筆貸します~水都の冷酷筆匠と神魚の少年~
「涛淳! 涛淳!」
「はあい師匠。ここにおります」
「ぐずぐずしおって。呼んだらすぐに飛んでこいと言っておるだろうが」
「ふぎゃ!」
師匠の振り上げた拳が俺の脳天をしたたかに打ち据えた。
長い銀髪を首の後ろに束ね、頭巾を被った師匠の目が三角になって俺を睨みつけている。
「はい! すみません師匠」
「お前の仕事はどうなっている?」
「仕事……?」
俺は右手を上げて顎に添えると小首を傾げた。
「なんでしたっけ? 今日はまだ何も命じられていなかったような――」
ぶうぅん!
俺は振り上げられた師匠の手を辛うじて躱した。
やったぜ。
空振りに終わった師匠は勢い余って前のめりによろめいた。
と思った瞬間、師匠の腕がぐいと伸びて俺の着物の袂を掴んだ。
ちきしょう。油断した。問答無用で引き寄せられる。
わ、わ。顔が近い近い。師匠の頬に手を置いたらチクチクするぞ。
不精ひげ生えてるな? ちょっと離れて欲しいんだけど。
しかし俺の願いを無視して師匠が耳元で叫ぶ。
「涛淳! お前は『貸筆』と貸し賃を回収するのが仕事だろうが。『色命数士』どもは皆狡猾だ。最上級の私の筆を返すのを惜しんで、あの手この手で返却をはぐらかそうとする。だが私も慈善事業をしているんじゃない。借りたものは必ず返せ。返却期限が過ぎているのだ」
「は……はい! ええと……今回はどの筆を回収すればいいんですか?」
「『翠星』だ。先月末で貸出期間の五年が過ぎた」
師匠が着物のたもとを持つ力を緩めてくれたので、俺はそそくさと離れて壁際の棚に近づいた。引き戸のない棚には貸出台帳の竹簡が軽く三十巻ほど積まれている。
「『翠星』ですね」
俺は棚から古びた竹簡を一つ手にして止めていた紐を解いた。
「ありました。貸している術者の名前は『風凛』。でも師匠、この人の住まいはどこですか? 色命数士としか記載がありません」
「色命数士のことは『伽藍』へ行って聞いてこい。私は知らぬ」
「ええっ~!」
「私の作った『命数筆』を借りた色命数士がどこにいるのか。それを調べるのもお前の仕事。食い扶持を稼がせてやっているのだ。文句があるのか? お前が私の筆作りの助手として、役に立てればまだマシだが……」
腕組みをして、はあぁと深く師匠が溜息をついた。
ずきん、と。胸が深く疼いた。
そんな目で見ないでくれ。師匠の言いたいことはよくわかっているから。
「はい。じゃ『翠星』の回収に行ってきます。貸してから五年も経ってますし、居場所を突き止めるため時間がかかりそうだから、しばらく店に帰れないかも……」
「当然だ。筆と貸し賃を回収するまで、店への出入りを禁ずる。ではな、涛淳」
師匠は筆を作るために奥の作業場へと立ち去っていった。
俺はその背中を黙ったまま見送った。
◇
「すみませんね~。役に立たなくて。ふんっだ!」
俺は筆屋から表の通りへと出た。わかっている。師匠が言う通り、俺は本当にモノづくりができないのだ。細かい作業が苦手というか。
手先がおっそろしく不器用で、作業場を筆づくりのための羽毛や獣の毛で散らかし、筆軸用の細竹を干してみたら、ひび割れさせて売り物にならないものばかり作ってしまう。だから俺に、ただ飯を食わせる気がない師匠が思いついた。
「せめてそのまぶしすぎる美貌を振りまいて、私の筆屋『鳳月庵』の顧客を開拓してもらおう。手始めに『貸し筆』と貸し賃の回収をしてくれ」
美貌って――。
まあ、男の師匠がそう思うのなら、世の女性達も俺の事をそういう風にみているのだろう。お使いで町を歩くと老若男女問わず声をかけられる。
