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第4話ー静寂の中で

 目を覚ました。

 時計の針は、昨日と同じ位置を指しているように見えた。

 寝起きの体はだるくもなく、重くもない。ただ、妙に静かだ。

 鏡を覗くと、髭は伸びていなかった。

 手の傷も完全に消えている。

 「……もう俺は人間じゃないのか...」

 独り言のように呟いて、ため息を吐いた。

 冷蔵庫を開ける。昨日買い込んだレトルト食品とパンが並んでいる。

 本当はもう空腹も感じない。

 けれど、何も口にしないことが“人間をやめる”ことのように思えて、手を伸ばした。

 電子レンジで温めたカレーを一口食べる。

 ――味はする。

 香辛料の刺激、わずかな甘み、ルウの粘度。

 それが妙に鮮明に感じられて、逆に胸が詰まった。

 「まだ……味は、あるんだな」

 熱を持ったスプーンを見つめる。

 味を感じることが、もはや“過去の人間らしさ”の残響のように思えた。

 食欲があるわけでもなく、義務のように最後まで食べ切った。



 昼、外に出ることにした。

 誰もいない世界でも、部屋に籠もっていると息が詰まりそうになる。

 家の隣には、昨日と同じように洗濯物が干されたままだ。

 ワンピースが風に揺れ、袖口が空っぽのままひらひらと踊っている。

 人がいた痕跡は確かにあるのに、誰もいない。

 少し歩けば、公園が見えてきた。

 砂場には小さな足跡が残っている。

 誰のものなのか、もうわからない。

 ブランコが風に揺れ、金属の軋む音が響く。

 「……誰か、残ってるんじゃないか」

 思わず呟いた。

 声が返ってくることを期待して耳を澄ませる。

 だが、返ってくるのは風の音と、木々のざわめきだけだった。

 信号の下では、一台のバスが止まったままだった。

 中には誰もいない。窓の向こうに、乗客の荷物がぽつんと座席に転がっている。

 世界は完全に停止していた。

 どんなに歩いても、人の気配はなかった。


 夜になった。

 月がぼんやりと滲む空の下、ベッドに体を沈める。

 もう驚くことも、怖がることもなかった。

 眠りに落ちると、あの暗闇がすぐにやってきた。

 声が降ってくる。

 「生き続けよ。腐敗を払い、世界を清めよ。」

 「お前は器であり、終わりはない。」

 昨日と同じ言葉。

 俺はもう怒りもしなかった。

 ただ、無表情でそれを聞いていた。

 「……もう驚かねぇよ」

 声は反応せず、ただ淡々と義務を告げ続ける。

 理不尽は日常になり、夢は祈りのように繰り返された。



 目を覚ますと、外はまだ夜だった。

 台所へ行き、水を飲む。

 冷たい。

 ――味がある。

 それだけで少しだけ安心する自分がいた。

 「味覚も、まだある。なら、俺は……まだ人間でいられるのか?」

 ベランダに出て、街を見下ろした。

 動かない街灯、止まった時計、静止した世界。

 それでも空気は流れていて、風は肌を撫でる。

 完全な死ではない。ただの静寂だ。

 「……明日は、少し遠くまで行ってみよう」

 呟きは夜に吸い込まれていった。

 そこに希望があったわけじゃない。

 ただ、止まっていた自分を少しだけ前に進めるための、呼吸のような言葉だった。



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