6「静けさを取り戻し、そしてまた・・・」
俺はゆっくりと歩き出し、母親を見つめる。
「話をしよう、しっかりと」
母親はため息を漏らし、椅子に座った。
「母さん、なにか飲むか?」
俺の言葉に、母親は瞬きをする。
「・・・何があるの?」
「コーヒーとかかな、あと炭酸水。ジュースはあまり飲まないから、買ってない」
「なら、コーヒーを」
母親の言葉に、俺は頷き、グラスを二つ取り出して両方にコーヒーを注いだ。
それを手に取り、ゆっくりと歩く。
母親の前にグラスを置き、俺が座るであろう対面にグラスを置く。
そうして、テーブルを挟んで対面に俺も座った。
静寂が流れる。
明るかったはずの空は徐々に光を失い、暗くなっていく。
「どこから話そうか?」
母親の言葉に、俺は首を振る。
「どこじゃない、全部だ。嘘偽りなく、誤魔化しや脚色もなく、全部話してほしい」
俺がそう話すと、母親は何度も頷き、深呼吸をしたあと、ゆっくりと話し始めた。
「そうね・・・なら」
そう言って話し始めた母親は、懐かしくも幸せではない過去を語る。
「心が小学生の頃、お母さんとお父さんは離婚した。あなたには何も言わなかった、言ってもわからないと思っていたし、言ってしまえば弱音になると思った。だから、何も言わなかった」
「何があった?」
俺がそう話すと、母親は優しそうな顔をする。
「あのクソ野郎はね、多額の借金をしていたの。そして、良くない連中にあなたを売った。子供は高く売れるから、性的な玩具にして、要らなくなったらバラして売ればいい。はじめからバラして売れば、もっと高く売れるって」
母親はそう言いながら、頭に血が登るのを抑えている様子だった。
腸が煮えくり返りそうなのを、無理やり閉じ込めているようにも見えた。
「それで?」
「お母さんはもちろん反対したわ、でも・・・あなたは実の息子じゃないから」
「・・・は?」
俺はその言葉にゆっくりと思考を巡らす。
知らなかった・・・いや、本当に知らなかったのか?
「でも、生まれてきた子供に罪はない、だから、私は抵抗することにしたの。付き合っていられない、ふざけるなって、覚えてない?あなたは一度、私を拒絶してる。離婚するとき、あなたはクソ野郎に付いていこうとした、『本当の母親じゃないのに口出しをするな』そう言ってね」
俺はゆっくりと記憶を探るが、そんな記憶は一切なかった。
「冗談だよな?」
「まさか、冗談で話せるような内容じゃないでしょう」
その言葉に俺は唾液を飲み込み、耳を傾ける。
「まぁ、だから。すぐに裁判を起こしたわ。いわゆる親権問題ね。ここはなんとか勝ち取った。借金まみれのアイツに、あなたを渡さない為にね。私はね・・・ずっと子供がほしかったの、でも若い頃に子宮の病気になってね、摘出しちゃってるから妊娠は出来なかった。それでも、あなたがいてくれた。やっと掴んだ幸せを、夢を、捨てるわけにはいかなかった。諦めきれなかった」
「・・・借金を返したのか?」
俺の言葉に、母親は首をふる。
「いいえ、ここは現実よ?フィクションみたいな展開はない。借金は私と結婚する前だから、財産分与の範囲じゃないの。すこし難しいよね、返せると思って、見通しの甘い考えで借金をして、返せないとわかった瞬間、自分の子供に手を出そうとした」
そう言って、母親はゆっくりと立ち上がり、スマホを手にとって画面を見せてきた。
そこには小さい頃の俺が写っていた。
満面の笑みで、カメラに向かって笑っていた。
ブサイクだなおい。
だが、母親はそのロック画面を見て、笑みをこぼしていた。
「これはいつだったかな。子供は何も考えていなくて、母親と思ってもいない私に、屈託のない笑み見せたの。それが私の目にはたまらなく腹立たしかったし、可愛く見えた。こっちの気も知らないで、そう思うと同時に、信頼、信用してくれているんだ・・・そう感じた」
「・・・金はどうしたんだ?」
俺の言葉に、母親は拳を握る。
「頑張ったよ。あなたは金のために殺されそうになったけど、金で救われる。皮肉よね・・・あんなクソ野郎のせいで、たったひとりの子供が不幸になるのが許せなかった。だから、なるべく不自由なく、暮らせるようにしてあげたかった。でも、理想と現実はかけ離れていて、あなたを幸せにしようと努力した時間は、同時にあなたを不幸にした。一緒にいる時間を削って、金を手に入れるために動いてた」
母親はそう話しながら、自身の無力さを痛感するように拳を握った。
「でも、二千万以上も必要だったのか?人生がうまく行っている人間でも、これだけの数を稼ぐのは辛いだろうし、必要最低限だけあれば幸せは見つけられたはずだ。こんなにいらないだろ」
