第28章 試験の朝
試験会場へ向かう朝の街は、まだ眠っていた。
石畳に落ちる足音が、やけに響く。
リュシアは、馬車の窓から外を見ていた。
(……静かすぎる)
本来なら、受験者を乗せた馬車が何台も行き交い、
宿の前では荷をまとめる音や声が飛び交っているはずだ。
だが今朝は違った。
通りの角ごとに、人影がある。
行商人に扮した者。
ただ立っているだけの男。
掃除人のような格好で、視線だけを動かす者。
(……多い)
気づいた瞬間、背筋がわずかに強張る。
だが、馬車の中は落ち着いていた。
御者も、同乗している護衛も、必要以上の緊張を見せない。
まるで――
**「何か起きる前提で、何も起こさせない」**配置だ。
(……おそらくレグナ様だ)
聞いてはいないが、母か父からに頼まれて護衛の配置を考えたのだろう。
――目立たない者を増やす。
派手な鎧も、旗もない。
だが確実に、逃げ場のない包囲。
そのとき。
通りの向こうで、視線が絡んだ。
黒衣の男。
建物の陰に立ち、こちらを見ている。
一瞬だけ。
次の瞬間、
男は何事もなかったかのように踵を返した。
合図も、追跡もない。
ただ――消える。
(……今のは)
リュシアが問いかける前に、
御者が低く言った。
「問題ありません」
それだけだった。
だが、声は断定していた。
――去った、と。
馬車は止まらない。
何もなかったかのように、
試験会場へ向かって進み続ける。
(……守られている)
その事実が、ようやく胸に落ちた。
そして同時に理解する。
(守られるほどの理由が、ある)
⸻
試験会場は、静まり返っていた。
広い講堂に並べられた机。
石造りの壁に反響するのは、紙をめくる音と、靴底が床を擦るかすかな気配だけだ。
張り詰めた空気が、肌に触れる。
(……思ったより、厳しい空気)
リュシアは席につきながら、周囲を見渡した。
貴族の紋章を誇示するような服装の者。
実用性だけを重視した質素な衣の者。
すでに勝ちを確信しているかのように、腕を組んで目を閉じている者。
視線がぶつかっても、誰も口を開かない。
――ここは学術国家エイドリア。
知識と結果だけが、価値を持つ場所だ。
やがて、試験官が前に立った。
「これより、入学試験を開始する」
短い宣言。
それだけで、空気がさらに引き締まる。
試験用紙が配られた。
(……難しい)
最初の数問に目を通した瞬間、そう感じた。
だが同時に、別の感覚もあった。
(解けない問題じゃない)
問われているのは、単なる暗記ではない。
制度の理解。
前提条件の整理。
複数の立場を踏まえた判断。
境界で見てきた停滞。
神殿と国家の関係。
責任が宙に浮いたまま、誰も決断しない構造。
それらが、形を変えて問いとして並んでいる。
(……全部、知ってる)
知らず知らずのうちに、リュシアはペンを走らせていた。
⸻
斜め前の席で、誰かが小さく舌打ちをした。
派手な服装の青年だ。
問題用紙を睨みつけ、いら立ちを隠そうともしていない。
その視線が、少し離れた席に向けられた。
粗末ではないが、明らかに場違いな服装の受験者。
飾り気もなく、肩の力も抜けている。
青年は、鼻で笑った。
(……ここで、その格好か)
リュシアは一瞬だけ視線を向け、すぐに問題に戻った。
試験中だ。
他人に構っている余裕はない。
だが、その視界の端で――
その質素な受験者が、迷いなくペンを動かしているのが見えた。
速すぎず、遅すぎず。
考える時間と書く時間の切り替えが、はっきりしている。
(……落ち着いてる)
別の席では、また違う空気があった。
背筋を伸ばし、問題を読む速度が異様に速い受験者。
一問ごとに小さく息を吐き、答えを書き込んでいく。
(……あれも、できる)
会場には、確かに“差”があった。
声の大きさでも、身なりでもない。
考え方と、迷いの少なさ。
⸻
時間が進むにつれ、焦りが滲み始める。
紙を叩く音。
椅子を鳴らす音。
消し跡が増えていく。
派手な服装の青年は、明らかに苛立っていた。
問題文を読み飛ばし、何度も書き直している。
一方で――
質素な服装の受験者は、最後の設問に静かに向き合っていた。
(……同じ問題を見てるはずなのに)
その差に、リュシアはわずかに息を呑む。
試験官の声が響いた。
「終了だ。筆記具を置け」
一斉に、ペンが置かれる。
空気が、ふっと緩んだ。
だが――
ここからが本当の試験だ。
誰が残り、誰が消えるのか。
名前も知らないまま、結果だけがすべてを決める。
リュシアは、深く息を吸った。
(……あとは、出し切った)
視線の先で、派手な服装の青年が苛立たしげに立ち上がる。
質素な受験者は、静かに紙を揃えていた。
その背中を見ながら、リュシアは思う。
(この中に――
あとで名前を知ることになる人がいる)
そして同時に、こうも思った。
(……きっと、全員じゃない)
試験会場を出る足音が、重なっていく。
その中で、
静かに次の物語が、動き始めていた。




