第18話|名を失う前の夜
夜は、深く澄んでいた。
明日には、今の「自分」という連続性が一度途切れる。
その重圧が、天空国家の静かな夜をより深くしていた。
ホテルの回廊を抜けた先。
風の通るテラスで、オーロラは手すりにもたれて夜空を眺めていた。
そこへ、規則正しい足音が響く。
「……こんな時間に、偶然だな」
振り返らなくともわかる、低く響くヴィクターの声だった。
「うん。なんだか目が冴えちゃって」
オーロラは振り返り、いつもの調子で微笑む。
その瞳に宿るのは、消失への不安などではなく、これから書き換えられる未知の物語に対する、純粋で、鋭利なまでの高揚感だった。
「楽しみだね。
私たちが名実ともに『主役』として舞台に立つ世界。
今度はどんな面白い事に出会えるかな」
輝かんばかりのその言葉を前にして、ヴィクターは言葉を失う。
(……楽しみ、か)
自分はといえば、喉の奥までせり上がってくる不安に、胸が今にも押し潰されそうだというのに。
「怖くないのか?自分が自分でなくなるかもしれないというのに」
抑えきれぬ問いが、掠れた声となって漏れた。
オーロラは一瞬だけ考えるように視線を上げ、それから、あっさりと言った。
「怖いよ。少しね」
その素直な答えが、ヴィクターの虚を突いた。
「でも」
夜風に星空の髪を揺らしながら、悪戯っぽく続ける。
「観測者の目を盗んで、物語をハッキングするなんて、最高の共犯だと思わない? 」
暗闇を照らすような、混じりけのない笑顔。
それを見た瞬間、ヴィクターを縛り付けていた硬直が、ほどけていくのを感じた。
(ああ…そうだ。
俺はこれまで何度も、この無茶な強さに、救われてきたんだ)
オーロラはいつだって、震えたままでも、前へ踏み出すことを選び続けてきた。
「……本当にお前は、底が知れないな」
ヴィクターは自嘲気味に笑う。
視界の端で、オーロラの細い指先が、夜風の冷たさに微かに震えているのが見える。
その震えすら、彼女は「武者震い」だと言い張るつもりなのだろう。
「ねえ、ヴィクター」
オーロラは夜空の一点を指さした。
そこには、他の星よりも一段と青く光る一等星があった。
「記憶が封印されても……
私、多分また、ヴィクターをこき使って、一緒に死線を潜り抜けちゃうと思うんだよね。
そういう『癖』みたいなのって、設定じゃ消せない気がするから」
「それは……御免被りたいな」
ヴィクターは口では突き放しながらも、その心音は少しずつ穏やかさを取り戻していた。
彼女が笑っている限り、自分の役割は変わらない。
たとえ名前を忘れ、立場が変わったとしても……。
この光を護り抜くという一点において、自分という存在は完成しているのだと、彼は理解した。
ヴィクターは何も言えず、ただ夜空を見上げる。
星は変わらず、そこにあった。
一方その頃。
レイは、ディランの部屋の前に立っていた。
一度は上げた拳を、ノックもできずに下ろす。
数秒、あるいは数分。
月が雲に隠れ、再び姿を見せるほどの時間の後、ようやく扉を叩いた。
やがて、静かに扉が開いた。
「……どうした」
「話があります」
短く、しかし決壊しそうな感情を押し殺すように告げる。
招き入れられた室内は、すべての明かりが落とされていた。
窓から差し込む青白い月光だけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮き上がらせ、影をどこまでも深く伸ばしている。
二人きり。
(本当は、聖王子の座なんて断って欲しかった)
ディランは、喉の奥まで出かかった言葉を飲み込み、立ち尽くした。
自分を「冷徹な反逆者」に仕立て上げていたはずの理性は、この密室の闇に溶ける。
ただの一人の男としての剥き出しの心が、沈黙の中で激しく脈打っていた。
その沈黙を破るように、レイがふと唇を開く。
「覚えていますか?」
穏やかな、どこか懐かしむような響き。
「私と、初めて会った日のこと」
ディランの視界が、ふっとセピア色の過去へと揺らぐ。
──鉄の錆びたような血の匂い。
──逃げ場の無い、冷たく濡れた林床。