時間があるなら『南天楼』の桃まんを一緒に食べないか、とか。買い物に付き合って、だとか。
かわいい髪の毛だね~触ってもいい? ――とか。
俺の髪は珍しい桃色がかった艶のある銀髪だ。腰まで伸びた髪はそれは雨露で編んだ絹糸の如く、あるいは天女の纏う羽衣の様だと言われたことがある。
目の色は故郷【九仙郷】に湧く『御池』の水と同じ、深い深い瑠璃色。吸い込まれそうな青だ……って、師匠に顔を覗き込まれたことがある。あの時はちょっと怖かったな。
師匠はどうも美しい「色」というのが好きなのだ。心惹かれる「色」に出会うと、花や反物は勿論、おそらく俺が師匠に拾われたのも、俺の目の色が気に入って傍に置きたくなったのでは? と今ならそう思ってしまうのだが考え過ぎだろうか。
そうそう。師匠の紹介をしておくと、名前は鳳庵(二十五才)といって、この水城の都で『命数筆』を作る筆匠だ。
ちなみに俺は十八歳。名前は涛淳。二年前、道端で空腹のあまり行き倒れていたのを師匠に拾ってもらって以来、住み込みで働いている。
ええと、師匠の作る『命数筆』について。これは「色命数士」と呼ばれる、特定の職業の人達が使う筆なんだって。
「色命数士」について俺はあまり詳しく知らないが、この世には「九つ」の生命の色があり、『色命数士』は自らの生気を捧げることで、それらにまつわる力を使うことができる。
生命の色はそれぞれ「色命数」という名がついていて、『色命数士』はその数を、『色符』という短冊に自らの『生気』を含ませた『命数筆』で書く事で術を発動させる。水や炎を操ることはもちろん。天候を変えたり、風を呼んで空を飛ぶこともできるらしい。
俺は師匠に訊ねたことがある。
「『命数筆』を使わないと、『色命数士』は自分の生気を『色符』に書けないのか?」
「そうだ。生気はいわば命の源。『色命数士』は必要以上の生気が体の外に流れ出ないよう『命数筆』でその量を調節する必要がある。粗悪な筆を使うと、まさに命を落としかねない」
「けど師匠。師匠の作る筆って、安いものでも銀貨五枚以上するよな」
「当然だ。私の作る筆は一級品だからな! 安売りは絶対にしない。だが代わりに『貸し筆』をしているんだよ。そもそも「色命数士」共は、一人前になるまで給金が出ない。けれど筆がないと修行ができない。そして筆にも術者との相性がある。『貸し筆』なら手頃な金額でいろんな筆を試せるし、気に入ったら買ってもらえればそれでいい。まあ、ひよっこどもが一人前にならないと、私の筆を買う財力はないだろうがな。ははは……!」
一見、師匠がいい人に見えるでしょ。
でも俺はそれに惑わされたらいけないって感じるんだよね。
師匠の作る筆は本当に高級品で、一月に一本売れればいい方なんだ。
反対に貸筆業の方は好調で、一週間に十人は新規の客が来店する。
ただし、貸し賃は筆の返却日にまとめ払いのため、こうして俺がお客様のところまで回収に行かされるってわけ。
だけど……。
師匠ってどちらかといえば、筆そのものを回収することにこだわっている気がする。回収できなかった筆は、俺が店に来てから一本もない。
筆を回収しない限り、絶対に店に入れてもらえないんだ。
筆匠としては、自分が作った筆がどこかに行ってしまうことに寂しさを感じるのかな。やっぱりそれも考えすぎかな。
◇
筆屋『鳳月庵』を後にして、俺は町を北に向かって歩いていた。
大陸の中央に位置する『湖藍国』の首都、水城。町の中を水路が縦横無尽に走っていて、人々と水が密接な関係にある美しい水都だ。
