第7話 王弟の求婚
「結婚しよう。これは命令ではなく、懇願だ」
その言葉は、あまりに唐突だった。
場所はいつもの相談室。
時刻は、優雅なアフタヌーンティーの時間。
目の前にいるのは、国の影の支配者であり、私の安眠ハーブティー中毒者(常連客)である王弟リアム殿下だ。
彼の長い指が、ベルベットの小箱をパカっと開ける。
そこには、私の拳ほどもありそうな……というのは誇張だが、間違いなく目が潰れるほど巨大なサファイアの指輪が鎮座していた。
王家の家宝クラスだ。換金したらいくらになるだろう。
私はスコーンに塗っていたクロテッドクリームのスプーンを置き、ナプキンで口を拭った。
「お断りします」
即答である。
0.1秒の迷いも挟まなかった自信がある。
リアム殿下の完璧な微笑みが、ピクリと固まった。
「……即答だな。理由を聞いても?」
「殿下、私の人生設計をご存知ですよね? 『悪役令嬢として嫌われ、誰にも干渉されずに田舎で金を数えて暮らす』。これが私の夢です」
私は指を一本立てて説明する。
「王族との結婚なんて、その対極ですわ。窮屈な公務、派閥争い、世継ぎ問題。そんな面倒くさい世界に戻るくらいなら、私は一生独身で結構です」
「君なら、それら全てを鼻で笑って処理できると思うが」
「できますが、やりたくありません。私は私のために生きたいのです」
きっぱりと言うと、リアム殿下は深く息を吐き、ソファの背もたれに体を預けた。
その仕草だけで絵になるから悔しい。
彼は紫色の瞳を細め、私をじっと見つめた。
「振られてしまったか。……だが、困ったな」
「何がですか? 他のご令嬢を当たってください。行列ができていますよ」
「君以外では眠れないんだ」
彼は真顔で重いことを言った。
確かに、私のハーブティーと、この相談室の空気がなければ、彼は不眠症に逆戻りらしい。
最近では私の執務机の隣に専用の寝椅子を持ち込み、そこで仮眠を取るのが日課になっている。
正直、邪魔だ。
「それに、状況が変わった。君を野放しにしておくのは、もはや危険だ」
リアム殿下の声色が、甘い求婚者のものから、冷徹な統治者のものへと変わる。
私は居住まいを正した。
「……どういうことですか?」
「あの馬鹿甥と聖女のことだ。彼らの派閥が、国庫に手を付けている証拠が出てきた」
私は息を呑んだ。
聖女リナの「無料相談会」や派手な慈善活動。
その資金源がどこにあるのか怪しいとは思っていたが、まさか国のお金だったとは。
「横領ですか」
「ああ。使途不明金が膨大だ。私が調査を進めていることに感づいた彼らは、追い詰められて暴発寸前だ。……彼らが誰を逆恨みするか、分かるね?」
「……私、ですね」
聖女リナにとって、私は目の上のたんこぶ。
セドリック殿下にとっても、自分の無能さを際立たせる憎き元婚約者だ。
彼らが破れかぶれで私を物理的に排除しようとする可能性は高い。
先日の夜襲程度なら防げるが、国軍の一部を使われたら、さすがに私の私兵(孤児と老兵)だけでは守りきれない。
「私は君を守りたい。だが、王弟といえど、他家の令嬢に24時間護衛をつける名目はない。特に、君は今『謹慎中』の身だ」
「……つまり、婚約者という立場が必要だと?」
「そうだ。私の妻になれば、君は王族の一員だ。指一本触れさせない権限と、最高レベルのセキュリティを提供できる」
リアム殿下の論理は完璧だった。
私の安全と、彼の安眠。
互いの利益が合致している。
感情論抜きで考えれば、これ以上の取引はない。
私は扇子で口元を隠し、高速で思考を巡らせた。
結婚は嫌だ。
でも、死ぬのはもっと嫌だ。
そして何より、リナたちの不正を見逃して、私が築き上げた資産を脅かされるのは許せない。
「……条件があります」
私は扇子を閉じた。
「『契約結婚』にしましょう」
「契約?」
