4「頼れる場所を」
俺はスマホをポケットに入れソファから立ち上がる。
「そろそろ帰ろうかな。長くいるのも申し訳ないし」
そう話しながら癒怒を見ると、少し寂しそうな顔をした。
「玄関まで送ります・・・」
癒怒はそう話してソファから立ち上がった。
そして誰もいない長い廊下を見つめる。
「大丈夫か?」
「はい。 少し寂しいですが・・・」
そう話しながら俺に視線を向ける。
「案外はっきり言うんだな」
「もう隠しても意味ないですし・・・今は聞いてくれる人がいますから」
そう言いながらやさしく笑った。
その顔を見て少しだけ胸が痛む。我慢をさせていることが分かってしまったからだ。
俺は気まずい空間を少しでも変えようと口を開く。
「そういえば、さっきは何で急に泣いたの?」
「あ、それ聞きます?」
癒怒はそう話しながら顔を赤らめ、先ほどまで座っていたソファに視線を移す。
「限界だった・・・とか?」
俺は恐る恐るそう問うと、彼女は唇に人差し指を当てて少し考えるそぶりを見せた。
「限界・・・とは少し違いますね」
「というと?」
「そうですね・・・懐かしくて・・・うれしかったんだと思います。 昔はあって、もう今はない光景が・・・」
癒怒はそう言いながらリビングを見渡す。
「昔はあったはずなんです・・・。みんな揃って、テレビを見て、ご飯を食べながら笑っていた期間が・・・。 きっと、それと重なったんだと思います」
彼女はそう話しながら先ほどまで俺が座っていたソファを見つめていた。
なるほど・・
彼女は見たのだ、俺がそこにいることで失ってしまってもう見ることのない、そこに確かにあったはずの景色を。
「・・・どう頑張っても俺たちは代わりにはなれない。 でも、気休めの場所くらいにはなるはずだ」
俺がそう話すと彼女は優しい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、俺は帰るわ」
そう話して俺は玄関に続く廊下を歩きだす。
ガチャ・・・
直後に玄関の扉が開く。
「え・・・」
ゆっくりと玄関の扉が開き、徐々に人影が見える。
影は二つ。おそらく両親だろう。
そして数秒後、目が合った。
「は?」
「・・・え」
「あ、お母さん、お父さん」
俺は面倒な予感を感じ取りため息を漏らす。
「お邪魔してます」
そう言って固まる癒怒の両親の横を通り過ぎる。
靴を履いて、玄関に手をかけようとした時だった。
「待つんだ」
低い声が響く。
俺はその声には振り向かずに返事をした。
「なんですか」
「君は癒怒の何なんだ!?」
「君は癒怒の彼氏!?」
男女の声が同時に響いた。
声かけてきたのは確かに男の声がしていたはずだ。
なぜ混じった声がするんだ。
ラスボスかな?
いや、同時に話したに決まっている。
「なんて言いました?」
俺は何も聞き取れなかったので、今度はしっかりと向き合って質問を投げかける。
「あら、イケメンじゃない!!」
「母さん今はそんな話をしている場合じゃない」
「いいじゃないの!今日は久々に早く帰ってきて時間はあるんだから!」
そう言って癒怒の母親は半ば強引に俺を家に引き入れた。
そして俺は先ほど立ち上がったはずのソファに座らされている。
「お母さん、今日は何で早いの?」
何の気なしだろう。
癒怒が質問を投げかけると両親は不思議な顔をした。
その顔を見てもなお、癒怒は何でかわからないという風に首を傾げた。
その光景を見て二人が顔を見合わせる。
「なんでって・・・それは癒怒の誕生日だからよ」
そう話した母親の言葉を最後に空間が静寂に包まれる。
気まずい・・・
なんだこの空間・・・
「・・・覚えてなかったの?」
母親がそう呟いた。
もちろん怒っているわけではない。
彼女の口調からしっかりと心配の気持ちが溢れている。
「俺だって自分の誕生日たまに忘れますよ」
俺はなんとかフォローしようとそう話すと、両親は俺に視線を向けて口を開いた。
「普通はそんなに気にしないさ。でもこの子は毎年楽しみにしていた。 それこそ誕生月に入ると毎日ソワソワしていたくらいなんだ」
癒怒の父親がそう話す。
そう話しながら癒怒に悲しそうな視線を向けた。
癒怒はそんな顔を向けられて、自分が何を言ったのか、自分の何が変わったのかを理解したようだった。
