第51章見えない圧力
それは、翌日から始まった。
誰も怒鳴らない。
誰も命令しない。
それでも——
リュシアの周りだけ、空気が変わった。
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「提出、そこじゃないわよ」
「また間違えたの?」
「規則、ちゃんと読んでる?」
声は柔らかい。
言葉も正しい。
だから、否定できない。
リュシアは足を止める。
「……ありがとう」
そう答える。
いつも通りの、穏やかな声で。
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だが。
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
一本。
また一本。
気づかれないくらい、少しずつ。
(……私が間違えてる?)
(でも、確認したはず……)
自分を疑う。
でも、表には出さない。
それが、リュシアの選び方だった。
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ユリアンは、直接何もしない。
ただ、話す。
「リュシアって、殿下の名前を使ってるらしいわよ」
「教授に注意されても、気づかないふりするの」
「正しいことを言うと、逆に睨むんだって」
声は小さい。
でも、広がる。
友人へ。
そのまた友人へ。
カッシウスを慕う者たちへ。
そして——
「正しいことをしたい」人たちへ。
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「注意してあげてるだけ」
「規則を守らせたいだけ」
その言葉が、広がる。
やがて。
それは誰のものでもない、
“みんなの考え”になった。
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教授たちは、止めなかった。
いや——
止められなかった。
誰も殴っていない。
誰も嘘をついていない。
ただ、
正しいことを言っているだけ。
「彼女が勘違いしているのでは?」
「周囲も善意だろう」
そうして。
問題は、
最初からなかったことになる。
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フェリクスは、歯を食いしばった。
原因は分かっている。
ユリアンだ。
だが、証拠がない。
「……汚いな」
小さく呟く。
声を上げれば、
それが問題になる。
守ろうとすればするほど、
リュシアが悪く見える。
(最悪だ)
何もできない。
その事実が、苛立たしかった。
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ローデリクも、どこかおかしい。
授業中。
視線が、ふっと止まる。
空を見ているような目。
「……あ?」
呼ばれて、遅れて返事をする。
だが——
試験は満点。
誰も気にしない。
だからこそ、気持ちが悪い。
フェリクスは、その空白を見ていた。
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カイオンは、別の違和感を追っていた。
名簿。
課題。
人数。
「……一人、足りない」
小さく呟く。
偶然かもしれない。
見間違いかもしれない。
だが。
(違う)
前も、同じだった。
同じ場所。
同じ形。
「削れている」
声には出さない。
リュシアは追い込まれている。
フェリクスも余裕がない。
(今じゃない)
そう判断する。
「……一人でやるか」
静かに立ち上がる。
誰にも気づかれないように。
資料室へ向かう。
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学術都市エイドリアは、
今日も正しく動いている。
誰も怒らない。
誰も間違えない。
誰も責任を取らない。
ただ、
正しい言葉だけが積み重なる。
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その中で、
リュシアは、少しずつ削られていく。
そして。
誰も気づかない。
——一人、
名前が消えていることに。
その名前を、
思い出そうとした者は、
一人もいなかった。




