表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

氷の侯爵令嬢が、婚約破棄され売られた先の成金男爵に本物の愛を教わる話~感謝と共に贈る静かな逆転劇~

作者: あおたん

 

 どくん、どくん、どくん。

 カシャン、カシャン、カシャンと──。


 心臓が歯車のように狂いなく音を立てる。

 リアーナ・グレイアム侯爵令嬢の胸の鼓動は、感情とは無関係に、常に一定の間隔で動いていた。それは──


「リアーナ・グレイアム!貴様との婚約を破棄する!」

「まぁ、レオン様ったら!それって──」

「ああ、コレット。今日から君が僕の婚約者だ」


 ──長年の婚約者が些細な情事に溺れ、婚約破棄を告げた。そんな瞬間でさえ。


 活気に満ちていた会場の喧騒が止まる。そして、視線が一斉に彼女へと向けられた。


 乱れのないドレス。梳きながされた銀糸の髪。翳りのない藍色の瞳。

 喜びも悲しみもそこには存在しない。正しさだけを積み重ねた日々の果てに彼女はただ、かすかに笑う。その時、誰かの呟きが響いた。


「……う、嘘でしょう?」


 その声を皮切りにざわめきが会場に広がっていく。


「リアーナ様が婚約破棄だなんて……、信じられない」

「でもさ、あそこまで隙が無いと息が詰まるのも当然じゃないか?」

「こんな時にも笑みを絶やさないだなんて、やっぱり“氷の冷徹令嬢様”ね。正直、ちょっと怖いわよ」

「ふふ。まあ詰まるところ、欠点の無さが仇になったってとこよね」


 煌びやかなシャンデリアが揺れる大広間。数多の瞳はリアーナただ一人に向けられている。

 その視線に宿るのはきっと、驚きと戸惑い。そして、仄かな愉悦。

 誰もが涙を求め、怒声を待ち、修羅場を期待していた。


 けれど、リア―ナは誰の思惑も受け取らない。

 ぽつり、と声が落ちた。


「承知致しました。婚約の解消、謹んでお受けいたします。殿下のご決断に、心よりの祝福を贈らせていただきますわ」


 会場に響いたのは、制御され尽くした声色。無数の瞳に映る、完璧な微笑み。

 彼女は淀みなくドレスの裾を摘み、淑女の礼を執る。

 きらりと銀の髪が光を弾いた。しかし、その輝きとは裏腹に、瞳は光の無い落ち着きに満ち溢れている。

 恥じるでも、憤るでも、悲しむでもなく──そこにはただ、何も浮かんでいなかった。


「なっ……」


 先ほど婚約破棄を告げたレオン・アース第一王子は、ぎくしゃくと口元を震わせる。

 会場は再び、しかし、今度は凍り付いたような静寂に包まれた。

 彼らの瞳に浮かぶのは、失望、落胆、あるいは感嘆の色。


 そして、甲高い声が静寂を切り裂いた。


「ああ、何て!」


 声の主は、彼にしな垂れかかっていたコレット・フローラル子爵令嬢。


「何て、可哀想なのかしらっ!リアーナ様はきっと今晩、お一人で泣くのね……。枕を濡らして。ああ、可哀想に!」


 目元に手をやり、芝居がかった仕草で涙を拭う。

 その声音には、同情よりも勝利の悦びが混じっていた。


 レオンの喉が鳴る。そして、彼女の肩を掴み深く見つめた。


「君はなんて優しいんだ。あのリアーナにさえ心を砕くなんて──」

「やだ、レオン様。いくら気丈なリアーナ様だって、そんな言い方されたら傷ついてしまいますわ」

「いいや、あれは気丈なんかじゃないよ。冷たいだけさ、情が通じない。人の形をしているだけの何か、さ」


 視線を逸らさず、動くこともなく、リアーナは王子を見据える。口角は僅かに上がり、微動だにしない。


 窓の軋む音。誰かの息を呑む声。

 窓ガラスに映る銀糸の髪は揺れず、光を吸い込んでいた。

 燭台の炎は揺蕩い、揺らぎの無い空気を照らす。

 水面はピンと張りつめ、淡い微笑みがグラス越しに沈んでいた。


 その時。視線だけがゆるやかに動き、口が開かれた。


「殿下。感情に身を任せては今後ご公務に差し障りがございます。この件でご自身の評価を落とされませぬよう、どうぞご留意くださいませ」


 その言葉にレオン王子の顔が見る間に青ざめ、コレットは口元を震わせる。

 誰より勝ち誇っていたはずの二人が一転、凍り付いたように固まった。


 会場には沈黙が広がる。

 視線はすべて、ただ一人──リアーナ・グレイアム侯爵令嬢へ。

 婚約を破棄されたはずの彼女が、空気を、場を、人々の心を支配していた。

 まるでこの夜会の主役が初めから彼女であったかのように。

 すべてを静かに、完璧に掌握する。


「書類上の手続きにつきましては、後日、私の侍従より正式にご案内申し上げますわ。どうぞご心配なく」


 リアーナは軽やかに踵を返した。


 微笑み、背筋を伸ばし、揺らがない。それは、訓練された静けさ。

 礼儀であり、鎧であり、義務だった。


 ──これで侯爵家の名誉も、品位も決して損なわれることは無い。だからきっと、お父様も満足なさるはずだわ──


 その心の声は、誰にも届かない。

 残酷なまでに整えられた律動は、誰の耳にも響かない。


 彼女の心臓は緩やかに、正確に──そして時に、無慈悲なほどに、規則正しく時を刻む。


 どくん、どくん、どくん。

 カシャン、カシャン、カシャンと──。



 ***



 シャッ、シャッ、シャッと──。


 グレイアム侯爵邸の執務室には、ペン先を擦る音が響いていた。

 紫檀の執務机に据えられた花瓶が僅かな振動を繰り返す。

 リアーナは舞踏会から帰り着いた後、日課である帳簿整理をこなしていた。


 ──今日も、問題は一つとして起きなかった。お父様の名前も、侯爵家の威信も、汚さずに済んだわ──


 文字を刻み、数字を整える。その手を琥珀色の照明が照らす。

 そして、ひらり、と花弁が影を作り、手元に舞い降りた。


 リアーナの瞳がその花弁を捉える。

 胸の奥がちくりと痛み、彼女を遠い記憶へと誘っていった。





 ひらり、はらり、くるりと──。


 小さな妖精たちが踊るように、花弁は軽やかに散らばっていく。

 柔らかな色合いが、病室の窓から見える灰色の空とは対照的で、リアーナは無邪気に喜びを体現していた。


『お母さま!見てください!きれいなお花がこんなに沢山っ!』


 飛んで、踊って、走って、足音が跳ねる。どきどきと胸の鼓動が早鐘を打つ。

 それすらも心地よくて、花開くような笑みが自然と零れた。


 その日、病床に臥せっていたはずの母の手を引き、リアーナは庭園の花畑を訪れていた。

 いつもは顔色も悪く、寝台から起き上がることすらままならない母が、この時ばかり珍しく外に出て来てくれた。その事実が、幼いリアーナには奇跡のように思えて仕方が無かったのだ。