「そうね、こんなに必要ないかも。それに、当初はもっと稼ぐ予定だったの。でもね、私はもう疲れてしまった。結局、私の自己満足。犯した罪を、あなたを蔑ろにすることを、未来のためと言って目を背けていただけに過ぎない。それが私のすべきことだと、そう言って償っているつもりだった。終わりよければ全てよし・・・そう言って、その未来に至る道を蔑ろにしたことから、目を背け償っているつもりだった。ごめんね・・・」
俺はその言葉に拳を握った。
俺は、ずっと騙されていると思っていた。
捨てられているのだと。
だが、一つだけ疑問が残る。
「なんで・・・俺には記憶がない・・・?」
「それはわからない。でもね、離婚をするときの大喧嘩から、なにかを切ったようにあなたから表情がなくなったの。冷たく、鋭い瞳だった。すべてを諦め、興味を示さないような・・・」
俺はそれを聞いて、可能性の一つを導く。
偽記憶・・・
感情と記憶に蓋をしたのか。
記憶を書き換えて、記憶に蓋をして、母親のことなど忘れようとしていた。
そうだ、父親はどんな人だっただろうか、今となっては思い出せない遠い記憶。
きっと、必要のない記憶なのだ。
柳牛の父親と同じように、俺も辛い過去から逃げていたのだ、この数年間、約八年の間、俺は逃げ続けていたことを、ようやく知った。
「それからあなたは、誰かを助けるようになった。淡々と、着々と、ある日学校の先生が褒めてくれた。心君は周りをよく見て、助けてくれます。先生が困っているときも、声をかけてくれるんですよって。でも、その裏の感情に気がつくまで時間は必要なかったわ。 あなたはきっと、死ぬことでしか価値を得られなかった命を、生きて、必要とされる事で証明しようとした」
それを聞いて、俺は過去の心当たりをすべて思い出すように探る。
俺の根底は、誰かに必要とされたい、役に立ちたい、褒められたい。それだったはずだ。
すべてつながった。
俺は、自分の存在意義を、理由を、自分自身に知らしめたかったのだ、死んで、金になる体。
死ぬことでしか見せない価値を否定し、死なずとも動かぬ価値を、見出したかったのだ。
それは、優しさでもなく、愛でもない。
誰かに必要とされたい欲求と、そこに存在してもいいという証明がほしかった。
そうすることで、否定された過去を、否定された人生を、否定された存在を認められるような気がした。
心のかけた部分が、じんわりと輪郭を帯びる。
何も見えなかった何かが、うまく噛み合うような気がした。
「ごめんね、心。今まで苦労かけて」
「どうして、行事とかには来てくれなかった?」
「仕事よ、色々重ねてしてたから。でも、あなたを捨てたわけじゃない、ずっと心配してた。だから、あなたのことを先生から聞いていたし、結喜ちゃんのママからずっと聞いていたの」
俺はゆっくりと目を閉じ、深呼吸をする。
「どうして、教えてくれなかった?何かあったら母さんの方に連絡が行くと、どうして何も言ってくれなかった?」
「言ったわ、しっかりと。何かあればお隣さんのお母さんに話してねって、覚えてない? まぁ、関係も良くなかったし、話を聞いてなかったのかもね」
母親は優しい顔でそう話した。
疑った事自体が、間違いだったのだ。
いや、最初から間違っていたのかもしれない。
「怒らないのか?」
「何を・・・?怒られるようなことはしてないでしょう。もしあっても、今の私に資格はないわ」
そう言って、母親はコーヒーを流し込んだ。
勘違い・・・柳牛の言った通りだ、俺は全部間違ってた。
だから、飲み込め。
全部飲み込んで、言ってやれ。
行ったっきりで言えなかっただろう。
潤む視界、震える声を抑えるように、俺は全身に力を入れ、拳を握る。
そうして、震えた唇でたった四文字を口にした。
「・・・おかえり」
俺のその言葉に、母親は目を開く。
そうして、彼女の唇が震えた。
一滴の透明な雫が、母親の頬を伝い、空のグラスの中で弾けた。
それを皮切りに、いくつもの雫が落ち、弾ける。
四文字には四文字を。
だが、それは、この瞬間だけは、どこの何よりも綺麗な言葉だった。
「・・・ただいま」
瞬間、心の中の何かが溶けていく。
笑い声と、泣き声が頭の中で響く。
それはたった数秒。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ世界が静かに感じ、過去の自分が、今の俺に笑いかけた気がした。
もう、立ち止まらなくていいと、手を振った気がした。