第16話|配置、完了⑴
月光が青白く降り注ぐテラスに、シャナが静かに指を掲げた。
その白皙の指先が、導くようにレイの額へと触れる。
「深く息を吸って、佳鏡花を想像して。
細部まで、はっきりと」
シャナの声は凪いだ海のように穏やかだが、その眼差しは真理を射抜くほどに鋭い。
「……それじゃあ、繋ぐわよ。
あなたの記憶、その奥にある『佳鏡花』の情報を、私に……」
一瞬、レイの視界が爆ぜるような白に染まった。
意識の深淵、そこにはルーン王国に焼かれる前の故郷の景色が息づいていた。
雨上がりの湿った土の匂い。
岩陰にひっそりと、しかし鏡のように月光を反射して咲く、透き通った銀色の花──。
──花弁の繊細な厚み。
──神経を撫でる香りの成分。
──魔力を拒絶し、受け流す反発係数。
シャナの魔力が、レイの記憶という名の「設計図」を精緻にトレースしていく。
二人の間に渦巻く光が密度を増し、物理的な質量を伴って収束した。
やがて──掌ほどの空間に、一輪の花が実体を持って結実した。
「これが……」
ディランが思わず息を呑む。
伝説の彼方に霧散したはずの『佳鏡花』が、今、シャナの掌の上で幻のように揺れていた。
「レイ、あなたの記憶はとても精密ね」
シャナが感心したように、その銀色の花を見つめる。
レイは椅子に座ったまま、吸い寄せられるようにそっと身を乗り出した。
指先が花弁に触れる。
冷たい。
月光をそのまま凍らせたような表面は、ただ純粋な光だけを跳ね返している。
レイは指を離し、今度は静かに、深く息を吸い込んだ。
湿った夜気の奥に、確かに蘇るあの匂い。
微量な魔力を流せば、かつてと同じ拒絶の震えが指先に伝わる。
「……間違いありません」
確信に満ちた、しかしどこか懐かしむような声が漏れる。
「佳鏡花です」
レイは視線を上げ、シャナを真っ向から見据えた。
「これを……複製することは、可能でしょうか」
それは、この奇跡の主に対する最大級の敬意を含んだ問いだった。
シャナは一瞬だけ花を見下ろすと、事もなげに、あっさりと答えた。
「できるわよ」
次の瞬間、視界が弾けた。
ぶわっ、と前触れもなく、シャナの掌から佳鏡花の奔流が溢れ出したのだ。
まるで空間そのものが無数の生命を宿したかのように、銀色の佳鏡花がテラスを埋め尽くしていく。
咲き乱れる銀の波。
月光を映す花々は光の奔流となり、夜の静寂を揺らした。
宙を舞う花弁は、重なり、ほどけ、夜空に新たな星座を刻むように煌めいている。
「……綺麗」
オーロラの感嘆が、銀の雨の中に溶けていく。
その圧倒的な光景に、四人は見とれていた。
「これで大丈夫だな」
ヴィクターが、安堵を押し殺した声で呟く。
「特効薬の材料問題は、これで解決だ」
銀色の花弁はなおも幻想的に宙を漂っていた。
月を映すために生まれた花が、今宵、空そのものを満たしている。
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花弁が雪のように地に落ち始めた頃、ヴィクターがふっと現実を呼び戻す息を吐いた。
「……次は、あの保守的な国に、どうやって送るかだな」
未知の浮遊国家から、突如として届けられる“薬”。
他国への警戒を怠らないヴェリタスが、それを素直に受け入れるはずがない。
「洗脳の薬だ」
「新たな魔術の触媒だ」
そう邪推されるのが関の山だろう。
オーロラが、思考を巡らせるように視線を伏せた。
「……この流行病は、すぐには死なない。今から交渉なんてしてたら、一ヶ月後の国際会議までには間に合わないと思う」
その冷静な指摘が、刻一刻と迫る期限を突きつける。
重苦しくなりかけた沈黙を、シャナが軽やかに破った。
「じゃあ、レイが聖王子としてヴェリタスに転生するっていうのは?」
その提案は、どこか彼らの覚悟を試すような響きを持っていた。
オーロラが、低く呟く。
「それが一番ではあるけど……」
シャナは銀色の花を指先でくるりと回し、その真意を語った。
「ヴェリタスの人間が、ヴェリタスの身体で、ヴェリタスを救う」
その言葉の妙に、ヴィクターが笑い声を漏らす。
「それなら、“奇跡”として歓迎される」
ヴィクターは、静かにレイへと視線を向けた。
「お前は、どうだ?」
一同の視線がレイに集中する。
レイは思案するように一度伏せた顔を上げ、やがて決然と口を開いた。
「……それは、良い考えかもしれませんね」
その回答を待っていたと言わんばかりに、シャナは顔を綻ばせる。
「良かった〜!」
「ただし、シャナが関わったことを伏せたままじゃ意味がない」
ディランが、計画の核心を釘を刺すように付け加える。
「国際会議に出てもらうために、特効薬を作るんだからね」
オーロラも同意し、シャナを見据えた。
シャナは手の中の花を見つめ、落ち着いた声で返した。
「だから、段階を踏むの」
彼女の瞳に狡知な光が宿る。
「見知らぬ存在が作った特効薬なんて、誰も口にしない。
でも、治療が成功したあとなら話は別」
視線が、主役となるレイへと向かう。
「私が協力者だと打ち明けるのは、そのときでいいわ」
誰も異を唱えなかった。
理屈として、それ以上に確実な道はない。
レイは静かに目を閉じる。
聖王子として。
内部の人間として。
そして──外と繋ぐ者として。
ここで頷けば、ディランとの今までの関係は一度断たれることになる。
それでも──
「……分かりました」
揺るぎない決意が、その短い言葉に滲んでいた。
「その役目、引き受けます」
シャナは満足そうに頷き、佳鏡花の最後の一片を見下ろした。
「じゃあ、決まりね」