 だから、花びらが舞い、香りが漂うその場所で、彼女が本当に気にしていたのは、ただ一つだけだった。綻んだ笑顔と包み込むような眼差し、つないだ手の温度。


 母から注がれるその優しい温もり。ただ、それだけ──。

 それこそが彼女の心を満たす唯一の光だった。


「リアーナ。あなたのその優しい心は、とても尊いものよ。誰にも渡してはいけない宝物。だから、どんな時もその優しさを大切にしなさい」


 ふにゃりと笑うリアーナの頬に母が触れる。

 力を入れすぎないように気を付けているのに、それでも強い想いが滲み出てしまう。

 そんな仕草だった。リアーナの瞳がキラリと輝き、大きく頷いた。


 母の仕草一つで、笑顔一つで、リアーナの世界はすべてが幸福に満たされていく。

 この日まで、世界に悲しみは存在しないのだと、彼女は無邪気に信じていた。

 目に映るもの全てが美しくて、幸せで。


 それ故に、彼女は想像が出来なかった。


 ただ、母が喜ぶ顔を見たかった。

 ただ、母が好きな花を見せてあげたかった。

 ただ、母とふたりだけで過ごしたかった。


 だから、彼女は単純に想像が出来なかったのだ。


 その純粋な思いが、無知な優しさがどれほど残酷な結果を招くことになるのか、と言うことを。あるいは想像などしたく無かっただけなのかもしれない。


 外の空気に触れさせたい一心で、病気の母を庭園に誘った。それが病状を悪化させる一因となることなど、当時の彼女には知る由も無かった。


 その日の夕方、母の容態は急変した。花びらが風に舞うように、母の命は呆気なく散った。


『お前のその優しさが、母を殺したのだ!感情に流される愚か者が!』


 父は、幼い彼女の罪を赦すことはしなかった。

 無垢な優しさも、感情を露わにすることも、誰かに甘えることも、許されはしなかった。


 父が彼女に求めたのは完璧であること。

 王子妃として、侯爵令嬢として、嵌め込まれた部品として、都合の良い娘であること。

 ただ、それだけ──。



「お父様、どうか。……どうか、お見捨てにならないでください」


「お父様、私はやっと理解できました。優しさなど、不要なものだったのですね」


「お父様、命じて下さい。そうすれば間違いなど犯す心配もございません」



「お父様、私はもう間違えません。お父様の求める完璧な令嬢、それが私です」



 ──やがてそれは彼女自身すらも呑み込んでいった。

 間違えるたび、父は顔を歪めた。過ちを犯すたび、彼女の存在は否定された。感情を露わにするたび、価値を失った。

 そうして、リアーナは思い知る。自分は、間違っている。感情こそが、悪なのだと。


 だから、彼女は縋った。

 父の言葉に。父の完璧に。正確な胸の鼓動に。


 ──お父様の求める完璧こそが正しい──


 季節が巡るたび、花が散るたびに、彼女のその思考を強めていく。

 そして、今年もまた、花が散る。


 ひらり、はらり、くるりと──。





 その花弁の美しさを、今の彼女はもう知らない。

 落ちた花弁を払いのけることも、手のひらにのせ香ることも、彼女はそのどちらも選べない。

 時計の針が進む音だけが執務室に響き、窓から吹きこむ風が花弁を散らす。


 その瞬間、扉がけたたましい音を立てて開け放たれた。


「リアーナ!今すぐ説明しろ!」


 父であるグレイアム侯爵の、地を這うような怒声が響く。鋭い視線がリアーナを射抜いた。


 リアーナは立ち上がり、静かに一礼する。浮かべる表情は勿論、あの冷たい微笑。

 けれど、その仮面の下で、一瞬呼吸が詰まるのを感じずにはいられなかった。


「あの王子との婚約破棄とは一体どういうことだ!」


 完璧に済ましたはずの婚約破棄の場と想定外の父の怒声。彼女の思考は絡めとられるように鈍っていく。表情は変わらない。しかし、彼女の瞳はわずかに揺れていた。


「……その、……どの点が、お父様の意に沿いませんでしたか」

「どの点が、だと?」


 父の声が低く震える。


「王族との婚約を破棄されたという事実。それ以外に何か考えられると言うんだ。貴様は私の計画を分不相応にも潰したのだ」


 リアーナの心に、冷たい水が流れ込む。彼女の瞳が映すのは歪んだ父の顔だけだった。


「……私は、場を乱さぬよう務めました。もとより、私には、王子以上の縁談も届いております。ですから、我が家の品位に傷は──」

「黙れ!」


 怒声が彼女を遮る。


「お前は本当に余計なことしかしない。私が望んだのは品位ではない。王家との縁談だ。王族との繋がりだ。それを逃したお前には、もはや何の価値もない。……貴様は、ただの使い損ねた駒だ」


