1「静かに暮らしたい」
結喜が話を終え、深呼吸をする。
彼女は心を見つめ、少しだけ、悲しそうな顔をした。
「ここまでが馴れ初め、きっと覚えているはず、ここ兄ぃが記憶を失ってるのは私が中学に上がってから。あの事故があってから、高校に入ってから」
そう言いながら結喜は話す。
その表情には少しだけ、申し訳なさそうに、私の瞳には映った。
「でもここからは、ここ兄ぃが助けた、手に入れた物語。もう失くしてしまって、今はない物語だから」
そう言って結喜は私を見た。
「癒怒・・・お願い」
結喜はそう呟きながら、私を見た。
その言葉に私はゆっくりと頷き、心を見る。
「では、次は私が・・・鳴海さん・・・いいですか?」
そう言いながら私は目の前にいる彼を見つめる。
「・・・あぁ・・・頼む」
心が発したその言葉を聞いて、私は目を瞑り・・・深呼吸をする。
そうして、目を開き、ゆっくりと口を開いた。
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・・・私の名前は猫凪 癒怒
私は・・・人間が嫌いだ。
猫凪さん・・・私は君が羨ましいよ。
そう言ったのは誰だったか・・・
癒怒ちゃんの家は大きくてお金がたくさんあるんだよ!!
純粋な言葉なんてない。
羨ましければ、人を痛めつけてもいいのか。
癒怒・・・頑張ったじゃない!!点数も問題ないわ!
母親はそう言った。
それはそうだ。『問題がない』ように上手くやったんだから。
何も知らない。
近しい人間でさえ、うわべだけで話す。
所詮は他人なのだ・・・それなら、うまくやることだけ考えよう・・・そうすれば、被害は最小限に抑えられる。
水の音が響く脱衣所・・・
私は朝起きて、洗面台で顔を洗っていた。
金色の毛先から雫が滴る。
「学校・・・いやだな・・・」
そう言いながら私は顔を上げ、正面の鏡を見る。
濡れた毛先と、少し腫れた目・・・昔は輝いていた瞳にはもう光はない。
私は自分の服を掴み、小さく呟く。
「これは・・・・・・・死にますね」
そう話した私に顔は、誰にでもわかるほど綺麗な作り笑いをしていた。
「歯を磨かなくちゃ・・・」
そう言いながら棚にしまってあるであろう歯ブラシを探すために棚を開ける。
だが目にした瞬間に歯を食いしばる。
「・・・また・・・」
歯ブラシの形状をした何かに黒い粒子のような物がびっしりとついている。
そうか・・・一度使ったから・・・
「クソ・・・」
そんな言葉が出て、私は瞬時に自身の口を塞いだ。
こんな言葉は使ってはダメだ。
心が死ぬ。人間が・・・人として穢れる。
この粒子は一体何なんだろう。
触れた物に生まれる。
・・・埃ではないよね・・・
水で洗っても落ちなかった。
私はそんなことを考えながら新しい歯ブラシを洗面台下の引き出しから取り出し、開封する。
そうして手に持った瞬間、粒子が再度歯ブラシを穢した。
「これは・・・」
「癒怒!!学校遅れるよ」
母親の声が響く。
・・・メンドクサイ・・・
幻覚なのはわかっている、頭では理解しているのだ。
でも、私の脳はその理解を拒んだ。
精神科を受診し、心因性の何かということはわかったが、結局は心。
精神・・・解決に至るわけじゃない。
意味のないことだ。
私のどこがいけなかったのだろうか・・・
何かしてしまったのか・・・
いろいろ考えたが、何も心当たりはなかった。
いつからか考えるのをやめた・・・いや、諦めたといっても過言ではない。
ため息を漏らす。
学校・・・土曜日なのに・・・授業参観・・・
あぁ・・・クソ・・・
「行きたくない・・・」
その呟きは、流れる水音と溶け合い、誰にも届かない。
学校に行けば彼女たちがうるさい・・・
失敗をすれば母親がうるさい・・・
どこか遠くに行きたい。
もっと静かな場所に・・・
何もなく、穏やかな場所に・・・
「そんなところは無いか・・・」
私はそう呟いて、蛇口から流れる水を止める。
文句を言っても、どうせ何も変わらない。
「・・・行くか・・・」
そう言って脱衣所から出た。