第6話ー浄化
目を覚ますと、空気の質が昨日と違っていた。
窓を開ける前から鼻腔の奥にざらつく匂いが張りついている。
湿った布を焦がしたような、甘く重たい腐臭。
ゆっくりとカーテンを引くと、薄雲の下で街は相変わらず静止しているのに、静止の奥が少し崩れ始めているのがわかる。
道の端を黒い筋がなぞっていた。
昨晩の雨の名残が排水溝へと流れ込まず、薄茶色の水たまりになっている。
近づくと表面が細かく泡立ち、油膜が虹色にゆがんだ。
風が吹くたび、その虹がほどけてはまた結び直され、じわりと刺すような臭気を放つ。
ベランダから川面を覗く。水は濁り、上ずった泡が岸辺に帯のように積もっている。対岸の工場跡では換気塔が沈黙しているはずなのに..
「……人がいなくなっても、汚いままかよ」
思わず口に出た声は、すぐ空へ吸われた。
信号は正確に色を替え、無人の横断歩道にきちんと影を落とす。
だがその足元の排水口からは、見えない何かがゆっくりと漏れ出している。
世界は止まっているのではなく、止まったまま腐っていく。
そんな実感が、胸の底に重く沈んだ。
歯を磨きながら、水道の蛇口を開ける。金属の匂いがわずかに強い。
コップに落ちた水は透明だが、舌の奥で鈍い味がきしんだ。
飲み干してから、鏡の中の自分を見る。髭は相変わらず一本も伸びず、目の下の影だけが濃くなっている。
台所の窓を開けると、さらに濃い匂いが流れ込んできた。
コンビニの裏手に積まれた生ごみが限界を越え、袋の口から褐色の液が滲んで舗装に地図のような模様を描いているのが見える。
虫の羽音が、静寂の空気に粒のように散って、すぐ消えた。
ここから逃げ場はない、と理解した。
世界は、誰かに片づけられるのを待ってはくれない。待つという行為さえ、この街にはもう存在しないのだ。
昼前、風が強くなった。雲が低く流れ、遠くの空がかすかに黄ばんでいる。
外に出ると、匂いがさらに濃くなっていた。腐った水と油の混ざったような重たい臭気が、街全体に薄い膜を張っている。歩くたびに靴底が湿ったアスファルトに沈み、ぬるりとした感触が伝わった。
川沿いの道を歩くと、沈殿した泡の層の間から魚の腹が浮かび上がっていた。白く膨らみ、目が虚空を見開いている。何匹も、何十匹も。
足を止めて見下ろすと、水面に濁った影が揺れ、どこまでも底が見えない。
「……人間がいなくても、世界って勝手には綺麗にならないんだな」
自嘲のように呟いて、ポケットに手を突っ込む。
少し先には廃工場があった。錆びた鉄のゲートは半開きで、内部には誰もいない。だが、排水口のあたりで黒い水がゆっくりと滴り落ちているのが見えた。
近づくと、地面の土が油に濡れて光っている。流れ出る液体は黒よりも濃く、どろりとした粘性を持ち、鉄の匂いと酸の臭気が混ざっていた。
「こんなの……人間がいたときからだろ」
吐き捨てるように言って、拳を握る。
工場の壁に残った企業ロゴは、半分剥がれ、白いペンキの下から別のマークが顔を覗かせている。上塗りされ、隠され、それでも滲み出すように消えない。まるで人間の罪の層だ。
風が吹き抜け、看板の残骸がギィと軋んだ。その音が不気味に響いて、まるで誰かがこちらを見ているような錯覚を呼ぶ。
「贖罪のために異界へ渡った、か……」
苦笑が漏れた。
「だったら、こっちのゴミは誰が片づけるんだよ」
誰もいない工場跡に、声だけが響いた。
黒い水がゆっくりと流れ落ちていく。
指先にまとわりつく風が湿っていた。
ふと、胸の奥で何かがわずかに動いた。怒りでも悲しみでもない、もっと鈍い衝動。
「……俺が、やるしかないのか」
呟きながら、主人公は川辺へ歩き出す。
風は止み、空気が重たく沈黙した。
次の瞬間、指先が濁った水面に触れる。
指先が水に触れた瞬間、世界の音が止まった。
風の流れも、鳥の声も、すべてが一拍遅れて静止する。
黒く濁っていた水が、主人公の手のひらを中心にしてゆっくりと揺らめき、淡い光の輪を描いた。
