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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

春と魔女とアイスティー

作者:

 その男はいつも、壁際に座る。



 今日は4月にしては異様な寒さで、扉を押し開けて入って来る客の外套は一様に冷たく濡れていた。

 皆、一歩店に踏み入れたとたん、暖かな空気と柔らかい灯りの色合いに、ほう、と吐息を漏らし、強張った肩を緩める。


 それを見るのが、もしかしたらこの仕事で一番好きな瞬間かもしれない。

 微笑んで客の外套を受け取りながら、ユリは思う。


「いつものを」


 目尻の皺を深めて、低い声音で白髪の紳士がユリに声をかける。


「はい」

 湿った外套が乾くように急いで広げてつるしながら、ユリはいつもの元気印の声で応える。

 スコッチのダブル。常温のミネラルウォーターを添えて。

 紳士の前にグラスを置いた時、もう一度扉が開いた。


 滑り込んできたのは細身の男だった。全身黒ずくめのタイトなシルエットの服に、鞄の類はいつも持たない。そして、ユリに一瞥をくれることもなく、いつもの壁際のスツールに腰かける。


「いらっしゃいませ。何になさいますか」


 カウンター越しに男の正面に回り、ユリは声をかける。

 男からは、冬の雨の匂いがした。

 長めの前髪に隠れた瞳がつと上がり、ユリの視線をとらえる。その何の感情も読み取れない瞳に、はじめの頃のユリは、何となくぎくりとしたものだった。


「……温まるものがいいな」

「今日、寒いですものね」


 男の瞳が微かに細まる。それが彼にとっての微笑みだと分かるまで、ここに勤め始めて数月は要しただろうか。


 ホットグラスに湯を注ぎ温める。彼女の手元をじっと見つめる男の視線を感じる。

 空にしたグラスにラムを注ぎ、熱湯を加えて軽くかき混ぜ、バターを一切れ浮かべた。


「ホット・バタード・ラムです」


 男の前にグラスを置くと、男はすん、と軽く鼻を鳴らした。

 湯気を立てるグラスに口を付けると、外から入って来た服装のままの男の肩からも、ようやくこわばりがほどけはじめるのが分かった。ユリはほっと息をつく。


 再び扉が開き、二人組のサラリーマン風の男たちが入って来る。ユリはちらりと黒ずくめの男に笑顔を投げると、彼の前を離れた。




 この店で働き始めて、2年ほどになる。

 慣れた手つきでグラスを磨きながら、ユリはざっと店内に視線を走らせる。開店前の店の中は、暖かくどこかよそよそしい空気を纏ってしんと静まり返っている。

 カウンターに数席。その後ろに、4席のテーブルがひとつあるだけの、小さなバーだ。暖かい色合いの間接照明でほんのりと輝く、飴色に磨き込まれた床や壁。落ち着いた配色のソファーと、壁際の棚にずらりと並んだ、静かに年を経ていくボトルたち。


 マスターが趣味でやっているようなお店だから、あまり一見のお客さんは多くはない。ほとんど混みあうこともない、店員としては働きやすい店だ。


 18時。ユリは表の看板に明かりを入れる。

 6月の日は長い。扉を開けたまま、まだ明るい表の通りを見るともなしに眺めていると、ひょろりとしたシルエットが目の端に入った。


(珍しいな)


 こちらに向かって歩いてくるその黒い人影は、あの男だった。

 彼は普段はいつも、真夜中過ぎにやって来る。週に2日のことも、1か月ほど間が空くこともあるが、いつも壁際のスツールに腰かけ、たいていはユリかマスターが見繕ったカクテルを1,2杯、ゆっくりと飲んでいく。


 ほとんど誰ともしゃべらないし、何ならほとんど、身動きもしない。それでも、彼が軽く目を伏せて手元のグラスを眺めながら、微かに流れる音楽に耳を傾けている様を見る時、ユリには、彼がリラックスしているのがよく分かる。