 その瞬間、リアーナの心に、ひびが入った。


「……で、では」


 完璧とは程遠い、怯えを孕んだ声。

 父の顔を歪めさせた、存在を否定された。そして、価値を失った。

 またしても、自分は罪を犯したのだと。赦しを乞うように彼女は声を響かせる。


「私はこれからどうすればよいのでしょうか」


「明朝、クローデン男爵家の馬車が来る。お前はそこへ嫁げ。相応の対価は受け取った。……我が家の役に立つ最後の機会だ。感謝しろ」


 言葉を失うと同時に、しかし彼女は胸を撫で下ろした。

 完全に価値を失い、捨てられるとすら覚悟していた彼女に父はまだ、最後の機会を与えようとしている。それは彼女にとって、まるで絶望の中の一筋の光だった。


 クローデン家。それは、金だけを武器に地位を買い漁る、粗野な男爵。そこに彼女を“売る”ことで得る利益は計り知れない。

 まだ、自分にも利用価値があるのだと。リアーナは深く頭を下げた。


 乱れず、滲ませず、唇にだけかすかに笑みを浮かべて。


「……承知しました。父上の判断に従います」


 そうして、机に戻る。


 背筋を正し、震えを振り払うように羽根ペンを握る。


 ひとつ、またひとつと数字を並べ、線を引き、空白を埋めていく。

 そこに浮かぶのは力の滲んだ筆跡。


 静まり返った執務室に、ペン先が奏でる音だけが響き渡る。

 まるでその音だけが、己を保つ最後の砦であると信じて疑わないように。


 シャッ、シャッ、シャッと──。






 ***






 コツ、コツ、コツと──。


 廊下を渡る靴音が、応接間の扉越しに響いていた。

 馬車に揺られて数日。嫁ぎ先であるクローデン男爵邸は辺鄙な片田舎にあった。

 飾り気のない燭台。装飾一つ施されていない家具たち。

 通された応接間も、成金の噂に反して質素な造りだった。

 室内に響くのは規則的な足音ただ一つ。その音だけが静けさにすっと染み込んでいく。


 そして、次の瞬間。


 コツ、コツ、……カツン、と──。


 一度だけ揺らぎ、止まった。扉が開き、冷たい風が吹き込む。

 その先にいたのは、無造作に整えられた茶髪と鳶色の瞳を持つ男性だった。

 リアーナよりも一回り大きく、落ち着いた視線が彼女をじっと捉えている。


「ようこそ、“氷の冷徹令嬢様”。いやもう、“冷徹夫人様”か。お噂はかねがね……って言ってもいい噂じゃないがな」


 にやり、と口元が張り付けたように歪む。クツクツとひとしきり笑い声を漏らした後、ふっと息を吐きその表情が緩んだ。


「……まあそれは、お互い様か。下卑た成金男爵、カイン・クローデン男爵だ。どうとでも呼んでくれ」

「リアーナ・グレイ……、いえ、リアーナです。以後お見知りおきを」


 リアーナは丁寧に身を屈め、礼を執る。その所作には一点の曇りもない。

 カインはその姿に口笛を鳴らした。


「なるほど。噂に違わず機械のように完璧だ」

「お褒めに預かり光栄です。感謝申し上げます」

「お褒めに……、か」


 リアーナの見当違いの反応に、カインは口の中でその言葉を小さく反芻する。

 呆れを込めて鼻で小さく息を吐き、真っ直ぐにリアーナを見た。


「褒めたつもりはない。それに、完璧なんて求めてもいない」


「そう、ですか。では、私はどう振る舞え──」

「さあな。それは自分で探せ」

「で……、ですが。それでは私はまた……」


 リアーナは、口ごもり、言葉に詰まる。


 いつだって正しさは自分の外にあった。

 貴族の規範、社会の常識、侯爵家の義務。そして、父の定めた完璧。

 どう振る舞えばいいか、どう行動すればいいのか。それはいつだって誰かが示してくれていた。

 だから、リアーナにとって「自分で探せ」という言葉はまさに、青天の霹靂だった。


 誰か、正しい振る舞いを教えて。揺れた瞳は雄弁にその心情を物語っている。

 だが、もう父はいない。もう、後戻りは出来ない。

 その様子にカインは口元を歪め、肩を竦める。


「……じゃあ、まずは笑ってみたらどうだ?いつもの冷たい微笑みじゃなくて無邪気に、自由に。こう、ニカッと。場の空気を和ませるようにさ」


 カインは自身の頬を指で押し上げて見せる。

 それは当然、命令ではない。けれど、リアーナにとってそれは拒むことの許されない、いや、拒みたくもない。進むべき道を指し示してくれる、一縷の望みだった。


「……こう、ですか?」


 カインを真似るように、リアーナは震える指で口角を上げてみせる。

 しかし、それはどこかぎこちなく、能面のような笑みだった。


「あぁ……、いや、失礼。むしろ凍らせてしまいそうだ」


 カインは額を押さえ、小さくため息をつく。そして、ふっと息を漏らし、またしてもクツクツと一人で笑い声をあげた。


「まあ、長旅で疲れただろう?ゆっくり休んでくれ」


 そう告げると、彼は応接間を後にした。




 ──これが、完璧な令嬢の末路か──


 リアーナは礼儀正しく、立ち居振る舞いも申し分ない。

 誰が見ても上品で高貴な淑女に映る。

 だが、その完璧さのどこにも、本当のリアーナが息づいている気配は無かった。


 カインがリアーナを買った理由は単純だ。

 王家との縁談を失い、傷物となった侯爵令嬢を地位と名誉のため、ひいては彼の目的を果たすために、安く手に入れたというだけの話。

 政略結婚、打算、契約。例え醜聞となったとしても、社交界で否定されようとも、欲しいものを手に入れる。それが彼の正しさだった。


「これは相当、面倒な子を手に入れてしまったな」


 静まり返った廊下の端。誰に向けるでもない笑みを浮かべ、彼は一人、本音を呟いた。






 初対面の挨拶から一週間後。


 リアーナは、クローデン男爵邸での生活に慣れつつあった。侯爵邸の執務室での帳簿整理と同じように、毎日、仕事を完璧にこなす。

 だが、決定的に違うことが一つだけあった。カインは、彼女を一切、命令で縛らなかったのだ。


「クローデン男爵様。私は本日、何をすればよいのでしょうか?」


 朝食の最中、リアーナはカインに静かに問いかけた。カインは口に含んだスープを飲み下しながら返事をする。


「ああ、そうだな。帳簿の整理でも──」

「それは概ね済んでおります」

「では、予算管理か備品管理を頼んでいいか?」

「はい、いずれも既に手配済みでございます。食料品、日用品、衣類、邸宅の修繕に必要な資材の在庫を把握し、不足分は予算に応じて購入手配済みです」


 カインは、リアーナのよどみない報告に、口を開けたまま茫然とした。呆れるほどの手際の良さに言葉が出なかった。


「そ、そうか。それなら自由に過ごしてもらって構わない」

「自由に……」


 与えられた仕事をこなせば、後は彼女の自由だった。

 園庭の手入れをしてもいい。刺繍やレース編みに勤しんでもいい。楽器を奏でて時を潰すのも、何もせず静かに座っているのも、すべては彼女の思うまま。