木漏れ日の落ちる石畳。涼し気な水音のほとりで咲き誇る季節の花々。清水を溜めて作られた洗い場や水飲み場。小さな石橋。船着き場で客待ちをしている船頭と艀。その光景すべてが絵になるような美しい都だと思う。
俺の目的地は町の北側に位置する『伽藍』という建物だ。俺のお得意先は『色命数士』と呼ばれる術者の方達。
彼らの修行場は、まるで皇帝の住まう宮殿のように広い敷地で、寺院のように荘厳で立派だ。
真っ白な外壁に囲まれており、瑠璃色の瓦を葺いた門には金色の扁額が掲げられている。その門を通り抜けると、白と黒の玉砂利がひかれた道が真っすぐ続いており、「色命数」を表す九つの色旗(黄・赤・青・緑・紫・茶・碧・金・白)が壁に沿ってはためいている。
『伽藍』は訓練場である『西翼』という五重の塔と、真ん中に八角型の屋根を持つ大きな講堂がある。俺は講堂の手前、来客の受付をするため事務方が詰める小さな建物に近づいて、引き戸を開けて中に入った。
「お邪魔します」
「はい、こんにちは」
俺の姿を見た四十代の男性が、両手を前に伸ばして拱手した。色命数士の特徴だが、彼らは髪を長く伸ばし、耳の横の毛束を頭頂で団子にまとめている。そこには簪のように、美しい細工が施された『命数筆』が水平に挿し込まれている。
挨拶を受けて、俺も両手の指先を揃えて頭を下げた。
「鳳月庵の者です。師匠の使いで『貸し筆』の回収に来ました。ええと……ここに風凛っていう、色命数士がいるそうなんだけど」
「風凛……いやあ懐かしい名前だな。彼女はとっくに修行を終えて出ていったよ」
「えっ、やっぱりそうなの。じゃ、今は何処にいるかご存知ないですか? 筆の貸出期間が過ぎているんです」
事務方の男性がうーんと唸った。
「筆を貸す時に記録しないのか?」
「そうみたいです。師匠、とってもめんどくさがり屋で。そのくせ、筆は絶対に返してもらえ! って言うんです。わがままで俺も泣きそうです」
うるる。
俺は袖で目頭を押さえて、ここぞとばかりに困っている風を演じる。
いや、本当に頼るのはここしかないんだよ。
すると事務方の男性が不意にぽんと両手を打った。
「ああ思い出したよ。風凛の『子供』が修行中でここにいる」
「ほう! じゃ、会わせてくれないかな。お母さんが今どこにいるのか教えてもらいたい!」
「すまん。その子も行方不明だ」
「はあ? ど、どういうこと? あんたさっき修行中だって言ったじゃん!」
「それは間違いじゃない。ちょっとこっちにきて、あれを見てくれ」
「えっ?」
事務方の男が建物から外へ出るように言った。俺は仕方なくその後に続いた。
男は五重の塔を指差した。正確には、その塔の高さを遥かに超えて、空高くそびえ立つ一本の巨大な松の木をだ。
「なんだ? あの大木は……でっかいなあ」
「月桂はまだ十五才で、この春ここに来たが、緑を司る「四緑」の大した使い手でな。一週間前、術を用いて訓練場一体を森にしてしまいおった。他の木は皆で焼いたり土に戻したりしたが、あの巨木だけはご覧の通り青々と葉を茂らせておる」
いてっ。
木を見上げすぎて首の筋をひねっちまった。
「ええと……風凛の子供っていうのが、その月桂っていうんだね?」
「ああ」
「ふうん。それで月桂は何処に?」
「わからない。訓練場を森に変えたその夜、姿が忽然と消えたのだ」
「行く先に心当たりは?」
事務方の男が肩をすくめて首を横に振った。
「さあ。それがわかれば、行方不明とは言わない」
「探さないのか?」
「修行が厳しくて逃げ出す者もいるからな。それらをいちいち探すほど、こちらは暇じゃないんでね」
「そうなの。じゃあ……月桂の故郷ってどこ? ほら、何か理由があって帰ったのかもしれないだろ」
