第5章 名を捨てる者と、動けぬ者たち
王都アストリアでは、
目に見えない停滞が、静かに広がっていた。
神官が来ない。
祭事は延期され、
裁きは先送りにされ、
神殿に本来あるべき声が欠けたままだ。
評議の間には、重い沈黙がある。
「……また、か」
誰かが事実だけを口にした。
「リュネリアからの神官派遣は、いまだ返答なしです」
「物資は?」
「すべて送っています。
帳簿も、証人も、運搬路も揃っている」
誰も反論しない。
反論できない。
⸻
第三王子セリウスは、
椅子にもたれ、腕を組んでその光景を眺めていた。
(止まってるな)
制度ではない。
人の口だ。
正しい言葉ほど、
誰も最後まで言い切らない。
「……つまり」
セリウスが、軽く口を開いた。
「誰も間違ってないけど、
誰も進ませない、ってことですよね」
一瞬、空気が固まる。
誰も否定しない。
「王子、それは――」
「分かってます」
セリウスは笑った。
「ここで言う話じゃない」
(でも、ここにいても意味はない)
その判断は、すでに終わっていた。
⸻
評議の後、
セリウスは王妃の私室を訪れた。
「行くんでしょう?」
王妃は振り向かずに言った。
驚きはない。
止める気もない。
「うん」
セリウスは軽く頷く。
「名は隠す。立場も捨てる」
「王子として行ったら、
“正しいこと”しか見えなくなるから」
王妃は、静かに彼を見る。
「……あなたは、
人を見る目を持っている」
柔らかな声で、王妃は語りかけた。
「あなたに対しても、
私の大切な友人と同じように、
その目を信じているの」
セリウスは肩をすくめた。
「期待しすぎだよ」
「違うわ」
王妃は微笑む。
「信じる、だけ」
⸻
王妃は続ける。
「神官は、
神の言葉を正しく“伝える”人たち」
「でもあなたは、
迷っている人を見て、
一緒に立ち止まれる」
「今のこの国には、
その目が必要よ」
セリウスは、少しだけ真面目な顔になった。
「……失敗するかも」
「ええ」
即答だった。
「だから、学びなさい」
王妃は背を向ける。
「戻ってきたとき、
あなたは“王子”でなくていい」
「“判断できる人間”でいれば、それでいい」
⸻
同じ頃。
宗教国家リュネリアの神殿では、
別の沈黙が続いていた。
巫女は祭壇の前で目を閉じている。
神託は下りていない。
誤りではない。
ただ、沈黙しているだけだった。
「……待ちましょう」
大神官は静かに言う。
「神の言葉は、
人の都合では下りません」
誰も反論しない。
⸻
神殿の奥。
上級神官エルマスは、
積み上がった書類の前に立ち尽くしていた。
聖別待ち。
判断保留。
神託待ち。
箱は増え続け、
行き先だけが決まらない。
(神は、沈黙している)
(だが、人は待たない)
その言葉を、
彼は飲み込んだ。
神殿とは、
そういう場所だった。
⸻
夜。
セリウスは簡素な旅装を整える。
鏡の前で、
自分の顔を見る。
「……王子じゃない顔だな」
小さく笑う。
名を捨て、
立場を伏せ、
残るのは判断だけ。
「境界へ行く」
それが、
王都でできる唯一の“行動”だった。
⸻
神は沈黙している。
だが、人は動かねばならない。
王子は名を捨て、
神殿は判断を捨てた。
その結果として、
境界という場所が生まれる。
責任が消え、
判断が止まり、
それでも世界が進んでいく場所。
翌朝。
名を持たぬ一人の青年が、
境界へ向かう道を歩き始めた。