 何を選んでも、選ばなくても、誰ひとりとして咎めはしない。


 しかし、だからこそ、リアーナは日課の外側で動けなくなっていた。

 広い邸宅の廊下を静かに、それでいて所在なげに歩く日々。

 何を選べばいいのか。何をすればいいのか。その答えはどこを探しても見当たらなかった。


 瞳を伏せ、リアーナはスプーンを置く。手からはゆっくりと力が抜けていく。

 その様子を捉えたカインはふっと口元を緩め、口を開いた。


「ならば、今日は俺の私用に付き合ってもらってもいいか?あの子たちも突然の来客に喜ぶだろうしね」

「あの子たち、ですか?」

「ああ、ちょっとばかりやんちゃすぎるが、いい子たちなんだ。だからさ、優しくしてやってくれよ」

「優しく……、ですか……」


 ──お前のその優しさが、母を殺したのだ!──


 リアーナの脳裏に父の声が刺さる。痛みを堪えるように、彼女は瞳を閉じた。

 そうだな。と口にするとカインはすっと立ち上がる。空になった食器を手に取ると、慣れた手つきでそれを片付け始めた。


「いいか?泣かせたらお仕置きだからな、覚悟しておけよ」

「は、はい。善処致します」


 すれ違いざま、彼は俯くリアーナの頭にそっと手を置いた。

 その優しい手つきにリアーナは驚いて瞳を開ける。

 規則正しく刻んでいたはずの心臓が、一瞬だけ奇妙な音を立てたような気がした。






「ここは、俺が趣味で経営している孤児院だ」


 カインの手に引かれ、馬車に揺られて辿り着いた場所は、リアーナにとって予想外の場所だった。

 金の亡者と噂されるクローデン男爵が、人知れず孤児院を経営している。それはこの国の貴族であれば誰もが耳を疑うような話だ。

 けれど、生身のカインをほんの少しでも知ってしまった今、リアーナは驚きながらも何処か腑に落ちていた。


「まあ、こんなものはただの道楽だ。だがな、ついてきた以上、君には俺の偽善にとことん付き合ってもらうからな」

「ええ、お望みとあらば。私に出来ることであれば、何でもお申し付けください」


 淀みのない微笑で応じるリアーナ。その返しに、カインは小さく笑った。


「どうかなさいましたか?」

「いや、なんでもない。そうだな、君には絵本の読み聞かせでもしてもらおうか。こんな取るに足らない課題、君なら完璧にこなせるだろう?」


 手渡された絵本片手に、リアーナは呟く。


「絵本の読み聞かせ……、ですか。はい、承知致しました」

「ああ、よろしく頼むよ」


 リアーナは与えられた絵本を手に、子供たちが集まる部屋へと向かった。

 その絵本は、台座に刺さった剣をすんなりと抜きとったものの、あろうことか壊してしまった勇者の物語だった。そして、計画性ゼロの彼に呆れつつも、壊れた剣の代わりにフライパンを差し出した聖女の、ちょっとズレた魔王討伐の話だ。


 部屋の中央に座り、ページを開く。澱みなく言葉が紡がれていく。

 一つ、また一つ、登場人物の感情に合わせて声色を変える。悲しい時は声を震わせ、嬉しい時は弾ませる。幼い子供たちは最初、完璧な朗読劇に吸い寄せられるように、じっとリアーナを見つめていた。


「──簡単に抜けちゃうんだ!ほらほら!ルチアも一緒に!こうやってっ、こうっ!──」


 リアーナの朗々とした声が部屋に響く。


「えー、なにこれ、簡単すぎんじゃん!」

「ほんとに勇者なのー? なんかヘンテコー!」


 子供たちの何人かはその台詞に合わせて体を動かそうとし、小さな笑い声が漏れる。しかし、リアーナは表情を変えず、ただ正確に次の文字を追っていた。


 物語が進むにつれて、勇者は数々の困難に直面し、聖女は彼の無謀さに付き合いながらも、次第に彼への深い愛情と信頼を育んでいく。

 ただ、生きていて欲しい。ただ、笑っていてほしい。互いが互いを想いあうその一心だけで、彼らは世界を変えてしまった。


「──僕の世界に存在してくれて、ありがとう。生きていてくれて、ありがとう──」


 その言葉を口にした瞬間、リアーナの心臓がドクン、と跳ねた。

 勇者も聖女も無計画で、無謀で、無茶で、無茶苦茶で。論理も、道理も破綻している。リアーナが縋っていた正しさも、完璧も、そこには何一つ存在しない。

 それなのに、そのはずなのに、二人は笑い合い、幸福に満ちていた。

 呼吸が浅くなり、冷たい微笑みの仮面が、今にもひび割れそうに微かに震える。


 ──どうして、二人は幸せになれたの?──


 あの日散った花弁が、閃光のように脳裏を過った。そして、その後に続く、凍えるような父の眼差し。遠い記憶の破片が鋭く突き刺さる。


 ──どうして、お母様は死んでしまったの?どうして、お父様は、私は……──


 リアーナの視界は歪み、唇は強く噛み締められていた。


「ねぇねぇ、この勇者さん、聖女さんのこと大好きなんだって!」

「でもさ、なんでこの勇者、フライパンで魔王倒すの?かっこわるーい!」


 子供たちはリアーナに話しかけるが、彼女は何も返さない。ただ、淡々と物語を読み続ける。彼女には、それしか出来なかった。共感も、心を通わす術も、持ち合わせていなかった。


 やがて、子供たちの小さな声はリアーナの声を掻き消すほどに大きくなっていく。

 最後のページを読み終え、絵本をテーブルに置くと、一番前の男の子がだるそうにそう呟いた。


「あぁ、なんかこの絵本、つまんなかったな」


 すぐに飽きてしまったかのように、子供達はそれぞれの遊びへと戻っていく。


「おいおい、お前達!礼ぐらい言ったらどうなんだ?ったく。あいつらったら礼儀がなってないんだよ、礼儀が。何か済まないな、せっかく読んでもらったのに」


 カインの視線は駆けていく子供達へまっすぐに向けられていた。

 言葉こそ悪態のようだが、彼の表情も声色も、どこか温かさを孕んでいるように感じられる。


「……いえ、申し訳ありません。私がもっとちゃんと読めていれば」

「まあまあ、初めてにしちゃ上出来だったんじゃないか?」


 俯くリアーナにカインはふわりと笑みを浮かべた。子供達に向けられていたはずの温かさが、今度はリアーナに向けられている。


「それにほら、誰だって得手不得手があるだろ?君にも上手くいかないことがあるんだって分かって俺はちょっと嬉しいがな。まあ、また失敗したら俺が笑ってやる。だから、明日も読んでくれるか?」


 カインはそう言い、いつもの笑い声をあげた。クツクツと震えるその声は、もうすでに彼女の耳に馴染んでしまっている。リアーナは負けじと声を張った。


「はい、承知いたしました」


 この日から、孤児院にリアーナが付いて行くことは新たな日課となっていった。






 そして、数週間後。


「この状態では、快復は見込めません。医師を呼び、鎮静薬の処方を。食事は水分と柔らかいものを少量、彼の望む分以上は与えないでください。そして、体への負担を最小限に、温かい室内に寝かせましょう」