「ああそれなら知っています。『西陵』ですよ」
◇
マジか。
『西陵』は水城の街から見て西の方角にある地域だ。
遠い。
徒歩なら余裕で一週間かかる。
早馬を使えば一日で行けるが、あいにく俺は馬に乗れない。
でも。
西陵へ行くにはもう一つ特別な経路がある。
俺しか使えないそれなら、一瞬で西陵に行くことができる。
俺は『伽藍』を後にした。とりあえず手がかりは風凛の子供、月桂だ。
母親が借りた『翠星』を持っている可能性がありそうだからな。
「さて……いい具合に日が暮れてきたな」
俺は水城の町にいくつかある『命水』と呼ばれる小さな泉に来た。
おっそろしく澄んだこの泉は、飲料には適さず魚も棲めない。よって主に身を清めるために使われる。俺は衣服を着たまましずしずと泉に入った。
ヒヤリとした水がしっとりと肌になじむ。気持ちよくて懐かしい感覚だ。
俺は白い光に包まれて、人間だった形が水のように溶けて本来の姿へと戻っていく。
体は薄緑がかった淡い金色。お腹は絹のような光沢があり白くてつるつるしている。胸鰭や背鰭も光に透ける金色で、唯一口が――親指を二つ縦に並べたように分厚い。
俺の姿は、ぷるんとした桃色の大きな唇を持つ魚となった。
元々は仙人や神々が住まう【九仙郷】という世界にいたんだけど、人間に興味があって地上に降りてきてしまった。
けれど俺はまだ未熟で人間に化けるのがへただ。魚の姿で地べたにひっくり返っていた所を、鳳庵師匠に救われて今に至る。
『命水』の泉は、地下を通じて各地に湧く別の『命水』と繋がっている。神魚である俺はそれを利用して、遥か遠く離れた西陵の『命水』へ移動することができる。
『命水』の中を泳いで半刻がすぎたかな。
前方の視界が明るくなってきた。
おや? えっ? 水が……水が、ない?
「うええっっぷ!」
なんだなんだ。西陵の『命水』の泉が枯れかけてる!
水がほとんどなくなって、お湿り程度になった泉の底で俺は腹ばいになった。
「ごほっ……なんだ……ここの空気……」
カラッカラに乾いた風が吹いていて、それを吸い込むと胸がきゅうっと痛くなった。
「やべ……皮膚が乾いてきた。息苦し……」
そういえば西陵って、水城と違って緑が乏しい土地なんだ。
草木が何故か育たなくて岩と砂しかないらしい。
「えっ、さかな……?」
その時、誰かが俺の体をそっと持ち上げた。
大きな翡翠色の瞳。肩甲骨を覆うぐらいの長さの黒髪の少年。
そして何よりも感じる――命数筆『翠星』の気配。筆を作った師匠の生気の気配が、眼の前の少年から確かに感じられる。
「お前、月桂だな!」
俺は意識を集中させて、少年の手のひらから飛び出した。
ぱっと白い光に包まれた俺は、瞬く間に人間の姿で立ち上がる。
「さか、魚が人になった!?」
「そうだよ! 俺は涛淳。お前は月桂だな!」
「お魚さんがどうして私の名前を知っているんだ?」
「魚、さかなってうるさいなあ。俺は今人間だろ? 見ろよこの美しい銀色の髪。九仙郷の御池と同じ、澄み切った深い瑠璃色の瞳。そして魅惑のつややかな桃唇。どう見ても美少年だろうが」
「うっ……よくわからないけど。九仙郷――仙界の眷属というのは理解した。そのお魚――涛淳さん、何しにこんな所にきたの? ここは『九黒』の気が濃くて、長くとどまると生気を吸われて命を縮めるよ」
俺はがしっと月桂の肩を両手で掴んだ。
やっと見つけたんだ。絶対に逃さねぇ。
「筆を返してもらいに来たんだ。お前の母、風凛が五年前に『翠星』って筆を、鳳月庵から借りてるんだ。貸出期限が過ぎたから、筆と貸し賃を払ってもらおうか」
