
「きっと明日になれば怖くなって泣き出すわ」
「そうだな、明日が楽しみだ」
二人は毒を吐き捨てるようにして、満足げに牢獄を後にした。
その背中が深い闇に溶けて消えるのを見届けた後、シャナは長く細い息を吐き出した。
シャナは力なく冷たい壁にもたれかかる。
「明日には、処刑か……」
シャナは、ゆっくりと目を閉じる。
──何時間だっただろうか……。
時間の感覚も失われていく。
その時だった。
──コツ、と。
静かだが意志のある足音が、再び暗闇から近づいてくる。
「……まだ、誰かいるの?」
力なく問いかけても、明確な返事はない。
やがて重々しい鉄格子の向こう側に、一筋の影が立った。
そこにいたのは、若い使用人だった。
年齢は、シャナよりと同年代だろうか。
その手には、使い込まれた小さな木盆が捧げられていた。
そこには、焼き上がったばかりのパンと、湯気を立てるスープの器。
使用人は何も語らず、ただ静かにそれを床へ置いた。
「……ありがとう」
極限状態の中で、思わず口をついて出た震えるような感謝。
だが使用人は頷きもせず、礼を受け取る気配も見せずに、即座に踵を返す。
ただ、去り際のほんの一瞬だけ。
その人物は、確かにシャナを見た。
それは同情でも、偽りの憐れみでも、ましてや見下すような軽蔑の目でもなかった。
ただ──確かに、一対の瞳がシャナの瞳を真っ直ぐに捉えていた。
それだけの強烈な記憶を残して、影は再び闇の中へと消えていった。
シャナはしばらくの間、その場から動くことができなかった。
意を決して、床に置かれたパンへと震える手を伸ばす。
(美味しい……)
温かな食事を噛み締めながら、ふと、漠然とした思いがよぎる。
(処刑か……もし、やり直せるなら──)
(空に行きたい)
かつて夢見た、あの誰の手も届かない高みへ。
そうしてシャナは、静かに重い瞼を閉じた。
だが、シャナはまだ知る由もなかった。
──数刻後、断頭台の上で。
この世界の強固な“常識”が、凄まじい音を立てて崩れ去ることを。




