第23章 残った言葉
温室に、人はいなかった。
正確には――
もう、誰もいないはずの時間だった。
紅茶の香りだけが残り、
白い陶器のカップは片づけられず、
窓辺の花が、ゆっくりと影を伸ばしている。
侍女は、息を殺して立っていた。
本来なら、
とっくに下がるべき刻限だった。
けれど――
王妃が、まだ動かなかった。
椅子に深く腰掛けたまま、
王妃は窓の外を見ている。
その背中は、
いつもより小さく見えた。
「……行かせてしまったわね」
独り言だった。
誰に向けたものでもない。
神でも、王でも、娘でもない。
ただ、
残ってしまった言葉。
侍女は、足を動かせなかった。
「守っているつもりで」
王妃は続ける。
「実際には、
“選ばせている”だけなのかもしれない」
指先が、カップの縁をなぞる。
震えてはいない。
だが、力も入っていない。
「正しいわよ」
ぽつりと、言った。
「正しい選択だと、
私は思っている」
それでも――。
「それでもね」
声が、ほんのわずかに落ちた。
「世界は、
正しい者から削れていく」
その言葉に、
侍女は思わず胸を押さえた。
(……聞いてはいけない)
そう思った。
けれど、耳は離れない。
「だからこそ、
手を伸ばせる者が必要なの」
王妃は、静かに微笑んだ。
それは、
茶会で見せた微笑とは違う。
誰にも見せない、
母でも、王妃でもない顔。
「学びなさい、リュシア」
名を呼んだ。
そこに相手はいないのに。
「剣でも、
祈りでもないところで」
「世界を止められる場所を、
あなたは探しなさい」
そして――
「もし、戻れなくても」
一瞬、
言葉が途切れた。
温室の時計が、
小さく音を立てる。
「それでも、
あなたの選択を、
私は否定しない」
長い沈黙。
王妃は、ゆっくりと立ち上がった。
「……さあ」
「仕事に戻らなくては」
その瞬間、
背中から“重さ”が消えた。
王妃は、もう王妃だった。
侍女は、深く一礼する。
何も聞かなかった。
何も見なかった。
――それでいい。
だが。
温室に残された言葉だけは、
確かにそこにあった。
誰にも命じられず、
誰にも記されず、
それでも確かに――
次の選択を、押し出してしまう言葉が。
侍女は、そっとカップを下げながら思う。
(この国は)
(この世界は)
(まだ、
選ぶことをやめていない)
それだけが、
わずかな救いだった。