 リアーナがそう告げた時、孤児の少女──メイリアの表情は一瞬にして青ざめた。


「……どうしてそんなことを?バルトはまだ、元気になれるんです。だから……沢山食べないと。ね?バルト?」


 孤児院の中庭で、痩せ細った老犬を抱きスープを口元に運ぶ少女。

 けれど、バルトは飲み込むことすらできず、焦点の合わない瞳で空を見つめていた。

 リアーナは静かにその瞳を見下ろす。


「その望みは非現実的です。犬にとっての幸福とは、苦痛のない死を迎えること」


 一瞬、言葉を探すように目を伏せる。けれど、次の瞬間にはすでに平静を取り戻していた。


「メイリアさん。あなたが情に流されれば、余計な苦しみを与えるだけなのです」

「そ、そんなことないっ!バルトはっ、まだこれから元気になるの!だって……、だって!」


 少女の声が震えながら裏返った。


「バルトは、……バルトは、死なないもん!夫人のばか!」


 メイリアの叫び声が庭の空気を切り裂く。それはひどく幼く、そして痛切な響き。


 リアーナはただ黙ってそれを見つめていた。

 怒ることも、戸惑うこともしない。声を掛けることも、小さな頭をそっと撫でることも。

 彼女が選べたのはただ一つ。その場に留まることだけだった。まるで、それが最善であると自分に言い聞かせるように。それ以外の選択肢を、彼女はまだ思い出せていなかった。


 そんなとき。


「おい、おい。泣かせてどうするんだ。ああもう、君は本当に困った子だな」


 低く柔らかい声が、ふいに空気を割った。カインが頭をかき乱し、芝を踏みしめながら歩いてくる。


「君は正しいことを言ったつもりなんだろうけどな」


 彼はメイリアの背を軽く撫でて、バルトと、そしてリアーナを交互に見やる。

 そして、じっとリアーナを見つめた。


「でも、正しさですべてを埋めたとしても、それが即ち、正しい行いになるとは限らないはずだろ?」


 カインの声は、リアーナの心に、静かに、しかし確かに響いた。彼女は凍り付いたように立ち尽くしていたが、その言葉に促されるように、ゆっくりと顔を上げた。


「……それならば、私はどうしたらいいんですか?」


 戸惑いと、ほんのわずかな期待が入り混じった瞳がカインを捉える。

 しかし、その期待とは裏腹に、カインは残酷に容赦なく現実を突きつけられた。


「それは、君自身で見つけるものだ」


 はっと息が漏れ、喉が鳴る。

 父に否定され続けた過去が、母を死なせてしまった過去が、まるで走馬灯のようにリアーナの脳裏を駆け巡った。


「でも、でも……。そしたら……、そんな」


 瞳が揺らぎ、声が震える。握り締めた拳は微動だにしない。


「そんなこと、したら……。また……、私はまた、誰かを傷つけてしまいます」


 やっとのことで絞り出した言葉は、心の奥底に押し込めてきた深い怯えだった。

 その声は助けを求める幼い子供のように、弱々しく響いた。


「……だから、教えてください。私は、どうしたらいいんですか?」


 完璧な微笑みの下で、彼女はただ綻びかけていた。

 もう間違えたくない、また誰かを傷つけたくない。その一心で、誰かの正しさにすがるしかなかった。正解を与えられなければ動けない。自分で選ぶことがまだ、怖かった。


「どうしたら、どうしたら……、よかったんですか?どうしたらお母様は──」


 途切れ途切れの声に、過去の痛みがにじむ。

 その問いは、もはや答えを求めるものではなかった。誰かに届いてほしいわけでもない。

 ただ、自分自身を責めることでしか、痛みを受け止められなかった。

 リアーナの手が、救いを、母の温もりを求めるように宙を彷徨う。だが、それはカインへと伸びることはなく、視界を遮るように彼女の瞳を覆った。


「だからそれはね、リアーナ。君自身でしか、答えられないことなんだよ」


 カインは、その震える手をそっと包み込み、そこから覗くリアーナの瞳を見つめた。ふっと笑みを浮かべる。それはきっと、リアーナの求めていたものとは違う。

 けれど、温かい掌の感触が、冷え切った彼女の心を少しずつ溶かしていった。


「でもまあ、そうだな。俺でよければ手伝おう。一緒に探して、一緒に生きていこう。俺達は夫婦なんだから」


 その言葉は重く、柔らかな響きを持っている。正しい振る舞いを押し付けず、それでも、共に歩もうとするカインの言葉が、信念が、彼女の閉ざされた心に確かな光を灯す。


「それでさ、リアーナ。君は、どうしたい?しなきゃじゃなくてさ、どうしたいんだい?俺はそれを、知りたいんだ。君自身をちゃんと見て、それで受け止めたいんだ。だからさ、君の望みを、聞かせておくれ」


 どうすべきか、ではなく、どうしたいか。カインの問いかけは今まで考えたこともないものだった。リアーナは思わず視線を落とした。胸の奥から、ずっと見ないようにしてきた小さな願いが、ひそやかに顔を覗かせる。


 長い沈黙の後、リアーナの唇はようやく開かれた。


「私は……、私は」


 押し殺したような声。唇を噛み締め、喉を震わせる。


「……あやまり……、たいです」


 その瞬間、リアーナの心臓が今までにないほどに強く、どくん、と鳴った。凍り付いていた仮面がひび割れていく。完璧とは程遠いリアーナの姿にカインは柔らかく笑った。


「そうか、うん。素敵だと思うよ。じゃあまずは、目の前の泣いている女の子に、って所かな?」

「……はい」


 カインの言葉に押されるように、リアーナはメイリアの方へ向き直った。

 一歩、また一歩と、おぼつかない足取りで少女に近づく。そしてはっきりと、言葉を口にした。


「メイリアさん……、ごめんなさい」


 その言葉は、震えるメイリアの耳に、か細くも確かに届いた。少女は顔を上げず、ただ嗚咽を漏らし続けている。


「ただ、元気になって欲しいだけなんですよね。また笑って、また喜んでほしい。また一緒に遊びたい。まだ……、一緒に、いたかった。ただ、それだけだった……」


 リアーナは訥々と言葉を紡ぐ。そして、メイリアの背中を、おぼつかない手つきでそっと撫でた。

 幼い頃、病室の窓から差し込む光の中で、母が微笑んだ記憶が瞼の裏に蘇る。ただ、母が喜ぶ顔を見たかった。ただ、母とふたりで過ごしたかった。


「それなのに、それなのに……」


 彼女の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。過去の自分と、今のメイリアの姿が重なり、涙腺が熱くなる。しかし、それを堪える必要はもう無かった。


 カインは、言葉に詰まったリア―ナを見やると、メイリアの方を向いた。しゃがみ込み、顔を覗く。


「メイリア、リアーナは君の気持ちを分かってくれたんだよ。きっと、君と同じくらいバルトが元気になってくれるって信じている。そして、それ以上にバルトが幸せになれることを願っている。わかってやって、くれるかな?」


 包み込むような穏やかな声にメイリアはゆっくりと顔を上げる。

 涙で赤くなった目元を、手の甲でごしごしと拭うと、大きく頷いた。


「バルトはね、ここ触ると喜ぶの」


 メイリアは、その小さな手をリアーナの手に重ね、バルトの耳元へと引き寄せた。

 撫でて。そう言いたげにリアーナを見ると、にっこりと笑みを零した。その笑顔につられるように、リアーナの口元は綻ぶ。二人は真っ赤な瞳もそのままに、自然と笑い合った。




 コツ、コツ、コツと──。


 廊下を渡る二つの靴音が、孤児院の片隅で響いている。

 馬車に揺られて数十分。嫁いだクローデン男爵邸から目と鼻の先にあるこの場所は子供達の笑い声と、大地を駆ける音で満ち溢れていた。

 そんな喧騒の中、二人の足音はリアーナの耳にすっと染み込んでいく。


「なあリアーナ。そう言えば俺、泣かせたらお仕置きって言ったよな?帰ったら覚悟しておけよ」


 カインはそう言うとまた、クツクツと声を漏らす。言葉とは裏腹に彼は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


