5「寄り添う」
バタンと閉まった玄関。
暗くなった視界で私は少し考えていた。
鳴海 心の背中からのぞいた闇。
リビングには明かりはなく、今も窓から光は漏れていない。
「・・・帰ろ」
私は一人そう呟いて歩き出した。
一分もかからない帰路。
自宅の光が近づくにつれ、母親の影がはっきりと見える。
逆光で見えない母の表情。
だが、見ている方向は心の家だった。
何かを怪しんでいるように、まるで張り込みをしている刑事のように、腕を組みながらただ心の家を眺めている。
「お母さん、どうかした?」
私がそう話すと、母親は組んでいた腕を下ろし、話し始めた。
「どうだった?」
「・・・いい人だよ?」
母親の問いの真の意味を、私はその時は知らなかった。
「そうね・・・いい子だった。でも、今後付き合っていくなら、結構苦労するかもね」
母親は淡々とそう話した。
その声は少し冷たいような、でも、優しさが込められているような感じがした。
母親は私に視線を向ける。
視線・・・と言っても影しか見えないから視線というよりは、顔を向けると言った方が正しいだろうか。
「少し寒いね。早く入りなさい」
そう言われ、母親と共に家に入る。
玄関は明るく、リビングからは廊下に光が差し込む。
当たり前の風景、『普通』の風景なのだ。
彼の・・・心の家にはそれがなかった。
そんな時、母親が私の背中にゆっくりと手を当てる。
「結喜、これから成長するにつれていろんなものを見ることになる。結喜がその立場になることもあるかもしれない」
その言葉に、私はゆっくりと振り返り、母親の顔を見ながら首をかしげる。
「どういうこと?」
「私たちの普通は、誰かにとっては普通じゃない。誰かにとっての普通は私たちにとっての普通じゃない。普通ってのは、見る世界、視点が変わればまったく別の物になる。あなただけは、これを覚えておきなさい。特に、さっきの男の子と今後も関わっていくんなら、なおさら視野を広げなさい」
そう話して、母親は私に目線を合わせるようにその場にしゃがみ込む。
そうして、両手で私の頬を包んだ。
「知識をつけろとは言わない。理解しろとは言わない。でも・・・・理解する努力はしなさい」
「理解って・・・何について?」
私が返したその問いに、母親は深呼吸をする。
「目の前にあるものすべて」
その言葉に、私は少し驚いたが、母親の真剣なまなざしのせいか、この言葉はきっと重要なものなのだと、そう感じた。
いつもの私なら、全てなんて無理。頭がおかしいと言って早々に諦めを見せただろう。
だが、この言葉だけは、そう簡単に投げ捨てていいものではない気がした。
「・・・わかった」
「今はわからなくても、必ずわかる。近いうちに、それを実感する」
そう言われ、その日は少し休んでから、ベッドに入った。
布団の中でも、母親の言葉を反芻し、ゆっくりと目を瞑る。
明日・・・はっきりと言おう。
翌日。
強い日差しが瞼を突き刺す。
その明るさに、私はゆっくりと目を覚ました。
ベッドから降り、学校の支度をする。
髪が長いと梳かすのもメンドクサイ。
だが、人に見られるんだからしっかりしなくては。
「行ってきます!!」
そう言って私は玄関を開ける。
朝食も食べた。
いい気分だ。
太陽は私を照らし、脳の中まで洗い流してくれるようだ。
私は息を吸う。
ひんやりとした空気が肺に入り、空気がおいし・・・・
「あまりおいしくないね。都会だからかな」
私はそう呟き歩き出すと、隣の家からバタンと音が響いた。
「ここ兄ぃ!!」
私は手を振りながら彼の名前を呼ぶ。
彼は一瞬太陽を睨んだ後、私を見て手を軽く挙げた。
「よう!!クソみたいな天気だな」
心は相変わらずそう話した。
「天気はいいよ」
「俺は雨が好きだ」
「私は太陽好きだよ」
そう話すと、心は眉を歪ませた。
「ほう・・・その心は?」
「走れるから」
そう言った瞬間、心は鼻で笑って話し始めた。
「文明の利器。車、バイク、電車、自転車・・・・これだけ便利なものがそろっていて、走るのが好き?人類の進化を一瞬で無駄にするセリフだな」
「でも、それってそんな頻繁に使わないよね」
心の言葉にそう話すと、彼は眉をクイッと軽くあげ話した。
「まぁ・・・確かに」
一瞬の沈黙が流れる。
「まぁいい・・・行くぞ。遅刻するとめんどうだろ」
そう言いながら彼は歩き出す。
私より大きな一歩。歩幅は大きく、ついていくので息が切れてしまう。
「私さ、ここ兄ぃについていくから」
私の言葉に、彼は目線だけこちらに向ける。
その表情は少し驚いているようだった。
「急にどうした」
「別に?」
そう話すと、ここ兄ぃは歩幅を狭くし、徐々に後退してくる。
「好きにしろ・・・俺は常に先を行く」
「うわ、その言葉かっこいいはずなのに、年下に言ってる時点でダサいかも」
その言葉に心は顔を歪めた。
なんだその顔・・・
これがきっと。
私たちの馴れ初め・・・まだ続きはあるけどきっとありきたりだ。
だから話さない・・・だから語らない。
ここまでは普通のお話だから。