その光は油膜の虹を焼くように透きとおり、泡がぱちん、と弾けては消えていく。
気づけば、川面全体が鏡のように澄み渡っていた。
死んでいた魚たちは跡形もなく消え、底の石までもが輝きを取り戻している。
光は水から空へと昇り、夕焼けの色を混ぜながら消えていった。
「……なんだ、これ……」
呆然と呟く声に、返事のような響きが頭の奥に流れ込む。
> 「それが“浄化”だ。」
> 「お前が触れた場所は清められる。だが、浄化は赦しではない。」
> 「それは、過去を映す鏡だ。」
息を呑む。光に包まれた水面の奥に、何かが揺れていた。
人の影。笑い声。ざわめき。
まるで過去の残響が、川底から立ちのぼるように。
> 「汝が清めた地は、かつてそこにあった“記憶”を呼び戻す。」
声は淡々としている。
主人公は震える手で水をすくい、掌に溜まった透明を見つめた。
その中で、小さな子どもが水遊びをしている映像のような光景が映る。
楽しげな笑い声が一瞬だけ響いて、すぐに消えた。
「……過去を、見せられてるのか……?」
誰にも届かない問い。
それでも声は応えた。
> 「お前は罪を見届ける者。
> その手で、世界を洗い続けろ。」
風が戻る。音が流れ出す。
水は何事もなかったかのように静まり、川面に映る夕空が金色に染まった。
その光の中で、主人公は息を吸い、吐いた。
「……赦しじゃないなら、これはなんだよ」
答えは返ってこなかった。
ただ、掌に残る冷たさだけが現実を示していた。
家に戻ると、玄関の空気が違っていた。
外の冷たさではなく、ぬくもり――人の気配が微かに漂っている。
靴を脱ぐ手が震えた。部屋の灯りはつけていないのに、リビングの奥からやわらかな明かりが漏れている。
「……まさか」
足を進めると、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
味噌と煮干し、出汁の香り。
台所に立つ人影はない。だがテーブルには、温かい湯気を立てる料理が並んでいた。
白米、味噌汁、焼き魚。見覚えのある器。
――母さんが、昔よく作ってくれた朝食だった。
手が勝手に伸びる。
箸を取る指先が震え、胸が締めつけられる。
「……母さん?」
呼びかけても返事はない。
それでも、壁の向こうで誰かが笑ったような気がした。
湯気が揺れ、影が踊る。
「……やめろよ、そんな幻……」
それでも目を逸らせなかった。
口に運ぶ。焼き魚の香ばしさが舌に広がる。
味は確かにあった。温かく、塩気が涙の味と混ざる。
食べながら、彼は嗚咽を押し殺す。
「……なんで今さら、こんなもん……」
言葉は途切れ、喉の奥で崩れた。
やがて料理の湯気が薄れていく。
皿の上の食べ物は、少しずつ光になって溶け、消えていった。
テーブルの上には、湯気の名残と、かすかな温度だけが残る。
主人公は座ったまま、拳を握る。
「……届かないのか。話しかけても、もう。」
夜が明けた。
窓の外は薄い朝霧に包まれている。
昨日まで濁っていた川が、嘘みたいに透き通っていた。
水面を滑る風がやわらかく、鳥が一羽、音もなく降りて水を飲む。
それだけのことなのに、世界が少しだけ息を吹き返したように見えた。
主人公はベランダの手すりに肘をつき、ぼんやりとその光景を眺めていた。
胸の奥が痛い。昨夜の“追憶”が、夢なのか現実なのかももうわからない。
それでも、あの食卓の温度は確かにここに残っている。
川面が朝日を反射して眩しい。
主人公はその光を見つめながら、小さく呟いた。
「……この世界、俺が浄化して、俺がいたってことを...俺が存在したって事実を...自己満足でもいい。いてもいなくても変わらないような俺だったけど、やっぱり何かを残したいじゃないか...」
決意の声は小さく、それでいて確かだった。
止まった世界のどこかで、ほんの一瞬、風が返事をしたように吹き抜けた。