「はい。期間は1年。その間に私が慰謝料代わりの資産を十分に稼ぎ、リナたちの不正問題が片付いたら、円満に離婚する。……これならどうですか?」
1年なら我慢できる。
王弟妃という肩書きを利用してビジネスを拡大し、巨万の富を築いてから離婚すれば、今度こそ悠々自適な海外逃亡……じゃなくて、隠居生活ができるはずだ。
リアム殿下は目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。
その笑顔は、どこか肉食獣が獲物を罠にかけた時のそれに似ていた。
「いいだろう。君らしい合理的な提案だ」
「では、契約成立ということで」
「ああ。……だが、一つ訂正しておこう」
彼は立ち上がり、私の手を取った。
そして、あの巨大な指輪を、私の左手の薬指に強引に押し込んだ。
サイズは驚くほどぴったりだった。
「1年で私が君を飽きさせるか、君が私に惚れるか。……勝負といこうか、ヴィオラ」
「負けませんよ。私は頑固ですから」
「ふっ。楽しみだ」
彼は私の手の甲に口付けた。
その熱に、私の心臓が不覚にも跳ねたことは、契約書には記載しないでおこう。
◇
翌日。
王都はハチの巣をつついたような騒ぎになった。
『号外! 王弟リアム殿下、電撃婚約! お相手はあのヴィオラ公爵令嬢!』
『悪役令嬢から王弟妃へ! 世紀の大逆転劇!』
『相談室の株価、ストップ高!』
朝食の席で新聞を広げた私は、あまりのデカデカとした見出しに頭を抱えた。
「……セバスチャン」
「はい、お嬢様。おめでとうございます」
「仕事が早すぎない? 昨日決まったばかりよ?」
「リアム殿下の広報戦略でしょう。既成事実化はお早い方がよろしいかと」
セバスチャンは満面の笑みで、赤飯のような色をした特製のお祝いティーを淹れている。
こいつもグルか。
窓の外を見ると、屋敷の前にはいつもの倍以上の人だかりができていた。
ただし、今回は野次馬ではない。
「ヴィオラ様、バンザーイ!」と叫ぶ騎士団員たち。
「姐さん、すげえ!」とはしゃぐスラムの孤児たち。
そして「我が商会の女神が王族入りだ!」と涙ぐむ商人たち。
私の支持基盤、盤石すぎないだろうか。
「……はあ」
私は重いため息をついた。
左手には、ずしりと重いサファイアの指輪。
これが、私の自由と引き換えに手に入れた「最強の盾」だ。
その時、玄関の鐘が鳴った。
セバスチャンが出るまでもなく、扉が開く。
我が物顔で入ってきたのは、もちろん私の新しい婚約者だ。
「おはよう、マイ・レディ。引っ越しの準備はできたか?」
「は? 引っ越し?」
「当然だろう。私の屋敷(王弟宮)で暮らすんだ。セキュリティのためにもね」
リアム殿下の背後には、屈強な近衛兵たちが荷造り用の箱を持って控えていた。
その中には、なぜか私の帳簿や金庫が既に詰め込まれている。
「ちょっと! 私の商売道具を勝手に!」
「安心しろ。王宮内に君専用の執務室を用意した。『相談室・王宮出張所』だ。これからは国賓相手に存分に稼いでくれ」
リアム殿下は悪びれもせず、私を横抱き(お姫様抱っこ)にした。
「きゃっ!?」
「さあ、行こうか。……リナたちが泡を吹いて倒れる顔を見に」
彼の耳元での囁きに、私は抵抗する気力を失った。
この男、用意周到すぎる。
私の逃げ道を全て塞いだ上で、私が一番喜ぶ餌(商売の拡大とざまぁ)をぶら下げてくるなんて。
「……覚えてらっしゃい。1年後には、身ぐるみ剥いで離婚してやりますから」
「ああ、楽しみにしているよ」
私の負け惜しみは、彼の余裕たっぷりの笑顔に吸い込まれた。
王都の青空の下、私たちは民衆の歓声に包まれて馬車へと乗り込む。
遠くの王城で、誰かが悔し紛れに叫ぶ声が聞こえた気がしたが、それは私の気のせいではないだろう。
こうして、私の「悪徳コンサルタント」業は、国公認の事業へと進化してしまったのだった。




