その王太子は
「さて、ギリウス殿。そろそろ諦めがつきましたか」
大広間の近くにある王族用の控室。上座に腰を下ろしたウイリアムはあえて顎をあげ、見下すようにして宗主国であったマナアスの王太子に言った。
当然控えるべきギリウスの護衛はすでに身体を拘束され姿を消し、下座に座らされたギリウスだけが青白い顔をしてウイリアムを睨みつけた。
「裏切り者が…犬に食われろ」
剣に手を伸ばした護衛を片手をあげて制し、ウイリアムは目を細めて笑った。
「我々とて、このような手段はとりたくありませんでした。これまで何度独立を、それが無理ならばせめて、収税を見直していただくよう交渉してきたことか。なんの見返りもなく利益ばかりを望み、無理難題を言ってきたことをどうお思いか」
「宗主国ならば、当然のことだ」
「…国力に違いがあれば、あるいは有事に保護していただけるといった条件があればね。今の貴国がなにかお持ちか」
「本国からの援軍がくれば貴様らなどひとたまりもないわ」
「では、それまで命があればよろしいですね」
にこり、と笑ってみせると、ギリウスは今や自分の周りに一人の兵士すらいないことを思い出してひっと息を呑んだ。
確かウイリアムより十は年上のはずだが、乳母日傘で育てられた王太子は幼子のような頼りない顔をして、庇護者を探して視線を右左に巡らせた。豪奢なジュストコールで着飾った体は細く、軍の総責任者という肩書にもかかわらず、きっと剣など持ったこともないのだろう。その手も貴婦人の手のようにしなやかで白い。守られ、あがめられることを当然と思って成長してきた傲慢さが全身からにじみ出ているようだった。
「貴国から共に参られた、第一騎士団の方々は我々が丁重にもてなしておりますのでご安心を。ああ、それから貴国にいた配下のものから報告がございまして、現在エメリア王国、フルミエ公国、イシルミア王国の軍隊が首都エミールとその王宮の守護にあたっているそうです」
「ど、どういうことだ」
「病の床におられたお父上も、お母君や弟君も無事に保護されているとのことです。ご安心召されよ」
「…反乱か、愚か者どもが」
口汚くののしりながらも、ギリウスは腰が抜けたようにそこから動こうとしなかった。
「愚かなのはどちらでしょう。ねえ、ギリウス殿」
マナアスの国力が傾いていたことは、明らかだった。だからこそ、王は婚姻でエイドランドを縛ることを求めたのだ。そんなことすら気づかず、マナアスで最強の第一騎士団を引き連れて物見遊山でやってきた王太子をウイリアムは嘲るように笑った。
「ソフィア嬢、本日をもって貴女との婚約を白紙に戻す」
その言葉をつきつけた時のソフィーの蒼褪めた顔がいつまでも脳裏から離れない。
筆頭貴族ドルレーン公爵家の宝石、完璧な淑女、彼女を讃える言葉はいくつもあるけれど、ウイリアムにとってはいつでも「可愛いソフィー」だった。
初めて会ったときは無邪気に抱きついてきた幼い少女。剣の稽古や学んだばかりの歴史についてのウイリアムの話をいつも目を輝かせて聞いてくれた、その柔らかな笑顔。いつのまにか淑女の作法を身に付け、さらに経済や福祉といったことまで学んでいると聞き、それがウイリアムの役に立つためだという思いを知った時の喜び。誰よりも可愛い愛おしいソフィア。ずっと二人でこの国を育てていくのだと考えていた。
マナアス王が不例でもう長く持たない状況であるという情報はかねてから耳に入っていた。さらに王太子ギリウスは自国の利益のため、さらに属国に対する締め付けを強める方針であることもわかっていたため、マナアス王の逝去を機に属国から離れることを親密ないくつかの属国の王族たちと共にウイリアムは計画していた。マナアスの横暴にはもう我慢がならない、すぐにでも軍を起こすべきと考えている国もあった。そういった状況で、王女との婚姻が下命されたのである。断ればマナアスはきっと兵をエイドランドにさし向けるだろう。国力が落ちているとはいえ、戦争になればもっとも迷惑をこうむるのは無辜の人々だ。
