第26章 机に積まれた覚悟
夜更けの屋敷は、静まり返っていた。
灯りが残っている部屋は、一つだけ。
書斎――いや、今はもう勉強部屋と呼ぶべき場所だ。
机の上には、書物が積まれている。
歴史、法制度、統治論、神学、算術、外交文書。
どれも分厚く、
どれも「一夜でどうにかなる」量ではない。
リュシアは、その中央に座っていた。
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(……試験は、推薦じゃない)
エイドリア留学には、道がいくつかある。
王族の推薦。
国家推薦。
あるいは――試験。
リュシアが選んだのは、最後だった。
理由は、単純だ。
(分かっている“つもり”で行きたくない)
(選ばれたから、じゃなくて)
(通ったから、行きたい)
ペンを握る指に、自然と力が入る。
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その頃。
屋敷の別室で、
リュシアの父と兄は、静かに客を迎えていた。
「遅くにすまない」
現れたのは、レグナだった。
軍装ではない。
だが、立ち姿に無駄がない。
「事情は、聞いています」
短く、それだけ言う。
父が、重く口を開いた。
「娘を、エイドリアへ行かせる」
「止められなかった」
レグナは、責める様子もなく頷いた。
「止められないでしょうね」
その一言で、
この場にいた全員が理解した。
彼女も、同じ結論に辿り着いている。
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「ならば、守り方を変えましょう」
レグナは、淡々と続けた。
「護衛は増やします。
ただし、目立たない者を」
「同行者は、身元を完全に洗う」
「王都からエイドリアまでの経路は、
三通り用意します」
兄が、思わず息を吐く。
「……そこまで?」
「当然です」
レグナは即答した。
「学ぶために行く者ほど、途中で狙われる」
「“利用できない人間”になる前に、
潰したい者は必ず出ます」
父は、目を伏せた。
「娘は……それを承知で?」
「ええ」
レグナは、はっきりと言った。
「最初から、分かっています」
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しばしの沈黙。
それを破ったのは、父だった。
「……頼む」
「親としてではなく」
「国の人間としてでもなく」
「一人の父として」
レグナは、わずかに表情を和らげた。
「承りました」
「ですが――」
一拍、置く。
「最終的に彼女を支えるのは、
私ではありません」
「机に向かう、その覚悟です」
そう言い残し、
レグナは静かに席を立った。
⸻
その頃。
リュシアは、ページをめくっていた。
《各国統治における責任の所在》
《宗教裁定と世俗法の衝突事例》
《判断を先送りにした国家の末路》
――最近、見た光景ばかりだ。
境界の街。
聖別倉庫。
裁かれなかったもの。
守られなかったもの。
「……だから、学ぶんだ」
声に出して、確認する。
知識のためじゃない。
称号のためでもない。
判断するためだ。
⸻
夜が更ける。
時計の針が進んでも、
書物の山は、ほとんど減らない。
「……っ」
額に、汗が滲む。
目が痛い。
肩が重い。
頭が熱い。
それでも、手は止まらなかった。
(これくらいで音を上げてたら)
(向こうでは、通用しない)
エイドリアの試験は、甘くない。
国内外から、
王族、貴族、天才、秀才が集まる。
その中で、
「王権派の大貴族の娘」という肩書きは、
むしろ減点材料だ。
⸻
扉の外で、足音が止まる。
「……まだ起きているな」
兄の声だった。
「少し休め」
「無理はするな」
その声に、
リュシアは一瞬だけ目を閉じる。
(心配されてる)
(分かってる)
それでも――。
「大丈夫です」
扉越しに、はっきり答えた。
「今やらないと、
きっと後悔しますから」
沈黙。
やがて、兄は小さく息を吐いた。
「……本当に、変わらないな」
足音が、遠ざかる。
⸻
机に向き直る。
書物の隙間から、
昼間、母がそっと置いていった毛布が見えた。
(……過保護)
思わず、少しだけ笑う。
そして、またページをめくる。
夜は長い。
だが、迷いはもうない。
この試験は、通過点だ。
リュシアは、ペンを走らせ続けた。
――エイドリアへ行くために。
――そして、次に“判断する側”になるために。
机の上に積まれたのは、
書物だけではない。
覚悟そのものだった。




