第27章 試験前夜の小さな事件(母、再襲来)
試験前夜の宿は、異様に静かだった。
廊下を歩く足音も控えめで、
灯りも必要最低限に落とされている。
誰もが、同じ理由で眠れずにいる。
――明日の試験。
リュシアは机に向かい、最後の確認をしていた。
すでに何度も読み返したノート。
それでも、指が自然とページをめくる。
(もう大丈夫)
(……それでも、不安になるのは仕方ない)
ふっと息を吐いた、そのとき。
——コン。
軽い音に、リュシアは顔を上げた。
次の瞬間。
ガチャリ、と窓が開いた。
「リュシア!」
「——っ!?」
反射的に立ち上がる。
夜気とともに現れたのは、見慣れすぎた人物だった。
「お母さま!?」
母は堂々と部屋に足を踏み入れ、後ろを振り返って言う。
「大丈夫よ。ちゃんと許可は取ってあるわ」
その背後で、護衛が無言で深く頭を下げていた。
「……いえ、問題はそこではなくてですね……」
リュシアが言い終わる前に、母はテーブルに包みをどさりと置いた。
「夜食よ」
「……この量で、ですか?」
「試験前夜でしょう?」
母は真顔だった。
「脳は糖分を使うのよ」
「それから冷えると集中力が落ちる」
「あと、明日は緊張で胃も荒れるわ」
包みを開くたびに、次々と中身が現れる。
温かいスープ。
焼き菓子。
干し果物。
蜂蜜漬けのナッツ。
「……多くないですか?」
「全然足りないわ」
即答だった。
「それに、ほら」
今度は別の袋。
「替えの羽織」
「念のための筆記具」
「こっちは予備」
「こっちは予備の予備」
「お母さま……」
リュシアは額に手を当てた。
「前回のリュネリア任務は短期だったでしょう?」
母は腕を組む。
「しかも老練なレグナが一緒だった」
「だから許したの」
——そこを基準にするのか、という疑問は飲み込む。
「でも今回は違うわ」
母の声が、少しだけ低くなる。
「留学よ」
「長期間」
「しかも試験付き」
一拍、間。
「……心配しないわけがないでしょう」
リュシアは、何も言えなかった。
子どもの頃から変わらない。
この人は、こういうとき、決して感情を隠さない。
「……ありがとうございます」
小さくそう言うと、母は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに笑った。
「いいのよ」
そして、少しだけ声を落とす。
「合格しなくてもいい」
「あなたが、あなたであることは変わらないわ」
でも、と付け加える。
「行くなら――」
「一番で帰ってきなさい」
リュシアは、思わず苦笑した。
「……はい」
母は満足そうに頷き、踵を返す。
「じゃあ、邪魔したわね」
窓に手をかけて、振り返る。
「ちゃんと寝るのよ」
「分かっています」
窓が閉まり、夜気が消えた。
静けさが戻る。
リュシアは椅子に座り直し、深く息を吸った。
机の上には、母が置いていった夜食と――
不器用なほどの愛情が残っている。
(……よし)
明日は、試験だ。
自分の力で。
自分の意志で。
境界を越えるための、一歩目。
灯りを少し落とし、
リュシアは目を閉じた。




