第40章 揺らぐ居場所
午前の講義は、いつも通り淡々と進んだ。
魔法史。
理論式の変遷。
精霊と契約の在り方。
リュシアは机に向かい、静かに筆を走らせていた。
特別なことは何もない。
ただ、学ぶ時間。
(……こういう日が、好き)
隣ではカイオンが、淡々と板書を書き写している。
先日の精霊術の演習が嘘のように、表情は変わらない。
フェリクスはというと、講義中にもかかわらず、
どこか楽しそうに話を聞いていた。
「真面目だね、君たち」
小声で言われ、リュシアは軽く肩をすくめる。
「学びに来ていますから」
「それが一番正しい」
フェリクスは、くすりと笑った。
講義が終わり、学生たちが一斉に動き出す。
廊下には、ざわめきと笑い声。
日常。
それ以上でも、それ以下でもない。
⸻
一方。
演習場から離れた、学園の裏手。
池の水面を、ローデリクは無言で睨みつけていた。
「……くそ」
石を一つ、投げる。
水面が波打ち、すぐに元に戻る。
「気にしすぎだって」
背後から、取り巻きの一人が軽い調子で言った。
「あんな庶民、たまたまだろ」
「精霊が気まぐれに応えただけさ」
別の者が続ける。
「次は普通に戻るって」
「君の方が格上なのは変わらない」
ローデリクは、答えなかった。
——違う。
あの場で感じたものは、
“たまたま”ではなかった。
(あいつは……)
思い出すだけで、胸の奥がざらつく。
精霊が、従っていた。
いや、選んでいた。
「……うるさい」
ローデリクは、低く吐き捨てる。
「放っておいてくれ」
取り巻きたちは顔を見合わせ、
肩をすくめて去っていった。
一人になる。
池の水面に映る自分の顔は、
ひどく歪んで見えた。
⸻
「やあ」
不意に、声がした。
ローデリクは、苛立ちを隠さず振り返る。
そこに立っていたのは、
見覚えのある上級生だった。
穏やかな笑み。
物腰は柔らかい。
「君、ローデリクだよね」
「……何だ」
警戒を隠さないローデリクに、
上級生は気にした様子もなく続けた。
「この前の精霊術、こっそり見てたんだ」
ローデリクの眉が、ぴくりと動く。
「君の方が、僕はすごいと思ったよ」
その言葉に、
胸の奥で何かが、わずかに持ち上がる。
「……は?」
上級生は、池を一緒に眺めながら言った。
「正直さ」
「彼、何かやってそうだよね」
軽い口調。
だが、含みのある言い方。
「精霊が、あんな反応するなんて」
「普通じゃない」
ローデリクは、黙っていた。
否定も、肯定もできない。
——だが。
自分だけが感じた違和感ではなかった。
それだけで、
胸の奥に溜まっていた何かが、
少しだけ、形を持つ。
「……君も、そう思うか」
ぽつりと漏れた言葉に、
上級生は、にこやかに頷いた。
「うん」
「だからさ」
視線を、ローデリクに戻す。
「もし、気になるなら」
「ちゃんと話せる人、紹介しようか」
池の水面は、静かだった。
だがローデリクの中で、
何かが、確かに揺れ始めていた。
それが、
ただの愚痴の延長なのか。
それとも——
取り返しのつかない入口なのか。
この時点では、
まだ誰にも分からない。
学園は、今日も平穏だった。
その裏で、
小さな感情の歪みが、
静かに芽を出していた。




