2「一歩」
俺はテレビを見つめる母親を見て、少しの間思考を巡らす。
だが、出てきた答えはひどく他力に頼るものだった。
俺は・・・思想が強いだけの高校生だ。
誰かの役に立ちたいと、誰かのためにしか生きられないただの高校生だ。
なんの取り柄もなく、なんの能力もない。
全部が中途半端で、誰かに勝てる物など一つも持っていない。
だから、専門家に頼るしかないと、そう思った。
俺はゆっくりと塩を取り、鮭に振りかける。
まずはなにもしない。
ゆっくりと深呼吸をして、母親の前に鮭を置く。
「母さん、これでどうかな?」
「ありがとう、心」
そう言って母親は鮭を切り分け、口に運ぶと少しだけ眉を歪めた。
一つ、問題の提示。
俺は鮭に異常と思われるほどの塩をふりかけた。
もちろん、吐き出してしまうほどに。
普通に食べてしまったら危険だが、おそらく飲み込めやしない。
「どうしたの?母さん」
「あ、いや・・・」
二つ、問題の予測。
「しょっぱかった?じゃあ俺のと交換しよ。俺のは何もしてないから」
そう言いながら俺は半ば強引に母親から鮭の乗った皿を奪い、俺のものを母親の前においた。
「ありがとう」
母親はそう言って、鮭を口に運び、首を傾げる。
「それ、ちょうどいい塩味でしょ」
俺がそう話すと、母親は口をゆっくりと動かしながら何かを考えている様子だった。
三つ、問題の言語化。
俺はキッチンから持ってきていた塩をテーブルに置き、母親に塩を勧める。
だが、ただ勧めるのではなく、今直面している可能性がある問題を言語化し、提示する。
「母さん、味、ちゃんと感じられてる?」
この質問の仕方は意地が悪い気がした。
鮭の味を感じられているかと聞いてしまうと、今、この状況のみの話になってしまう。
だから、全体を、過去すらも思い出させるような、考えさせるような聞き方をする。
そして、それはかなりの効果がある。
味覚というのは、人生を豊かにする一つのピースだ。
埋められない愛を、過食で満たす人間がいることにも頷ける。
だからこそ、この問は意味をなす。
味を感じられるのか、この問はただの確認ではなく、母親の過去がどんなものだったかもを引き出す事ができる。
「それは?」
「味噌汁以外は市販品。味噌汁は市販の味噌を溶かしたんだろう?最初から味のついてる食材はちょうどいい味付けだった」
そして四つ、問題の特定。
「いつから味覚が壊れた?でも、食を作るなら、鼻はイカれてない。ただ、味覚がおかしくなってるだけだ。いつから?」
俺は直接的な言葉で簡潔に分かりやすく伝える。
想像しえない問、言葉は一時的に脳の回路をショートさせ、思考を鈍らせる。
だから、簡潔にする必要がある。
「・・・わからない・・・いつからだろう」
記憶の曖昧さ。
偽記憶に似た何か。
だが、偽記憶ではない。
きっと、気が付かなかった。
舌バカは、自分が舌バカと言うのには気が付かない。
誰かに比べられ、誰かと意見を交換して初めて、もしかしてと疑いが芽生える。
だが、わかっても意味がない。
問題を明確にし、自覚しても、原因の特定ができない限り治療は難しい。
「一度病院に行こう、何科になるのかわかろないけど・・・神経内科かな」
俺はそう言いながら、スマホを取り出し検索をする。
画面には、耳鼻咽喉科と書いてあった。
なんで耳鼻咽喉科なんだろう。
耳とか鼻って味覚に関係するのかな。
俺は首をかしげながら口を開く。
「あ?耳鼻咽喉科・・・なんで?」
俺は小さくつぶやきながら母親にスマホの画面を見せる。
そうして、更に言葉を紡いだ。
「何か耳鼻咽喉科みたいだわ。とりあえず、近いうちに受診してみよ、電子・・・味覚なんたら検査みたいなものもするしらしいし」
俺がそう話すと、母親はテーブルに並べられた食器を見つめる。
「・・・わかったわ。お母様は自分で調べて行ってくるから、あなたは学校に集中して」
そう言って母親は、スマホを取り出した。
「心、もういい時間なんじゃないの?出なくて大丈夫?」
