第50章 記憶されない空白
午後の合同授業は、淡々と進んだ。
内容は難しくない。
演習も、いつも通り。
「では、次回までにこの課題を提出すること」
教授が言い、黒板に提出期限を書き込む。
提出先については、特に触れなかった。
⸻
教室を出たところで、ユリアンが歩み寄ってくる。
「リュシア」
呼び止める声は、柔らかい。
「その課題、提出先は第二資料室の奥よ」
当然のような口調だった。
「先週から、そうなったの。知らなかった?」
リュシアは一瞬、足を止める。
(……先週から?)
そんな変更、聞いた覚えがない。
だが、ユリアンは続ける。
「私も最初は戸惑ったけど」
「みんな、そうしてるわ」
周囲に目を向けると、
数人の生徒が、特に気にした様子もなく通り過ぎていく。
リュシアは、曖昧に頷いた。
「……ありがとう」
だが、すぐには動かなかった。
「念のため、教官に確認してからにするわ」
その一言で、ユリアンの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まる。
「……そう?」
「ええ。規則は、確認した方がいいから」
リュシアはそれ以上何も言わず、
職員室の方向へ歩き出した。
⸻
——失敗した。
ユリアンは、その場に立ち尽くす。
「……あの女」
小さく吐き捨て、
苛立ちを抑えきれないまま廊下を大股で歩いた。
(なんで、引っかからないのよ)
(普通は、疑わないでしょ……)
⸻
そのとき。
「君は、優しいね」
影から、声がした。
ユリアンは、はっとして立ち止まる。
柱の陰に、上級生が立っていた。
整った身なり。
穏やかな微笑み。
どこか“安心できる”雰囲気をまとっている。
「……いつから、そこに?」
「今さっき」
上級生は、軽く肩をすくめた。
「でも、見ていたよ」
「彼女に、ちゃんと選択肢を与えてた」
「それじゃあ——」
一歩、距離を詰める。
「彼女には、通じない」
ユリアンの眉が、きゅっと寄る。
「……じゃあ、どうすればいいの」
苛立ちと悔しさが混じった声。
上級生は、少し考える素振りをしてから、
周囲を一瞥し、声を落とす。
「恥をかかせる必要はない」
「責める必要もない」
ユリアンの耳元に、そっと口を寄せる。
「ただ——」
「彼女が“自分で間違えた”と思う状況を、用意する」
囁きは、静かで冷たい。
「規則を盾にして」
「慣習を理由にして」
「周りの視線で、縛る」
「そうすれば、誰も手を出さない」
ユリアンの喉が、ひくりと鳴る。
「……そんなこと、できるの?」
「できるさ」
上級生は、即答した。
「だって、誰も嘘を言わない」
「“正しい顔”をしているからね」
⸻
沈黙。
やがて、ユリアンは小さく息を吐いた。
「……分かったわ」
その目には、さっきまでの苛立ちはない。
代わりに——
期待と高揚が、わずかに滲んでいた。
上級生は、満足そうに微笑む。
「次は、もう少し上手くやろう」
「君は、向いている」
そう言って、影の中へ溶けるように消えた。
⸻
その頃、リュシアは職員室の前に立っていた。
提出先を確認するために。
自分が、
すでに“試され始めている”とも知らずに。
学術都市エイドリアは、今日も整っている。
だが今、
嫌がらせは“感情”から“仕組み”へと姿を変えた。
そしてそれは——
記録には、決して残らない。