王が病で身動きの取れない状況で、王太子を現在マナアス唯一の戦闘力と言われる第一騎士団とともに国から引き離し、そのすきにマナアス王と宮廷を抑える。一方王太子の身柄を確保して、婚礼のためという名目で集まった関係各国の代表者の前で、属国との関係解消を宣言させその契約書に署名させてしまえばよいのではないか。
いくつかの国の間をひっそりと、しかし迅速に使者が駆け回り、計画は成った。
しかし、その為にはソフィアとの婚約を解消せざるをえなかった。むろん、事が成功すれば、元通りソフィアと婚姻することができる。けれど、それはソフィアに言うことはできなかった。事が露見した際、ソフィアへ嫌疑が及ぶことを避けるためにはなにも知らせないほうがいいと、ドルレーン公爵にも固く口止めをした。
そして、ソフィアをあえて呼び出して婚約解消を告げた。
ソフィアは青ざめた顔をして、柔らかな唇をかみしめていた。血が出てしまうよ、と止めたかったけれど、できずにウイリアムは目をそらした。マナアスの使者はそのソフィアの姿を見て満足するだろう。ウイリアムは自分が王族であることを初めて呪った。
「私をどうするつもりだ」
探るような声が、ウイリアムを感傷から呼び覚ました。
「舞踏会で宗主国の座をおり、独立を認める宣言をしていただく」
「なんだと…」
「まもなく、マナアスからあなたの王位継承に必要な書状が届く手はずになっている。それが届き次第、希望する各国の独立を認める契約に署名していただく。そうすれば、あなたの仕事は終わりだ。帰国してかまわない」
一応、今のマナアスの支配に反感をもつ王族の血を引く男を次の王として選定し後押しをする密約は交わしている。しかし、その男がどう権力を掌握するのか、ギリウスを始めとした現在の王家がどうなるかといった内政への関与は避けた。
「殺さないと約束するか」
「先ほど言ったあなたのやるべきことをしてくれるのであれば我々はなにもしない」
すがるような男の目を感情のこもらない目でウイリアムが見返した。
そのとき、側近が入ってきて、マナアス王譲位の書状と印綬が届いたことを告げた。そして、ウイリアムの耳元で怒りの抑えきれない声で告げた。
「殿下、お話はおすみになりましたか。それでしたらお早く。王女殿下のソフィア様に対するお振る舞いがあまりにもひどい」
ソフィアの名を聞いて、ウイリアムの宝石のような紺碧の瞳がふいに熱をもってきらめいた。
「なぜソフィアが来ている。公爵には来なくても良いという話はしたはずだ」
「申し訳ありません。王女が脅迫まがいの真似をして無理にお呼びになったようです。時間稼ぎになるなら、と考えた公爵が認められたようですが、それでも見ていられません」
ギリウスを伴い、護衛騎士に囲まれて大広間に戻ったとたん、人の目が一隅に集まっていることに気が付いた。
ウイリアムの目はすぐに最愛の少女の姿を見つけ出す。そして息をのんだ。
ソフィアは淑女の礼をとっていた。目上の女性に対する最上の礼。その目の前にいるのが敬意を捧げられる相手であるミレニア王女。宗主国マナアスの王女である。
異様なのは、ソフィア以外の人々がすでに礼をとっていないことだ。貴族社会では、位が上のものからでなければ声をかけることができない。下位の者は恭順を示す姿勢のまま、上位のものが声をかけるのを待たなければならない。そして、上位のものが声をかけるのも相手の位の高い順である。
ソフィアの周りには彼女の友人である女性が数人いたがすでに皆挨拶を終え、頭をあげている。彼女たちがソフィアを気遣っているのは遠目からでもわかったが、王女は気づかないようにソフィア以外の者たちに話しかけ続けている。
