第1話ー追憶の残響を歩む俺は、世界にひとり残された。
目を覚ましたのは、いつもと変わらない朝だった。
窓の外に差し込む光は眩しく、カーテン越しに見える空は晴れている。時計は七時を少し回ったところを示していた。
仕事のある日と同じ、何の変哲もない時間のはずだった。
顔を洗い、歯を磨き、いつものように玄関を出る。鍵をかけた時点で、ようやく異変に気づいた。
静かすぎる。
通りには人影がない。いつもなら同じ時間に出勤する人の姿が数人はあるはずだ。近所の家のカーテンも閉じっぱなしで、車庫にある車は昨日のまま動いた様子がない。
耳を澄ますと、聞こえてくるのは風に揺れる看板の軋む音と、どこか遠くのカラスの声だけだった。子どもの声も、エンジン音も、誰かの足音もない。
歩きながら何度も辺りを見回した。だが、人の気配はどこにもなかった。
自転車が信号待ちをしたまま倒れている。カフェの入り口は開け放たれていて、テーブルには飲みかけのコーヒーが置かれたまま。コンビニの看板は煌々と灯っているが、ガラス越しに見えるレジには誰も立っていない。
不気味だった。
電気も信号も稼働しているのに、人間だけがごっそり消え失せたような光景。
恐る恐るコンビニに入ってみた。店内はいつも通り、陳列棚にぎっしり商品が並んでいる。おにぎりもパンも、まだ新しい日付のものが並んでいた。だが、レジには人の姿がない。バックヤードの扉も開いていない。
「……おーい」
呼びかけても返事はない。
しん、と空気が張り詰めたように沈黙している。冷蔵庫のモーター音だけがやけに大きく聞こえ、背筋を冷たくした。
レジにお金を置き、おにぎりを一つ手に取って店を出る。誰かに咎められることもなく、ただドアの電子音がむなしく響いた。
道に戻ると、信号が青に変わった。けれど渡る人はおらず、停止線に車もない。風に煽られたコンビニの袋が、ゆっくりと宙を舞い、アスファルトの上を転がっていく。
街が、世界が、人間を置き去りにして動き続けている。
その事実がじわじわと、胃の奥を締めつけた。
歩き続けても、人影はどこにも見えなかった。
商店街のシャッターは半分開いたまま止まり、惣菜屋のケースには揚げ物が並んでいる。まだ油の匂いが残っていた。
その前で、放置された自転車が道に横たわっていた。ハンドルに掛けられた買い物袋の中身は、途中で忘れられたかのようにそのまま。
ふと視線を上げると、風に押されるカーテンが二階の窓からはためいている。そこに人の気配を探したが、やはり誰もいない。
開きっぱなしのカフェでは、半分飲みかけのカップがテーブルに残されていた。
白い陶器の縁には口紅の跡すらあった。
……みんなどこへ行った?
心の中で繰り返しても答えは出ない。
時間の感覚が曖昧になっていた。気づけば太陽が西に傾き、街灯の影が長く伸びている。
足は重く、全身を不安と疲労が支配していた。
夕暮れの風は肌寒く、心細さを際立たせた。
俺はそのまま家へ戻った。
玄関の鍵を閉め、靴を脱いでリビングに沈み込む。
テレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れる。
けれど映ったのは砂嵐ではなく、ただ同じニュース映像の繰り返し。
「交通渋滞の緩和に向けた取り組みが――」
録画のように、昨日と同じニュースが延々と再生される。新しい情報は一切ない。
腹が減った。
机の上に置いたコンビニの袋を漁り、パンと惣菜を取り出す。
「夢だろ……」
口に出した声は、思った以上に掠れていた。
誰もいない部屋で、ひとり呟くだけが唯一の会話だった。
レンジで温めた惣菜の唐揚げを噛みしめる。いつもの味だ。
ただ、その「いつも」がもう戻らない気がして、余計に胸が重くなる。
夜になった。
外は暗く、カーテンの隙間から街灯の光がぼんやりと差し込む。
ベッドに横になっても、目は冴えたまま天井を睨んでいた。
静かすぎる世界で、一人きりの呼吸だけが耳に響く。
やがて意識が沈みはじめる。眠りというより、落下に近かった。
――気づけば、俺は暗闇に立っていた。
足元も、空も、何もない。
音もなく、ただ虚無だけが広がっている。
そのとき、声が降りてきた。
「人類は異界へ渡った。お前は残された。」
反射的に口が動く。
「……は?誰だよ……人類?どこに行ったんだ……?俺も人類だけど...」
唇が震える。
「彼らは贖罪のために異界へ渡った。ひとり残らず。」
背筋に氷を差し込まれたような感覚が走る。
「……じゃあ……なんで、俺だけ……」
答えは無慈悲に告げられた。
「お前は選ばれたのではない。捨てられたのだ。」
押し寄せる理不尽に、胸の奥で何かがはじけた。
「……ふざけんなよ!なんで俺なんだよ!俺は普通に生きてきた!
いいことも、悪いことも!特段目立ったことはしてきてない!
俺より酷いことしてた奴なんかいくらでもいたはずだ!
なんで、なんで俺なんだよ!」
声は変わらず、淡々としていた。
「お前は残された。理由はない。ただ、そう決まったのだ。」
耳を塞ぎたくなる。だが声は直接脳に響き、逃げ場がない。
「お前は死ぬことはない。生き続け、世界を浄化しろ。それが贖罪だ。人類のな。」
足元が崩れるような絶望に飲み込まれる。
「……やめろ……俺は、そんなの……なんで...」
叫んでも、声は止まらなかった。
「お前は悠久を生きる。腐敗を払い、汚濁を清める。贖いは終わらない。」
「聞きたくない!黙れ!」
目を閉じ、耳を塞いでも、声は途切れずに続く。
理不尽すぎる宣告。反論も理由もなく、ただ押しつけられるだけだった。