 彼が、動かない影のように壁際の席に居座っているとき、自分もまた、何故だかいつもより安心して仕事をこなしていることにも、ユリは気がついていた。

 いつからだろう、彼の視線と自分のそれが、頻繁にかち合うようになったのは。


「……いいかな」


 店の入り口に立ち尽くしたまま、男が歩み寄って来るのをぼんやりと眺めていたユリは、正面に立った男の言葉に我に返る。


「え、ええ。今開けたところです。ごめんなさい、ぼんやりして」

「いや、明るい時間に来るのは、初めてだから。……びっくりした、かな」


 男の唇が動き、それから唇の左右の端が持ち上がる。

 笑ったのだ、と気がつくまで数瞬かかった。

 男の瞳が、はじめてみる、きらめく光を宿している。その瞳を目にしたとたん、ユリの首の後ろから両耳が、かっと熱くなった。


「……どうぞ」


 慌てて身を退き、男を薄暗い店内へと導く。彼が自分の頬の赤さに、気づいていないことを祈りながら。


「何か少し、つまめるものをもらえるかな。すごく、腹が減ってるんだ」


 男は羽織っていた上着を脱ぎ、いつもの壁際のスツールに腰かける。彼が服を脱いだのも、これほど長くしゃべるのを聞くのも初めてで、ユリは何故だか少々うろたえる。


「少し、お時間いただいて、よろしいですか。……卵、お嫌いではないでしょうか」

「好きだよ」


 笑みを含んだ声に、どきりとした。

 グラスの水に口を付けながら、男は卵を割りほぐすユリの手元をじっと見つめる。


「……ビールが欲しいな。君も、飲まない」


 やがて作り上げたチーズオムレツをカウンターに置いたユリに向かって、男が柔らかな声で言った。

 本当に、いつもとは、別人みたいだ。

 ユリはますます混乱しながら、二人分のビールをグラスに注ぐ。


「美味しい」


 オムレツをほおばり目を細める男の様子に、ビールをぐいとあおり、とうとうユリは口に出した。


「あの、お客さん、いつもと、全然、違いますね」

「いつも? ……ああ……」


 男はもう一度微笑み、グラスに目を落とす。

 グラスに添えられた、男らしく骨ばった、意外に大きな手。


「いつも寄らせてもらうのは、仕事終わりだったから。なかなか、切り替えが、ね」

「切り替え」

「そう。ここに来たくなるのは、たいてい、あまり気分の良くない仕事の、後だから……」


 男はグラスのビールを一気に飲み干した。仰向いた顎と、のどぼとけの動きに、ユリは思わず目を奪われる。

 グラスを置いた男の舌が軽く唇を舐めるのを見た時、ごくりとつばを飲み込み、ユリははっきりと認識した。

 私はこの男に惹かれている。

 そしておそらく、この男も。

 

「……いつもこの時間は、いてるの」

「そうですね、やっぱり、こういう店は、夜が更けてからの方が」

「そうだろうね」


 男の視線が、ユリの指先から肩をかすめ、上気した頬をたどり、瞳をとらえる。


「今夜、閉店ごろに、また、来てもいい」


 すうと男の左手がカウンターの上で動き、その人差し指が、ユリの人差し指に触れた。思わずピクリと手を引くユリの瞳の奥を、男の目が容赦なくのぞき込む。


「……ええ」


 ユリが応えると、男が軽く息を吐く。その仕草に、ユリの胸が甘く疼いた。


「お待ち、しています」


 ようやっと絞り出したユリの言葉に、男の唇の両端がもう一度持ち上がる。

 この蠱惑的な微笑み。ユリの背筋がぞくりとする。


「ごちそうさま」


 からん。軽い音を残して、扉が閉まる。

 一人店内に残ったユリは思わず、左の拳を唇に当てる。胸の疼きは、治まるどころかどんどんと強さを増して、彼女の胸を甘く満たしていく。

 