「珍しいこともあるわねぇ」
母親がそう呟いた。
気づいていない。
彼女の両親は、今彼女に何が起きているのか理解していない。
ストレスで影響を受けるのは心だけじゃない。
「・・・記憶が・・・」
俺はそう呟いた。
俺と同じ・・・記憶の維持が難しくなってるんだ・・・
「癒怒・・・昨日の夕飯何だった?」
俺がそう質問すると彼女は考えるそぶりを見せた。
「・・・覚えていません」
静かにそう呟く。
「なら今日の朝食は?」
その言葉にも彼女は首を振る。
「なら楽しいことはどこまで覚えてる?」
この質問には意図がある。
朝食や夕食は正直覚えてないことの方が多い、それは単純に興味がないからだ。
でも、意識に残るものはある。
嫌なことは忘れてしまう・・・いや、心の平穏を保つために記憶にふたをする。
だが、刻まれたものは残る。だから彼女の心には『一人は寂しい』という記憶が刻まれている。
だから・・・彼女は泣いたんだ。
では、これはどうだろう。
普通は蓋をしなくていいはずの記憶に蓋がされている場合だ。
そこから這い上がり、自分を取り戻すのはきつくなるはずだ。
俺の話を聞き、彼女は考える。
この答えが彼女のこれからを決めるかもしれない。
「覚えていますよ?」
彼女がつぶやいたその言葉を聞き、俺は安堵の息を漏らす。
「え・・・なになに?」
癒怒の母親が俺に聞く。
「過度なストレスによる軽度の記憶喪失みたいなもんです」
それを聞いた後に癒怒の母親は小さく頷いた。
「そう・・・なら大丈夫ね。焦らせないでよ、もう!」
そうしてそう言った。
俺はその言葉に首を振る。
「何も大丈夫じゃないですよ。 軽度とはいっても、体と脳が異常を検知して記憶に鍵をかけてる状態です。 大丈夫なわけありません」
「でも、癒怒は私たちに何も言ってこなかったわよ?」
俺の言葉に母親はそう返す。
その後ろでは癒怒の父親が頷いていた。
「言わないから大丈夫にはなりません。 もちろん、言ってくれる方が楽です。 伝わりやすく、対処しやすい・・・でも、欠点があります」
俺の言葉に癒怒の両親は首をかしげる。
「話せる、言語化できる場合は軽度と思われがちなことです。確かに俺はさっき『軽度』と言いましたが、それは単に自殺などを考える場所まで行ってないってだけです。放置すればいずれ来る・・・もう何度か来ているかもしれない」
「癒怒はそんなことしないわよ、優しい子だもの」
母親はそう話した。
この直後、癒怒の表情が少し歪んだ。
なるほど・・・
幸か不幸か・・・
今の母親の言葉が死ぬ理由であり、命をつなぎとめる理由か・・・
「ね、癒怒」
母親が何かを話そうと口を開こうとする。
それを遮るように俺は話す。
「もう少し癒怒さんに興味を持ったらどうですか?」
俺がそう話すと癒怒の両親は俺の顔を見る。
「どういうこと?」
「私は癒怒を愛しているわ。 大切にしているつもりよ」
父親は言葉の意味を問い、母親は自身の意見を押し付けるように話した。
「だったら聞きますが、なんでこんなになるまで気づかなかったんですか?」
俺は癒怒の母親の目をしっかりと見つめて話す。
「気づいたわよ。だから病院にも連れて行ったわ。 幻覚の話でしょう?」
そう話す。
まるで何でも知っているような、まるで当然と言いたげな表情で俺を見つめる母親に、少し腹がたってしまう。
「ならそうなった原因は知っているんですか?」
俺はため息を漏らし、そう質問を投げる。
きっと彼女は両親にイジメのことや、寂しいことなど言っていない。
だから話した。
「そ・・・それは・・・」
「服の下にある傷は知っていますか?」
その言葉に母親の表情が変わる。
「何それ・・・癒怒、少し来なさい」
そう話して癒怒と母親は別部屋に消えていく。
「君はかなりはっきり言うね」
俺と癒怒の父親しかいない空間で彼が話し始める。
「こういうのははっきり言わなきゃ通じないですから。 でも、これが死ぬほど難しいんです。だから俺は非常識でも、失礼なやり方でも伝えますよ」
俺がそう話すと、癒怒の父親は少し笑ってお茶に口をつけようとする。
「なにこれ・・・!!!」
直後。別部屋から母親の声が響いた。
そして数分経ってから出てきた。
「なんなのか聞いていいかな?」