「……」
月桂が不意に黙り込んでうつむいた。
緑の瞳にみるみる涙が滲んできて、小さな拳が溢れてきたそれを拭っている。
「おい、どうしたんだ」
月桂はうつむいたまま囁くように呟いた。
「母さんは……死んじゃった」
「なんだって?」
「私は、間に合わなかった……グスッ……後一週間早く、西陵にたどり着ければよかったのに。母さん、西陵に緑をもたらしたいって言ってて……でも体を壊してずっと臥せってたんだ」
「月桂」
月桂の涙が止まらない。拭っても拭ってもそれは溢れ出てくる。
俺は黙ったまま月桂の着物を掴む力を緩めて、そっと頭を抱えこんだ。
「思い出したぜ。西陵は……生気を吸い取る『九黒』の気がなぜか濃くて、大地は干からびて岩石砂漠になったんだよな。月桂、お前はこんな大地に緑を蘇らせたいと思っていたのか?」
肩を貸してやったら気持ちが落ち着いたのか、月桂の頭が小さく縦に頷いた。
「母さんが……それを望んでいたんだ。緑の力を司る『四緑』の色命数士として、大地を蘇らせる方法を探していたけど……この地は母さんの命まで吸い取ってしまった。見て、涛淳さん」
月桂が俺から体を放して懐に手を入れた。
そこには淡緑色に光る一本の命数筆が握られていた。
「うお! それは『翠星』だな! よかった~筆が見つからなかったら、俺は一生店に戻れない所だったぜ」
「そ、そうなの。それは申し訳ない。これは母さんのお気に入りの『命数筆』だったんだ」
「そうかそうか。じゃ、返してくれ」
「あ、返すけどちょっと見て。この地の呪われた様を……」
俺は月桂から筆を取り上げようと思ったが、彼が色命数術を使い出したので手を引っ込めた。月桂は着物の袖から一枚の短冊を取り出し、右手に持った筆に意識を集中させていた。
『翠星』がきらきらと輝きを増している。
月桂が体内にある生気を筆先に集めているからだ。
「我願う。【一つ】日輪降り注ぎ、【三つ】水脈合わさりて――」
月桂が手にした命数筆――『翠星』の筆先を、手にした短冊へ押し付け数字の一と三を書いていく。数字の【一】は黄色の光。【三】は青い光を放ちながら、それらはぐるぐると回って重なった。
「【四つ】大地に萌ゆる緑とならん!」
黄色と青色の数字は重なって、ぱっと鮮やかな緑色に輝いた。
そこには数字の【四】が浮かび上がっていた。
これが『色命数術』。眼の前で見るのは初めてだけど。
月桂はえいやとばかりに短冊を足元へ投げつけた。
ぱあっと真昼の太陽が雲間から射したような光と共に、地面の黒い石ころの合間から、小さな草が芽吹いている。それらはみるみる成長して茂みとなり、そして一本の桂の木が生えて、俺の背よりも高く真っ直ぐに伸びていく。
「すごいなあ……」
成長した木は枝先にいくつもの葉を茂らせていく。
月桂はそれを微動だにせず見つめていた。
なんて子供だ。
植物が育たないという土地で、緑を生み出すことができるなんて。
まあそれを可能にしているのは、師匠の作った命数筆『翠星』の性能もあるんだろうけど。
「すげえよ月桂!」
月桂もまた自分が生み出した大木を見上げていた。が、不意にその体がぐらりと前に傾いだ。
「おい、大丈夫か?」
地面に倒れる前にその体を捕まえる。
顔が真っ青だ。命数筆をぐっと握りしめている手も冷たくて震えている。
閉じられたまぶたがぴくりと動いて、月桂が薄っすらと目を開けた。
「あ、涛淳さん……」
「無理するなよ。お前がすごい『四緑』の使い手っていうのは、ちゃんと見せてもらったからさ」
「ううん。そんなことない。私の力なんて……ほら……」