 リアーナの口元も緩やかに弧を描く。そして、彼のほうを振り返り、口を開いた。

 それに合わせ、足音は一度だけ揺らぎ、止まった。


 コツ、コツ、……カツン、と──。






 ***






 タン、タン、タタンと──。


 夜の街路に、ワルツの旋律が微かに届いていた。風に乗り、遠く王宮から響いてくる三拍子のリズムが、馬車の窓を規則的に叩く。


「……クローデン男爵様」

「ん?」

「本日は、私の我儘をお聞き入れくださり、ありがとうございます」


 リアーナの澄んだ声に、カインは組んでいた腕をほどき、深く息を吐いた。


「別に、俺はただついてきただけだ」

「それでも、受け止めて下さったことには変わりありません」


 カインの視線が窓の外からリアーナへと向けられる。


「だが、本当にいいんだよな?あそこにはグレイアム男爵も、レオン殿下もいる。君を縛ってきた何もかもが、変わらずある。傷ついても、知らないぞ」

「ええ。構いません。もし仮に傷つくのだとしたら、それはきっと私にとって必要な痛みなのだと思います」


 リアーナは、きっぱりと答えた。カインはその反応に肩を竦め、鼻を鳴らす。


「ああ、そうかい。君らしいな」


 視線が交わり、カインが彼女を見つめる。こらえきれずリアーナはさっと目を逸らした。

 頬は僅かに赤らみ、浮かべる表情は柔らかい。それは、もう何度目かも分からない彼らだけのやりとり。

 孤児院でのあの日から季節は一度巡った。夫婦、その言葉がスッと馴染むほどに彼らは言葉を交わし、時間を共にしてきた。


 彼女の瞳は、窓の外に広がる王宮の光を真っ直ぐに捉えている。


「それに、だからこそ、参りたいのです。お父様と、レオン殿下がいらっしゃるからこそ」


 カインはしばし黙って彼女の横顔を見つめていたが、やがて、諦めたように笑った。


「ったく、本当に面倒な子だ」


 その口調はぶっきらぼうだったが、彼の指先がリアーナの肩に落ちた一瞬の羽毛に触れ、そっと払い除ける仕草は、どこまでも優しかった。


「……まあ、仕方ないな。泣きたくなったらさっさと俺のところにこい。君が傷ついたら笑ってやるのは、俺の役目なんだからな」

「はい」


 リアーナが綻ぶように微笑む。その笑みに、カインはもう何も言えず、ただ窓の外へ視線を戻した。



 やがて馬車は止まり、二人は煌びやかな光の世界へと足を踏み入れていく。

 そこは彼女の運命が変わった、あの王宮の大広間。

 絢爛豪華なシャンデリア。着飾った人々。何もかもが、あの日と同じ。

 しかし、彼女の耳に届くその拍動だけは違っていた。




***



 どくん、どくん、どくん。

 静かに、穏やかに、そして美しく──。


 心臓が誰に命じられるでもなく力強い音を立てる。

 リアーナ・クローデン男爵夫人の胸の鼓動は、時に速く時に緩やかに、しかし確実に動いていた。それは──


「コレット、辞めろ。リアーナならばこんな浅はかな真似はしないぞ!」

「レオン様こそ!なぜ今もあの女に囚われるのですか!」

「囚われてなどいない!軽率な行動でこの場をこれ以上乱すなと言っているのだ!」


 ──婚約を破棄したはずの元婚約者が後悔に溺れ、怒りを露わにした。そんな瞬間でさえ。


「レオン殿下」


 活気に満ちていた会場の喧騒が、再び止まる。そして、視線が一斉に声のする方へと向けられた。


 緩やかに揺れるドレス。艶やかに光る銀糸の髪。慈愛に満ちた藍色の瞳。

 完璧な微笑はもう、存在しない。喜びも悲しみも、そのすべてを受け入れる強さを湛えて、彼女はただ、柔らかく笑う。その時、誰かの呟きが響いた。


「……まあ、美しい……」


 その声を皮切りに、ざわめきが会場に広がっていく。


「あれが、クローデン男爵夫人か……信じられないほど、お綺麗になられたな」

「“氷の冷徹令嬢”などと、誰が言ったのだ。あんなにも温かい微笑みを浮かべる方を」

「正直、鳥肌が立ったわよ。王子は、とんでもない方を手放されたのね…」

「ふふ。まあ詰まるところ、王子の見る目が無かったってとこよね」


 煌びやかなシャンデリアが揺れる大広間。数多の瞳はリアーナただ一人に向けられている。

 その視線に宿るのはきっと、驚きと感嘆。そして、仄かな憧憬。

 彼女へ向けたはずのかつての嘲笑も忘れ、幸福そうな微笑みに誰もが魅了されていた。


 けれど、リアーナはもはや誰の思惑も意に介さない。

 まっすぐに前を見据え、その人へと歩みを進める。


「レオン殿下。本日は殿下に心よりの感謝を申し上げたく参りました」


 会場に響いたのは、温かく、そして芯のある声色。無数の瞳に映る、砕けた笑顔。

 彼女は品よくドレスの裾を摘み、淑女の礼を執る。

 ふわりと銀の髪が光を弾いた。その輝きが霞むほどに瞳は光に満ち溢れている。

 臆するでも、驕るでも、偽るでもなく──そこにはただ、ありのままの彼女がいた。


「なっ……」


 先ほどまで怒りに身を任せていたレオン・アース第一王子は、ぎくしゃくと口元を震わせる。

 会場は再び、しかし、今度は熱を帯びたような静寂に包まれた。

 人々の瞳に浮かぶのは、後悔、羨望、あるいは賞賛の色。


 そして、リアーナは静かに口を開き、喉を震わせる。


「殿下はかねてより、私を「冷たい」「情が通じない」「人の形をしているだけの何か」だと評されておられました。それはきっと、私の将来を案じてのこと。あるいは、王子妃たる者として成長を促そうという、お優しいお叱りだったのだと、今では思います」


 レオン王子の顔からは、見る見るうちに血の気が引いていく。その瞳は穏やかな光を宿すリアーナただ一人を映し出す。


「けれど、あの頃の私は、そのお言葉の真意にも、殿下のお気遣いにも気づけず……いいえ、気づかぬふりをして、己の未熟さから目を背けておりました」


 コレットが、思わずといった様子で口元を震わせた。

 しかし、レオンは彼女の存在に気づかず、目の前の元婚約者から目を離せない。彼女の言葉は、かつて自分自身が放った最も酷い罵倒だったはずなのに。それが今、まるで祝福の言葉のように響いていた。


「今になってようやく、そのことに思い至りました。遅すぎるかもしれませんが、それでも気づかせてくださった殿下には、心より感謝申し上げます。あの時の私は、殿下のお気持ちを正しく受け止めることができず、本当に申し訳なく存じます」