 梅雨の晴れ間は長くは続かなかった。

 ぽつりぽつりと入って来る客の肩口は、一様に湿っている。


 そういえば、あの人が来る日は決まって、雨だなあ。

 からんとマドラーでグラスをひと混ぜして、ユリは苦笑いする。それから顔を上げて、隙あらば湧き上がってくる黒い幻影を振り払う。


「ユリちゃんのこれ、美味いよね」


 常連のガタイのいいお兄さんの声。


「このカクテルを本当の味に作るの、難しいんですよ。この子はこれが、得意技」


 珍しくカウンターに入っていたマスターが、朗らかな声で応える。


「ロングアイランド・アイスティー。紅茶は一滴も入ってないのに、なぜかアイスティーの味がする……」

「そう、そして意外に強い。気づくとベロベロになってるカクテル」


 二人は声を合わせて笑いあう。




 初めて自分で作ってあの男に出したカクテルも、これだった。


 まだ、グラスの出し入れもままならない新米だったころ。春の宵、外にはやはり、霧のような雨が降っていた。

 閉店間際に滑り込んできた黒ずくめの人影に、一人でカウンターに残っていたユリはびくりとした。明らかに、不穏な気配をまとった男。前髪に隠れて、表情は見えない。


「あ、の。いらっしゃいませ」


 我ながら、怯え切った声が出た。しまったと思ったが遅かった。

 男は滑るようにカウンターに向かってくる。ユリは黙って、というかほとんど固まって男を見つめ続ける。


「……マスターは」


 低い声にはっと息を飲み、慌てて店の裏につながるボタンを押す。その日は、にお客があると言われていた。


「来たら絶対、分かるから」


 とにかく物騒そうな男、とだけ言ってマスターは片目をつぶっていたけれど、もう少し詳しく教えておいてくれよ、と冷や汗を流しながらユリは思う。


「あらいらっしゃい。この子新人なのよ、可愛いでしょう」


 いつもの柔らかい声でマスターが裏から現れる。豊かなロマンスグレーを上品に結い上げた、小柄な女性だ。ぽん、と軽く肩に手を置かれると、途端にユリの肩から力が抜ける。


「そんな目で見てやって下さんな。この子ももちろん、ワケありなのよ。あんたとはちょっと、事情は違うけどね……」


 全く躊躇なく、男の肘を取りぐいぐいと引っ張っていくマスターに、分かってはいたがこの女傑の肝の据わり具合は常人離れしている、と嘆息しながら、ユリは二人の後姿を見送った。


 やがてから出て来た男は、先ほどとは少し違った空気を纏っていた。この店には、時々この男のような客がやって来る。実のところ、マスターは、の仕事がメインなのだ。

 ユリには詳しいことは分からないが、マスターが何かあまり表に出せない不思議な力を持っていることは、知っていた。自分もまたそれに、助けられたのだから。


「ユリちゃん、この人に、何かカクテル出してあげて」

「うえ、えっ」


 我ながらひどい声が出た。いやしかしそれにしても、まだカクテルの作り方を覚え始めたばかりの身に、この客はあまりにもハードルが高い。


「大丈夫よ、この人、味にこだわりがないのが取り柄だから。大分疲れてるみたいだから、冷たくてさっぱりしたのがいいかな。そう、どうせならうんと難しいのにしちゃおう。ロングアイランド・アイスティーをふたつ、ね」