俺に体を支えられながら、月桂が右手を前に伸ばした。
「なっ!」
眼の前に広がっていた草原はいつの間にか茶色くなっていて、それも黒く染まってしわしわになり、乾いた風に吹かれて散り散りになっていた。あの桂の大樹も、新緑色に輝いていた葉がすべて枯れて地に落ちて、残った幹は老木と化していく……。
「何度やっても枯れてしまう。西陵の大地が命を吸い取ってしまうんです。その原因を突き止めない限り……緑をもたらすことなんてできない。私が色命数術で生み出しても、全く意味がないんです。それに気づいたから、もう伽藍で修行する気力が……なくなってしまった」
「月桂……そうか。それでお前は伽藍から飛び出したのか」
「はい」
俺はふうとため息をついた。
「涛淳さん、すみません。もう自分で立てます」
「お、そうか」
俺は月桂を支えるのをやめて、どうしたものかと腕を組んだ。
「お前の事情はわかったよ。じゃあ、もう『翠星』は必要ないだろ? あと五年分の貸し筆代も支払ってもらわないといけないんだ」
「ちなみに……貸し筆代っていくらですか?」
「『翠星』は上級筆でね。一年で豆銀貨二十枚だから……五年だと百枚だな」
「ひゃ、ひゃくまいって、そんな大金無理です! 払えませんっ!」
「即答だな」
「はい。西陵は貧しくて、外貨を稼ぐ手段が少ないのです。だから私も一人前の『色命数士』になって、その給金を母の元へ仕送りするつもりでいました」
「ふうん……泣かせるなあ。でも月桂、借りたものは返さなくちゃならない、っていうのは、お前も理解しているよな?」
「そ、それはもちろんです」
「お前、『色命数士』の修行を終わらせる気はないのか?」
「うっ……!」
「別に焦ることはないんじゃねえのか? まだお前は十五才の子供だろ? もっと勉強してさ、西陵の大地の事もよく調べてさ。お前が一人前の『色命数士』になった時、いつかここも緑を取り戻せる日が来るかもしれねぇ。伽藍にはお前よりすごい術者だってわんさかいるし」
「涛淳さん……あなたは……やさしい方ですね」
月桂がふっと眉の緊張を緩めて微笑んだ。
「仰る通りかもしれません。確かに、私一人の力だけでは西陵に緑をもたらすことなどできない。でも、一人より二人、いえ、多くの色命数士の力を借りたら……いつか、願いが叶うのかなと思えてきました」
「そうだよ月桂! 人は挫折して、でもそこから立ち上がる度に、以前の自分よりちょっとずつ強くなっていくんだ。俺が人に惹かれるのはそういう部分なんだ。ということで、決まりだな」
「えっ?」
俺は月桂の手をしっかりと握りしめた。
もちろん、逃げられないようにだ。
「お前は伽藍に戻って修行を続けろ。それで貸し賃を出世払いで払う! 悪いが『翠星』は一旦、店に返してくれ」
「あ……涛淳さん……」
「何だ?」
「あのっ……ごめんなさいっ!」
月桂が衣の裾を軽やかに舞わせてその場に土下座した。
額を地面に擦り付けて、俺の前にあるものを突き出す。
「え、えええーーっ!?」
月桂の手には、緑の軸に金で蒔絵の文様が施された『翠星』が握られていた。が、筆の軸にはぱっくりと、大きな亀裂が入っていたのだった。
◇
人間の月桂がいるので、俺達は歩いて水城に戻った。一週間かかったが、俺は片時も月桂から目を離さなかった。もとい、根は真面目な子供なのだろう。もとより逃げることはせず、俺の後ろをついて歩いてきた。
「師匠! すみません。月桂が『翠星』を壊しました! どうしましょう」
「どれ。ほほう……確かに私の『翠星』だ。涛淳、まずは筆の回収ご苦労だった」
あれっ?