 レオンの肩が微かに震え、何も言えず立ち尽くしている。

 会場中の視線が彼を突き刺した。射貫くような視線のなか、穏やかな視線を向けるのはリアーナただ一人。その唇は自然と弧を描いていた。


「殿下、どうか心からの幸福をお掴みください。そして私もまた、私なりの幸福を見つけ歩んでまいります」


 リアーナが言い終えたその後、甲高い声が会場を切り裂いた。


「レオン様!あんな女の戯言、お気になさらないで!全部そいつが悪いの!」


 コレットが叫びながら王子の腕に縋りつこうとする。だが、その手は乾いた音を立てて振り払われた。


「……黙れ」


 王子は呟くとその場に崩れ落ちていく。

 冷たい視線の中、彼の救いはきっと、リアーナの向ける穏やかな瞳ただ一つ。しかし、それは無情にも移ろいでいった。


「リアーナ、すまなかった。君は人の形をしているだけの何か、ではなかった。多分、初めから」


 その声がリアーナの耳に届くことはない。すでに彼女は彼に背を向け歩き出していた。

 彼女が向かう先は、会場の隅に佇む一人の男。父、グレイアム侯爵だ。

 カインが、一歩後ろから静かに続く。


 侯爵の前に立ち、リアーナは再び深く一礼した。


「お父様」


 その声に、会場は三度、水を打ったように静まり返る。


「この場をお借りして、お父様にも感謝を申し上げます」


 リアーナの言葉に、グレイアム侯爵の顔にわずかな動揺が走った。


「私は長年、お父様の教えの通りに生きて参りました。完璧であること、感情に流されぬこと、常に侯爵家の名誉を第一に考えること。それらすべては、私がこの世で信じられる唯一の正しさでした」


 リアーナの声は、一点の曇りもなく響き渡る。会場の誰もが息をひそめ、彼女の言葉に耳を傾けていた。


「だから私は、お父様の求める理想の娘であろうと、ただひたすらに努めてきたのだと思います。でも、その努力は時に、お母様が宝物とまで仰って下さった優しさを捨ててしまうようなものだった。それは、わたくしにとって何よりも大切なものだったはずなのに」


 彼女の視線が父の顔からゆっくりと離れ、遠くの一点を見つめた。


「う、うるさい」


 父の言葉はか細く、頼りない音となって聴衆の耳に届く。

 しかし、リアーナはそれを意に返すことなく、言葉を紡ぎ出していく。それが、それだけが、父に対して出来る唯一の愛の在り方だと信じて。


「しかし、お父様はそんな私にも気づきの機会を与えてくださいました。使い損ねた駒だとおっしゃられた時、私は初めて自分の足で立つことの必要性を知りました。そしてその先の道で、私は真の優しさとは何かということを。また、心を許せる人との出会いこそがどれほど尊いものかということを、知ることができました」


 リアーナはそこで一度言葉を区切り、隣に立つカインに小さく微笑んだ。カインもまた、静かにリアーナを見つめ返している。


「……やめろ」


 その声の主に向けられた聴衆の視線はかつてないほどに冷ややかだ。


「お父様が、私に価値がないとおっしゃられたあの日、私は絶望しました。ですが、その絶望があったからこそ、私は与えられるばかりではなく、自ら幸せを掴みに行く勇気を得ることができました。お父様は、私を強くしてくださいました。そして、私に新しい人生の扉を開いてくださいました」


「使い損ねた駒、だと?」

「価値が無いって……」


「「それが実の娘に向ける言葉なのか?」」


 会場にはざわめきが広がる。視線に刺された父の背中は小さく萎み、拳は固く握られた。

 リアーナは再び、グレイアム侯爵に視線を戻した。


「ですから、お父様。私はお父様に心より感謝申し上げます。そして、私自身の未熟さゆえに、お父様のお心に添えなかったこと、長きにわたり、お父様の期待に応えられなかったこと、心よりお詫び申し上げます」


 彼女は、淀みなくドレスの裾を摘み、完璧な、それでいて温かさの滲む淑女の礼を執った。


 響くのは教会の鐘の音。そして、誰かの祝福の声。

 窓ガラスに映る銀糸の髪は柔らかく揺れ、緩やかに光り輝く。

 燭台の炎は暖かく、愛に満ちた空気を照らす。

 水面はきらきらと瞬き、満ち足りた微笑みがグラス越しに揺れていた。


 彼女は愛しい人のほうを振り返り、悪戯っぽく語り掛ける。


「クローデン男爵様。少し、お腹が空いてしまいましたわ」


 その言葉に、カインはたまらないといったように笑みをこぼす。


 会場は浮され、絆され、徐々に熱を帯びていく。

 視線はすべて、ただ二人──クローデン男爵夫妻へ。

 婚約を破棄されたはずの彼女が、空気を、場を、人々の心を支配していた。

 まるでこの舞踏会の主役が初めから彼女であったかのように。

 すべてを穏やかに、自然に惹きつける。


「ああ、そうか。では帰って食事にでもしようか。今夜は二人だけで。使用人もみんな帰してな」

「ふたりだけで……、ですか?」


 クツクツと笑うカインと、頬を赤らめるリアーナ。


 彼女の心臓は緩やかに、正確に──そして時に、愛おしいほどに、暖かく打ち続ける。


 どくん、どくん、どくん。

 静かに、穏やかに、そして美しく──。



***





「クローデン男爵様。一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「なんだい?リアーナ」


 遠くからワルツの調べが微かに流れてくる王宮の庭園。夜気に包まれたその中で、リアーナは少しだけ裾をつまみ、カインに向き直った。


 迎えの馬車はまだ、姿を現さない。


「その、クローデン男爵様は……」


 言葉の先を探して口ごもるリアーナ。


 その瞬間、青い花弁が風に舞い、二人の間にそっと落ちた。

 青草に似た優しい香りが鼻をかすめ、リアーナの記憶が不意に引き戻される。


 ──ブルーデイジーって言うの──


 それはあの日、あの庭園で、母と見たあの花畑。母の声が、まるで花の香りに乗って蘇った気がした。


 ──花言葉は“幸福”……でもね、それは自分で選んで進む人のそばに咲くものなのよ──


 その言葉が、胸の奥でそっと灯る。

 震える指先に力がこもる。リアーナは、小さく息を吸い込み、顔を上げた。

 目の色が、わずかに強くなる。


「クローデン男爵様はどうして、私を買ったのでしょうか?」


「どうして、か」


 カインは一瞬眉を顰め、そしてじっとリアーナを見据えた。


「正直に言えば、打算以外の何ものでもない。孤児院の子供達を守るために、地位のある君を利用させてもらったんだ。孤児院の経営には資金も権力も必要でな。その意味で君は最適な駒だった」