ソフィアはエイドランド王国筆頭貴族であるドルレーン公爵家の令嬢である。王族以外であれば真っ先に声をかけられるべき地位の娘だ。そして、マナアスからの横やりが入るまではウイリアムの婚約者だった娘である。そのソフィアだけが頭を下げさせられている姿は、その礼をとる姿が美しければ美しいだけ屈辱的なものに感じられた。
ソフィアはこのような扱いを受けてよい少女ではない。少女に与えられている屈辱でウイリアムは目の前が赤く染まるようだった。
マナアスの王女としてエイドランドに嫁ぐのは、マナアス王の庶子、市井で育ち今回の婚姻に際して急きょ王女とした少女だということは、マナアスから婚姻の話があってすぐに調べがついた。そして、実際に現れたのは、着飾っただけの王族としてのマナーも心構えもないただの町娘だった。
それでも、そうして政治的に利用されるのは少女のせいではない、自分たちも少女を利用としているのだと、哀れにも思い、事がなった後はできるだけのことはしてやらねばならないと思っていた。
今日も、ロードリオ伯爵を側においておけば問題もあるまいと深く考えもしなかった。
確かにソフィアに会いたいということは何度か言われた。けれど、まさか得たばかりの権威をこのように使うとは思ってもみなかった。
「あのような女を一国の王妃にしようというのか、まったく愚かな国よ」
「なんだと…」
吐き捨てた言葉にギリウスが声を荒げ、すぐにあきらめたように言葉を継いだ。
「確かにあの女は思った以上に愚かだったな。そこそこの見目だったから父上もあわよくばと思ったのだろうが、結局物の役にも立たなかったわけだ」
「あれを見て、あの女が少しでも美しいと思えるなら呆れるな」
冷ややかにウイリアムは言った。
「ミレニア王女殿下、何をなさっている」
ウイリアムが声をかけると、ミレニアはマナアスの王族の特徴であるピンク色の瞳を見開き媚びるように笑った。確かに可愛いといってよい容姿である。しかし、さも自分は可愛いという自信に溢れた態度がウイリアムをうんざりさせる。まして、ソフィアを始めとした、磨き抜かれた美しさを持つ令嬢たちを見慣れた目からすれば、なぜそれほど自信をもてたのかを疑うほどだ。ミレニアの返事を待たず、その横を通りすぎ、ウイリアムはソフィアの手を取って立ちあがらせた。
「ドルレーン公爵令嬢、これ以上礼を尽くす必要はない」
声を掛けると驚いたように、ソフィアが顔をあげた。少し痩せたように見えた。緊張のせいか青白いほほがかすかにふるえ、それからすべての感情を覆い隠すように美しい微笑みを浮かべた。
「王太子殿下、お久しゅうございます」
そっと離そうとする手を、もう二度と離さないと決めてウイリアムはぎゅっと握り締めた。
「ウイリアムさま、何をしているの、婚約者である私の前でそんな女の手をとるなんて」
重ねた二人の手につかみかからんばかりの勢いでミレニアが騒ぐ。ウイリアムは宝物を隠す子供のようにソフィアを背にかばった。
「ウイリアムさま、ねえ、私はちっぽけなこの国のためにわざわざ来てあげたのよ、大切な婚約者でしょう。もっと私を大切にしてちょうだい。あんたもよ、ソフィア。以前はどうだったかしらないけど、今は私がウイリアムさまの婚約者よ。立場をわきまえて。さっさと離れてどっか行ってよ」
王宮にはまったくそぐわないののしりにますます空気が凍った。
「ミレニア王女殿下、私たちは正式にはまだ婚約をしておりません。そして、今後も決して行われることはありません」
「…どういうこと…?」
「国王陛下、マナアスのギリウス王太子殿下がこの場でお集まりの方々にお伝えしたいことがあるようです。よろしいでしょうか」