そう言われて時計を見ると、確かに八時近くになっていた。
考える時間が多かったからか、気が付かなかった。
まだテーブルに残っている食事を見て、俺はため息を漏らす。
「レンジに入れといて、夕飯と一緒に食べる」
「わかった」
俺の答えに母親は短く返事をした。
一度部屋に戻り、早足で着替え、鞄を手に持ち階段を駆け下りた。
「行ってきます」
「言ってらっしゃい」
このやり取り。
これができるようになってから数日経ったが、どこか懐かしい感じがするうえ、なかなか慣れるものではない。
温かい気持ちが胸に渦巻き、それと同時に少しの寂しさも感じている気がした。
苦しかった日々も、俺の糧になっていて、価値のない日々とは言えなかった。
確かに苦しかった、辛かった。
だが、もう二度とは手に入らない過去に思いを馳せながら、リビングの前を通り過ぎる。
そして・・・玄関の扉を開けた。
雲がかかった薄暗い空が視界に入り、直後にいつもの顔ぶれが視界を彩る。
「おはようここ兄ぃ、今日はちょっと遅かったね、遅刻しちゃうよ」
「いや、遅刻するのは俺だから。結喜はしないだろ」
俺を見た瞬間に口を開いたのは結喜だった。
彼女は黒髪を揺らしながら、車椅子に座り、上目遣いでこちらを見つめてくる。
「そうですよ、犬神さん。毎回毎回、毎度毎度遅刻するのは鳴海さんです。もう少し早く出るとか、車椅子を気合いで降りるとかないんですか?」
「いや、棘があるな。遅刻をそんなに強調しなくていいから。てか車椅子の人間を立たせようとするなよ。鬼か」
癒怒が話した言葉に、俺は即座にツッコミを入れる。
それを見て、癒怒はクスッと優しく笑った。
吹いた柔らかい風に、彼女の金髪がなびき、薄い太陽の光でキラキラと光る。
それはとても美しく、儚かった。
「車椅子がなくなってしまうと、私も困ります・・・。白杖だけじゃちゃんと前に進めてるか・・・支えとしても車椅子は欲しいような・・・」
「ごめんね、真っ直ぐ歩けなくて」
「違います!そんなことないんですよー心さん!」
哀歌の言葉に、俺はシクシクと泣き真似をしながら話すと、哀歌はワタワタとしながら何もないところに話しかけていた。
焦って首を動かすたびに揺れる銀髪も、綺麗に強調され、日光から眼球を守るサングラスの隙間から、白く長い睫毛が光り輝いた。
「はいはい、そんなに。わたわたしないで。耳に響くし、近所迷惑だから」
「別にそこまで騒いでないだろ。どれだけ地獄耳なんだよ。大きな嘴を地面に刺して、虫食べてそうだな。実は羽生えてる?」
「何言ってるの?」
「まさか、今の子は飛竜種の先生を知らないのか」
俺の言葉に、楽がイヤーマフを抑えながらため息を漏らす。
彼女がイヤーマフを強く抑えるたびに、黒に近い青髪が形を変える。
柔らかく、それでいてしっかりと手入れされている髪に、俺は一瞬だけ見惚れてしまった。
「はーい。コントしてないで行くよ」
そう言いながら結喜は車椅子を動かして先に進む。
俺たちはそれに続くように歩きだす。
「ほら、哀歌」
俺は哀歌の横に行き、声をかける。
腕を掴んでもいいぞと、そういう合図だ。
哀歌はゆっくりと腕に手を置き、しっかりと掴んだ。
「じゃあ、動くぞ」
そう言って、ゆっくりと歩き出す。
環境が変われば、気持ちも変わる。
余裕が出来れば、他人を愛せる。
俺は、先に進む三人と、横で微笑む一人を見つめ、少し考える。
「どうかしましたか?」
哀歌は何かを感じ取ったのか、俺にそう聞いてきた。
見えないのに、すごいな。
俺は少しだけ笑い、首を横に振る。
「いいや、考え事」
「聞いてもいいですか?」
「・・・まぁ、未来かな」
そう話すと、哀歌はそうですかと優しく笑い、前を向いた。
「きっと良くなりますよ」
哀歌のその言葉に、俺は小さく息を漏らす。
これはため息というより、軽い深呼吸に近い気がした。
「だといいな」
俺はそう言って前を見る。
瞬間、分厚かった雲の隙間から、太陽が顔を覗かせた気がした。
まるで、未来を明るく照らし、見守るように。