 最適な駒。その言葉にリアーナの胸がざわつく。静かに唇を噛み締め、彼女は言葉を探すように目を伏せた。


「後は君のあの瞳が、親を失ったあの子たちに少しばかり似ていたから、かな」


 しかし、カインの視線は彼女の目を捉えて離さない。リアーナはその言葉に戸惑いを覚えたが、何処か温かさを感じて顔を上げた。


「こんな理由で申し訳ない。だがな、これだけは言わせてくれ。俺は君と関わるうちに、打算なんてどうでもよくなった。君はどれだけ冷たく閉ざされた目をしていても、いつだって優しかった。気付いていないのかもしれないが、君は出会った時から優しかったんだ」


 言葉が胸に刺さる。少しだけ震える指先を握り締めた。


「例えば、書類はいつだって丁寧で読みやすかった。俺が寝ている間に、掛物を肩に掛けてくれていたこともあったな。そういうさりげない気遣いを優しさと呼ばずに何と呼ぶ?」


 心の奥底で何かが溶かされていくのを感じていた。カインの瞳は心なしかうっすらと滲んでいる。そっと手が握られ、ふっと笑った。


「俺はその君の滲み出る優しさに気付いてしまった。完璧を装いながらも、誰よりも必死で、誰よりも傷つきやく、そして何よりも優しい。その矛盾が愛おしいと思ったんだ。そして、今の君のその飾らない表情すらも。全てがたまらなく愛おしい」


 リアーナはその時、確かに息を呑んだ。


「クローデン男爵様。……その、私なんて言ったらいいか……」


 視線を彷徨わせながら、心を絞るように言葉を紡ぐ。


「私はあなたに何度も救われました。何度も勇気づけられて、何度も助けられて……、何とお礼を言ったらいいか。私はまだ、あなたに何も出来ていない」

「そんなことはない。君には沢山もらっている。優しさも、強さも何もかも。それに、俺はただ、俺がしたいからしているだけ。俺は俺のために、君のその涙を笑ってやるだけさ」


 カインの手が彼女の頬に触れる。

 滲んだ涙を誤魔化すように、リアーナはさっと視線を逸らした。


「でも、それでは私が納得いきません。何かありませんか?私があなたに出来ること。してほしいこと、しないでほしいこと……それとも不満、とか」


 カインは少し黙って、僅かに口角を上げた。その目に柔らかな光が宿る。


「そうか、なら。一つだけ」


 間を置いて、ゆっくりと、まるで大切な言葉を手渡すように。


「そろそろ名前で呼んでくれはしないだろうか?」


 遠鳴りのワルツの中、カインの言葉がぽつりと浮かんだ。

 リアーナは息をつめたままカインを見上げる。

 少しの逡巡のあと、ゆっくりと口が開かれた。


「……カイン、様」

「様は要らない。だろう?」


 リアーナは戸惑いながらも小さく頷く。そしてふっと笑った。

 赤らむ頬、揺れる瞳、震える手のひら。脳裏に浮かんだ言葉は不合理で突拍子もない。

 しかし、それでも彼女はその言葉を口にした。


「……カイン。その、私、何だか踊りたくなってしまいました。……もし、よろしければ」


 少し照れたように、けれど確かな意思を込めて手を差し出す。

 カインは驚いたように目を見開き、直ぐに穏やかに微笑んだ。


「君は本当に、面倒な子だ」


 リアーナの手が取られ、二人はゆっくりと一歩を踏み出す。


 夜の庭園には、ワルツの旋律が微かに届いている。風に乗り、遠く王宮から響いてくる三拍子のリズムが、二人の心を規則的に叩く。

 響く足音は無邪気で、無秩序で、無茶苦茶で。それでも、二人は足取りを緩めない。


 タン、タン、タタンと──。




 ***





 どくん、どくん、どくん。


 その音は、誰もが産まれてから死ぬまで、平等に与えられた命の証。

 時に不規則に、時に不器用に、そして何時だって懸命に。その拍動は誰もが抱える美しき命の灯火。

 彼女の心臓は今も変わらず力強い鼓動を刻み続ける。


「──どうか、あの子に神のご加護があらんことを。こうして、勇者だった彼と聖女だった彼女は末永く幸せに暮らしましたとさ」


 リアーナが読み終えた時、子供たちは熱い眼差しを彼女へと向けていた。

 あの読み聞かせで「つまんなかったな」と呟いた一番前の少年が、きゅっと口を結び、やがて顔いっぱいに笑みを広げた。


「へぇ、良かったんじゃない?お馬鹿な勇者も毒舌聖女も報われてさ」


 リアーナは、はにかむように微笑んだ。


「そうね。そう言ってもらえて嬉しいわ」


 彼らが無邪気に投げかける言葉一つ一つが、リアーナの心に温かい波紋を広げていく。


「リアーナ夫人!お話、ありがとう!」

「絶対、また読んでね!次は違うお話も!」


 子供たちの声が重なり、小さな手がリアーナのドレスを掴む。

 その温もりが、彼女の胸の奥深くへと染み渡っていくのを感じた。誰もが等しく持つ、この小さな命の拍動が彼女の心を満たしていく。


「リアーナ夫人。バルトにお花をあげてくれる?」


 メイリアは、子供達が去った後もリアーナのドレスを掴んでいた。

 泣きも、笑いもしない。ただ、彼女を見つめるメイリア。

 その手に引かれるように、リアーナは孤児院の裏庭へと歩みを進めた。




 小さな墓前に、色とりどりの野花が手向けられている。

 木片に書かれた歪なバルトの文字。そこには少し古びた首輪が掛けられていた。


「ねぇ、バルトは寂しくないかな?」


 メイリアの声が、風に乗って揺れる。リアーナはそっと、メイリアの頭に手を置いた。


「そうね。それは誰にも分からない。きっと、バルトにしか分からないことよ。でも、私はバルトが幸せだって信じたい。こんなにも素敵に飾られて、こんなにも思ってくれるメイリアがいる。だから、バルトは幸せなんだって、寂しくないんだって信じたいわ」


 彼女はそう言うと、持っていた小さな花束をそっと墓前に手向けた。鮮やかな花弁が、風にそよいで踊る。


「たとえ心臓の音が止まっても、愛は、思い出は、決して消えることはないの。私の中でお母様が、私やメイリアの中でバルトが、ずっと生き続けているように」


 メイリアはリアーナの言葉に、ゆっくりと顔を上げた。


「……うん」


 二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。風が吹き抜け、花々がさやさやと音を立てた。


 バルトの命の光は、確かにこの場所に、そして二人の心の中に息づいている。それは、鼓動が止まっても消えない、永遠の輝き。


 リアーナは空を見上げた。高く澄んだ青空が、どこまでも広がっている。

 彼女の心臓は今も変わらず力強い鼓動を刻み続ける。

 その音はまだ、止まらない。


 どくん、どくん、どくん。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!評価や、コメント、いいね下さると励みになります。

よろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