第8章 責任の境界
第8章 責任の境界
境界の街は、奇妙なほど静かだった。
人の数は多い。
商人の呼び声も、荷車の軋む音もある。
それなのに――
どこにも、切迫感がない。
「……変だな」
エリアスが歩きながら呟いた。
「人は多いのに、
誰も急いでない」
「はい」
隣を歩くリュシアが、静かに頷く。
「ここでは、
急ぐ理由が失われるからです」
エリアスは眉をひそめた。
「理由?」
「責任です」
リュシアは、街並みを見渡した。
「この街は、
宗教国家リュネリアの直轄地です」
「ですが、
どの国の“内側”でもありません」
「国境でもあり、
避難所でもあり、
そして――判断の保留地でもある」
⸻
通りの先に、神殿の出先施設が見えてきた。
規模は小さい。
だが、出入りする人の数は多い。
帳簿を抱えた神官たちが忙しく行き交っている。
エリアスは、ふと足を止めた。
「……これ」
机の上に積まれた書類を指す。
「決裁印がない」
「全部、
“保留”だ」
リュシアは頷いた。
「最終判断は、
本国か神殿本部に委ねられます」
「ここにいる神官たちは、
報告することしかできません」
エリアスは言葉を選ばず、口にした。
「責任者がいるのに、
何も決めてない?」
近くにいた神官が、困ったように視線を逸らした。
「……決めていないのではありません」
「“待っている”のです」
「神託を」
⸻
外に出ると、乾いた風が吹いた。
市場の端で、揉め事が起きている。
「確かに預けたんだ!」
商人が声を荒げる。
倉庫番は首を振る。
「書類がありません」
下級神官が、疲れたように言った。
「神託が下りていないのです」
誰も、嘘は言っていない。
だが――
誰も、動かない。
「……誰も、責任を取らないんだな」
エリアスが呟いた。
「はい」
リュシアは否定しなかった。
「ここでは、
それが秩序です」
その光景を見た瞬間、
エリアスの胸に、嫌な既視感が広がった。
畑と、同じだった。
踏み荒らされていたのに、
誰も「荒らされた」と言わなかった。
場所が、
村から境界へ変わっただけで、
ここでも同じだ。
⸻
そのときだった。
背後から、落ち着いた声がした。
「……それでも、
この街が必要だという人は多い」
振り返ると、
神殿の回廊の影に、一人の神官が立っていた。
白髪交じり。
豪奢ではないが、使い込まれた神官衣。
「エルマス様……」
リュシアが、はっと息を呑む。
上級神官エルマス。
実務を知る、数少ない人物。
リュシアは一歩前に出て、頭を下げた。
「先日、
許可をいただいたおかげで
聖別倉庫に入ることができました」
「ありがとうございました」
エルマスは、少しだけ目を細めた。
「私が許可したのは、
“確認”までです」
「判断は、
まだ、誰にもできていない」
言い訳でも、誇りでもない。
ただの事実だった。
エリアスは、その横顔を見つめる。
(……この人のおかげで入れた)
(でも、
それだけだ)
⸻
「良くはありません」
エルマスは、低く言った。
「責任者でありながら、
最も動けない立場にいる」
「それが、
今の神殿です」
風が吹いた。
境界の街を抜ける風は、
どこにも属さない。
エリアスは、胸の奥が重くなるのを感じていた。
責任が消えれば、
秩序は壊れない。
だが――
何も、前へ進まない。
「……だから」
エリアスは、小さく呟いた。
「ここが、
境界なんだ」
その言葉に、
リュシアは返事をしなかった。
代わりに、
ほんの一瞬だけ視線を走らせる。
通りの向こう。
人の流れに紛れた、
一つの“違和感”。
誰かが、
こちらを見ていた。
だが、次の瞬間には消えている。
「……今の」
エリアスが言いかける。
「気のせいです」
リュシアは、
いつもより少し早く答えた。
エルマスは、
そのやり取りを見逃さなかった。
「境界はね」
静かに言う。
「止まっているようでいて、
人だけは、よく動く」
「特に――
立場を捨てた者ほど」
その言葉の意味を、
エリアスはまだ理解していない。
だが、
この街に“第三の歯車”が近づいていることだけは、
確かだった。