思ったほど師匠、怒っていないな。
それどころか、筆の軸に亀裂が入ったそれを、惚れ惚れと眺めている。
俺は絶望感のあまりか、瞳に涙を浮かべている月桂と顔を見合わした。
師匠はそんな俺達は眼中にないようで、作業用の机の上に絹布を敷き、小刀を取り出すと、バキバキと音を立てながら『翠星』の筆軸を引き裂いていた。
「師匠……? 遂に血迷ったか」
「涛淳、これを見ろ!」
師匠が唇を歪めて、普段は冷酷に見える顔に微笑というのを浮かべている!
絹布の上には、筆から取り出された宝石のような石が三つ転がっていた。
「良いぞ良いぞ。この萌える緑の命色! なんという輝き! 素晴らしい。この筆を使っていた人物は、さぞや心の美しい色命数士だったのだろう。純粋な想いに満ちた……澄んだ輝きを見よ」
「師匠……どういうことですか?」
月桂が壊した筆の軸から、きれいな石が出てきた。初めて見る光景だ。
「『命数筆』の中には、術者の生気を取り込んで結晶ができることがある。『命石』というのだがな。私はそれを集めるために筆貸しをしている。金なんかどうでもいい。欲しいのは『命石』なのだ」
ぽかんと石を見つめる月桂に、師匠が深く頷いた。
「命石ができる条件は限られている。お前の母は立派な色命数士だった。それがこの証。誇りに思うがいい」
「ありがとう、ございます」
怯えた表情の月桂は、師匠の言葉を聞いて落ち着きを取り戻したらしい。ぽんぽん、と師匠が月桂の頭を軽く叩いた。
「お前も母と同じ、優秀な色命数士になればいい。筆の貸し賃も支払ってもらわねばならないからな」
あらら。さっきは命石があれば金なんかどうでもいいって言ってたのに。
この師匠ときたら……。
「私は――破門、されるかもしれない。修行中に無断で故郷へ帰ってしまったから。そうしたら……筆の貸し賃、払えないです」
「うーん、思ったんだけど」
俺は月桂と師匠の顔を交互に見つめた。
「師匠。筆作りの手伝いが欲しいんでしょ? 月桂を雇ってみては。俺より数倍手先が器用そうだし。色命数術が使えるから、筆の出来を確認することだってできるじゃないですか」
「涛淳さん、何を言い出すんですか。私はそこまでご厚意に甘えるわけには……」
「私は構わんぞ。いつか筆作りをやめて、絵描きになる夢があるのだ。まあ……しばらくは筆屋をするつもりだが」
「だそうだぞ、月桂。よかったなあ!」
「ええっ! それってもう決定ですか!?」
「決定だ。俺も手伝ってやるから安心しな」
こうして数年後――。
修行を終えた月桂は色命数士になった後、師匠の店を継いで「翠鳳堂」という筆屋を始めるが、それはまた別の物語。
ちなみに俺も、九仙郷には戻らないで、月桂の店にいる。
店の外に坪庭があって、睡蓮鉢を置いてくれたんだ。
俺は店番をしながら時々魚に戻って、そこから道行く人間たちを眺めている。
◇
いらっしゃい。どんな筆をお探しかな。
ああ、今は「鳳月庵」じゃなくて「翠鳳堂」っていうんだ。
師匠は絵を描きたくて、数年前に突然店から蒸発した。あの自由人。でも今の店主、月桂の筆も素晴らしい出来だぜ。
筆を試したいのなら貸し筆もやっている。
お代に関しては心配なく。お客さんが一人前の『色命数士』になったらで構わない。いつでも声をかけてくれよな。
(終)