意味が分からず首をかしげるミレニアを無視してウイリアムは玉座に座る父王に許可を求めた。先刻からしんとしていた大広間にその声はよく通った。国王が重々しく頷く。各国からの来賓の顔が希望に満ちて輝いた。
「ギリウス殿、宣言を」
ウイリアムに促され、ギリウスが苦渋の表情で口を開いた。
「マナアス王が退位され、それに伴い私が王位を継ぐこととなった。よってここに王位を継承したことを宣言する」
大広間にざわめきがひろがった。歓声のひとつも起こらない静かな王位宣言であった。
「あわせて、私はこれまで我が国に従ってくれていた国との関係を解消する」
わあっと歓声が沸いた。拍手があっという間に大広間を満たした。
「な、なに、どういうこと…?」
戸惑った声をあげたミレニアにギリウスが冷たい目を向けた。
「お前の婚姻などなくなったということだ、愚か者め」
「なんで、意味がわからない。私は王女さまなんでしょう。王子さまと結婚して幸せになるためにこの国に来たんでしょう」
心底不思議そうな顔でミレニアが言う。両手を胸の前で組み上目遣いでウイリアムにすり寄ろうとする前に侍従が立ちふさがる。
「ギリウス殿、責任をもって連れて帰られよ」
ウイリアムに言われてギリウスが渋面で頷いた。
「ねえ、ウイリアムさま、なにか言って。私と結婚してくれるんでしょう」
「別室にお連れしろ」
何も答えず、ウイリアムは近衛に命じた。手にした力を利用しようとした少女を許すことはできなかった。近衛兵に左右から押さえられて、まだ何かを叫びながら連れられて行く王女を、もう誰も見ようとはしなかった。
「マナアス王はすでに印綬をお持ちです。このあとすぐにそれぞれの国との契約解消の手続きに入られるご予定です」
侍従が告げるのとともに、ウイリアムが音楽家に合図をしてワルツが始まった。
「今宵は我々が独立をした祝いの夜です。どうぞダンスを」
そして、ウイリアムは傍らのソフィアの前に跪いた。
「ドルレーン公爵令嬢、ソフィア嬢。どうかもう一度私の手を取ってくれないか」
初めてプロポーズをしたあの日のように、手を差し出して愛を請う。
聡いソフィアは何のための婚約解消だったのか早々に理解したのだろう。それでも、まだその顔は硬くかすかに震えているようだった。早く抱きよせて、傷つけたことを詫びなければ。ソフィアの答えを待つ、その刹那すら永遠のようにウイリアムには思えた。
ソフィアは両手でドレスをつまみ礼をして、それからそっと差し出された手に自分の手を重ねた。青い大きな瞳に涙が薄い膜をつくっている。
「喜んで。わたくしはいつもあなたのそばにおりますわ」
再び大きな歓声と拍手が沸き起こった。
大広間の中央で二人が踊り出すと、次々に人々が踊りの輪に加わった。
「どうか私を許してほしい」
「許して差し上げますわ。でも、一度だけ。わたくしはあなたと運命を共にしたいのです」
ソフィアの訴えがウイリアムの心を貫いた。
幸せな時も辛いときも運命を共に。心からそうしたいと思った。
「ソフィア、愛している」
「わたくしも愛しています、ウイリアムさま」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。
賢王ウイリアムの時代、エイドランド王国は近隣諸国との関係も良好で交易で広く栄えたという。王妃ソフィアとはいつまでも仲睦まじく、国民からも愛された。
かつてその宗主国であったマナアスは、その座を降りた後、国内での権力争いの時代に入った。旧勢力の最後の王ギリウスとその家族が新勢力によって長く幽閉されたことは記録に残っている。ただし、ミレニアという王女がそのなかにいたかどうかは定かではない。そして、やがてマナアスは地図からその姿を消した。
完
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