第25章 止められない理由
その夜、
誰かは剣を置き、
誰かは眠れぬまま朝を迎えた。
境界で起きた出来事は、
まだ「事件」として整理されていない。
だが――
止まらなかったものだけが、
静かに次の朝へ持ち越されていた。
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朝の執務室は、やけに静かだった。
「……本当に、行かせるつもりか」
重い声でそう言ったのは、リュシアの父だった。
代々評議会に名を連ねる大貴族。
冷静沈着で知られた男だが、今日は机上の書類に一切目を落としていない。
対面に座る兄が、静かに答える。
「もう、止められません」
「分かっている」
父は深く息を吐いた。
「だが、納得できるかどうかは別だ」
⸻
エイドリアへの留学。
それは名誉であり、機会であり、
同時に“余計な心配”を呼ぶ選択でもあった。
隣国ではある。
地理的にも近く、街道は整備され、争いの気配もない。
学術国家エイドリアは、穏やかで理知を尊ぶ国として知られている。
――理屈の上では、これ以上ないほど安全だった。
だが。
「推薦だけで通せる立場だ」
父は低く言った。
「王権派の筆頭家だぞ。
なぜ、わざわざ試される必要がある」
兄は一瞬だけ言葉を選び、それから答えた。
「……本人が、それを望んでいます」
その言葉に、父は目を閉じた。
(分かっている)
(あの子は、そういう子だ)
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止めるための試みは、いくつもあった。
・王への直談判
・評議会内での制度解釈
・「時期尚早」という名目の延期案
結果は、すべて同じだった。
「本人の意思を尊重する」
王はそう言い、
レグナは苦笑し、
最後にこう付け加えた。
「……溺愛が過ぎますよ」
その一言で、すべてが終わった。
⸻
――はずだった。
扉が、勢いよく開いた。
「だからって!」
「安心できるわけないでしょう!」
乱入してきたのは、母だった。
「前回のリュネリア任務はね、
短期だと思ったから許したのよ!」
父と兄が、同時に黙る。
「しかも――」
母は指をぴしっと立てた。
「老練で、あのレグナが一緒だった!」
「何かあっても、
あの人がいるなら大丈夫だって、
そう判断したの!」
「でも今回は違うでしょう!?」
声が一段階上がる。
「留学よ!?
数日じゃない!
数週間でもない!
年単位で家を離れるのよ!」
「試験がある時点で心配なのに、
そのあともずっと他国にいるなんて――」
母は胸に手を当てた。
「それを、
“安全です”の一言で
納得できる母親がどこにいるの!」
父が低く言う。
「……理屈では、安全だ」
「理屈なんて知らないわ!」
母は即答した。
「これは理屈の話じゃないの!」
「心配なの!」
⸻
その会話を、廊下の向こうで聞いていたリュシアは、
思わず壁に背を預けた。
(……やっぱり、聞こえてた)
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
心配されている。
本気で、引き止められている。
それでも――。
(それでも、行きたい)
理由は、もうはっきりしていた。
知るためだ。
判断できるようになるためだ。
誰かに決められ、
誰かに使われ、
それでも「正しかった」と言われる世界を、
そのまま受け入れないために。
同じことを、
二度と繰り返さないために。
⸻
執務室の中では、
母の声がまだ響いている。
「せめて!
せめて護衛を倍にして!」
「母上……」
「倍よ!
最低でも倍!」
父は、ついに観念したように天井を仰いだ。
「……レグナに相談しよう」
「最初からそうしなさい!」
そのやり取りに、兄は小さく笑った。
止められない。
だが、守ることはできる。
それが、この家族の選んだ答えだった。
そして――。
誰よりも強く、
誰よりも必死に守られていることを、
リュシア自身が一番よく分かっていた。
それでも彼女は、
一歩を踏み出す準備を始めていた。
窓の外では、
王都の鐘が、変わらぬ調子で正午を告げていた。