母親がそう言った。
「別に珍しくはないです、イジメですよ」
そう話すと癒怒は泣きそうになり、母親の表情は怒りの色を見せる。
ごめんな・・・
癒怒はきっと言いたくなかったんだ。
だからここまで耐えた、迷惑をかけたくない、知られたくない、大事にしたくない、きっといろんな気持ちが混ざり合ってる。
でも、それじゃだめだ。
「イジメ・・・癒怒・・・あんた何したの?」
そう言って母親は癒怒に怒鳴る。
その光景を見て、俺はすぐに口を開く。
「怒る相手が違いませんか? てか、なんで癒怒さんに原因があると思っているんですか?」
俺がそう話すと、癒怒の母親は首をかしげる。
「原因があるからイジメに会うんでしょう?」
「まじで言ってるんですか? イジメに原因があるわけないでしょう」
そう話すと癒怒の母親は首を振る。
「原因があるからいじめられるの、原因がないのにイジメるわけないでしょう?」
「なら、原因があれば殺していいんですか?」
「殺していいわけないでしょう? それは犯罪」
「いじめだって犯罪ですが」
その言葉に母親の顔が歪む。
「イジメは子供のすることでしょう?」
「子供ってだけで許されるなら殺人でも問題ないじゃないですか。なんなんですか、そのいじめはいいけど殺人はだめって境界線」
「どんな理由があっても命を奪っていい理由にはならないわ」
「なら、イジメによって自殺した人間はどうなりますか? 『イジメ』をしたやつらのせいで死んで、これは命を奪ったことになりませんか? その場合、あなたの言う原因って何ですか?」
そう話すと母親が壁を強くたたく。
俺の後ろにいる癒怒の父親の体が跳ね、癒怒も驚く。
「聞いてれば屁理屈ばっかり!!!」
「屁理屈ではありますが間違ったことは言ってないはずです。 怒る前に恥じた方がいいですよ、大切にしているとか言ったのに、中身だけでなく外側の異変にすら気づけてなかったんですから」
俺がそう話すと母親は俺をにらむ。
「興味がないんですね・・・だから何も気が付かなかった」
「私は・・・」
「最後に心配したのはいつですか? 多分ですが・・・癒怒さんが何か悪いことをしたときじゃないですか?」
そう話すと、癒怒の母親の顔がさらに歪んだ。
「心当たりがあるんですね・・・。はっきり言います。それは心配じゃありません。それの正体は『娘がしでかした悪評で変動する私の評価』を気にする気持ちです」
その言葉に癒怒の母親はうつむく。
「確かに、癒怒さんは優しく、きっと成績もいいのでしょう。世間一般から見れば優秀な子供です。 でもあなたは評価を気にするあまり、本人のことが見えていなかったみたいですね」
静寂に包まれる。
重く、まるで大量の荷物を担いでいる感覚だ。
そんな時、肩を叩かれる。
振り返ると、癒怒の父親が俺の肩に手を置いていた。
「そこまでにしてくれ・・・ここからは家族で話す」
癒怒の父親が真剣な顔でそう話す。
俺はそれを信じてみることにした。
「そうですか・・・ではお願いします」
そう言って俺はうつむいたままの癒怒の母親に視線を移す。
「・・・いろいろ言ってすいませんでした。あとはそちらで話し合ってください『家族』なんですから」
そう言って俺は歩きだす。
「あ・・・鳴海さん」
喉の詰まった何かを吐き出すように癒怒が俺の名前を呼ぶ。
「たまには怒っていいと思うぞ」
それだけ言って俺は癒怒の横を通る。
玄関で靴を履き、扉を開ける。
重い空気は纏わりつき、鼓動を早める。
「あ、そうだ癒怒」
俺はそう言いながら振り返る。
その声に彼女が振り向く。
「いい報告を待ってる。結喜も、哀歌も、楽も、みんなお前を待ってる」
そう話すと癒怒は強く頷いた。
「癒怒さんのお母さん、お父さん。友達は頼れますが、完全じゃありません。 本当にやばいときは両親の、家族の言葉が良くも悪くも一番利きます。 だからお願いします、本当に辛いときに頼れる場所を作り、残してください」
その言葉に癒怒の父親が頷く。
「では、お邪魔しました」
そう言って手で押さえていた扉から離れ、玄関の扉が閉まる音を聞いた。
外はすでに暗くなっていて、建物の光がまばゆく視界を照らす。
「・・・なんか寒い気がするな」
吐く息は白くない。
なのにこの夜はやけに寒く感じた