エリュシオン帝国と公国を繋ぐ森。
倒れながら、ただ息を繋いでいた一人の少年。
彼を追い詰めていたのは、ルーン王国の騎士たちだった。
「生きてるか?」
光を求めて震えるその小さな手を取ったのは、ディランだった。
その後のことは、断片的だ。
オーロラとヴィクターの元へ彼を連れ帰り、反逆者の隠れ家の中で、無理やり食事を流し込んだこと。
元は公国の公子。
逃亡の果てに、すべてを失っていた。
それでも──
少しずつ、笑うようになった。
共に過ごした時間は、復讐という殺伐とした目的の中にあって、唯一の温かな余白だった。
「それからは、他愛もない会話で夜を明かしたり、凍える冬には一つの毛布を分け合ったり、作戦の合間に見た名もなき野花を愛でたり……」
レイは、月明かりの中で儚く小さく微笑む。
「振り返れば、数え切れないほどの色彩が、私の中に溢れています」
「……覚えている」
ディランの声が、夜の闇に低く溶ける。
「そしてあなたと生活するうちに……。
私は、あなたという存在を、救い主以上の……特別な人だと思うようになりました」
それは、あまりにも潔い告白。
ディランの心臓が激しく脈打つ。
「レイ──」
「でも、明日からは転生です」
ディランの声を遮るように、現実に戻す。
「今世の記憶は封印され、私たちは別の人間として生まれ変わる」
残酷な一拍。
「ディランには、新しく始まる物語の中で、他に愛する人ができるかもしれません」
「そんなわけ……!」
「……その上、私は次世で聖王子の枷を背負う。
結婚することも、誰かを愛することも許されない」
「だから……」
レイは、揺るぎない視線でまっすぐにディランを見据えた。
「あなたには、幸せになってほしいのです」
その笑顔は、あまりにも慈愛に満ちていた。
「どんな形のハッピーエンドでも構いません。
あなたが笑って過ごせるのなら、私はそれだけで……幸せですから」
ディランの胸が、強く締め付けられるような激痛に襲われる。
(……ふざけるな)
(そんな顔で、聖者ぶったことを言うな)
──その瞬間、理解してしまった。
いや、今までうっすら自覚していた。
計画の完遂という大義名分のもとに、
心の最奥へと閉じ込めていた感情が、
ついに檻を破って溢れ出した。
ディランは衝動に突き動かされ、
レイの細い肩を、壊さないよう、
しかし逃がさないように強く掴んだ。
「今からでも、配置を変えよう」
焦燥に駆られた、荒々しい声が夜を裂く。
「他に方法はいくらでもある。
計画なんてどうとでもなる。
お前がそんな犠牲を払う必要なんて……」
だが、レイは静かに、しかし断固として首を振った。
「……もう決めたことです。
これは、私自身の意志なのですから」
その声は、穏やかだが、どんな刃でも断ち切れない程の重みがあった。
「ルーン王国に、あの日死んだ同胞たちの復讐を遂げるには……
この役割を演じきることが、一番確実なのです」
救い主であったはずのディランの懇願を、彼は初めて、明確に拒絶した。
ディランの頭の中に、最悪のシナリオが渦巻く。
他の人を愛してしまい、今世の記憶が蘇ってから酷く後悔する。
そんな未来への恐怖が、ディランを極限まで追い詰めた。
「嫌だ!こんな未来、認められるか……!」
絞り出した声には、余裕など微塵もなかった。
そんなディランの焦りを絆すように、レイが優しく名前を呼ぶ。
「ディラン」
「幸せになってください」
レイはそっと、肩を掴んでいたディランの手の上に、自らの冷えた手を重ねた。
ディランは咄嗟にその手を握り返そうとしたが、レイはそれよりも早く、するりと指を抜いてしまった。
「待て!レイ、行くな!」
絶叫に近い呼びかけも、レイの決意を変えることはできない。
レイは慈しむような一瞥をくれた後、背を向けて一歩踏み出した。
「おやすみなさい、いい夢を……」
その言葉を最後に、レイは部屋を出ていった。
ディランは、冷たい扉の前に立ち尽くしたまま、指先ひとつ動かせずにいた。
夜はまだ終わらず、ただ残酷なまでの静寂が、彼の咆哮できない悲鳴を飲み込んでいた。