「はあ、ええ……」


 カウンターに並んで座る、見事に対照的な黒と白の色合いの二人に見つめられながら、初めて人に飲ませるカクテルを作る。何の苦行なのだろう、ユリは冷や汗が止まらない。


 でも。

 すう、とひとつ息をつくと、目を閉じ、暗記しているレシピを呼び覚ます。そして目をひらけば、もうユリの手は震えない。

 なぜだか、自分は集中すれば、己の指先を完全にコントロールできると、自信があった。

 鮮やかと言える手つきで二人分のカクテルを作り上げ、ユリは軽く息をつく。


 男は黙って表情を変えず、老婦人はゆっくりと目を閉じながら、そのカクテルを口に含んだ。


「うん、美味しいわ」


 マスターが目を細める。


「さすがなものね……」


 マスターのつぶやきは、おそらく、自分が封じてもらった過去の記憶に関係があるのだろう。でもそれを知りたいとは、その時の彼女は思わなかった。

 男は無言で、しかしきっちりとロングカクテルを飲み干す。



「……気に入ったみたいね」


 それから、表の店を黒ずくめの男が数度訪れた時、目元に笑いを含ませ、マスターはユリにささやいた。


「ユリちゃんのカクテルか、それとも、ユリちゃん、かな」


 まさか。男のちらとも動かない影を視界の端にとらえながら、ユリは乾いた笑いをこぼす。

それが、2年前の春の終わりのことだった。



 今夜は彼に、久しぶりに、ロングアイランドアイスティーを出そう。客足の途絶えた店内で、軽く片付けものをしながらユリは微笑む。


 それにしてもひどい雨だった。

 日暮れ後間もなく降り出した雨はどんどんと激しさを増し、夜半過ぎには土砂降りになっていた。ざあざあと、店の中にまで雨音が響いてくる。ここまでの降りでは、今夜は彼は来ないかもしれない、ユリはちらりと思う。


 その時、扉が開いた。現れたずぶ濡れの男の姿に、ユリは息を飲む。

 扉を開けた姿勢のまま、男は膝をつきゆっくりと店内に倒れ込んだ。


「……っ。大丈夫ですか」


 ユリは慌てて駆け寄り、男を引き入れて扉を閉める。男は目を閉じたまま、切れ切れに荒い息をついている。その顔面は蒼白だ。

 助け起こそうとして、違和感を感じる。目を眇めて彼の首元を見つめ、ぼんやりとそこに見えたものにぎょっとした。


(……鎖)


 動悸が激しくなり、手が震える。

 何度か深呼吸をすると、ユリは震える右手で、自分の左手にはまった腕輪を引き抜いた。

 

 途端にはっきりと像を結んだ男の姿に、もう一度息を飲む。

 彼は、首元と四肢を金属の輪でつながれ、全身を鎖でがんじがらめに縛られていた。おそらく、魔力による鎖だ。

 彼が身動きしようとするたび、首元の金属の輪が食い込んで呼吸を圧迫している。


(これは何? ……拷問? とにかく早く外さないと、呼吸が止まってしまう)


 とっさにユリは、その鎖に向かって手をかざす。

 彼の身体を拘束している鎖は、あっけなくはじけ飛んだ。だが、首元と手足の金属の輪と、その先の重しのような球を結ぶ鎖は、成り立ちが違うようで、ユリの簡単な術では、びくともしなかった。


 男が咳き込みながら激しく呼吸する。何とか、気道は確保できたようだ。


「お客さん、お客さんっ‼ ……大丈夫ですか」

 彼がうっすらと目を開いた。


「……ユリ、さん」

 その声はひどくかすれていて、一言出すだけで、彼は再び激しくせき込んだ。


「……なん、で、俺、ここに……」

「今は、しゃべらない方がいいです。少し、休んで」


 ユリは彼の喉元に手をかざしながら声をかける。

 喉ぼとけの軟骨が、折れている。残忍な手口だった。素早く治癒魔法を入れながら、彼の身体の内側を透視して、ユリはもう一度息を飲む。


 外側からは分からなかったが、内臓がひどく傷ついている。しかも、致命傷とはならない、ゆっくりと出血が続くような傷つけ方だ。肋骨は何か所も折れている。肝臓と脾臓は、破裂まではいかないが、かなり切り裂かれているようだ。

 腸管が傷ついていないのは、幸いだった。もし穿孔でもしていれば、外科的に対処しなければとても手に負えない。


 いったい、何が。ユリは唇をかみ、気管、肋骨、肝臓と修復を進めていく。脾臓の表面の漿膜を修復するところまでで、彼女の魔力は尽きた。


「ごめんなさい。ここまでしか……失血がひどいから、苦しいだろうけど、頑張って」

 つぶやき、静脈路ルートを確保しから持ち出してきた点滴をつなぐ。全開で落としはじめたところで、限界が来た。

 何とか扉に鍵をかけ、彼に毛布を掛ける。瞬間、ユリの意識は暗転した。




 さら、と何かが頬をかすめる感触で、目を開ける。

 すぐ目の前にある青みがかった双眸にぎょっとする。


「ユリさん」


 男が、ぼんやりとした笑顔で、ユリの頬にかかった髪をかきあげていた。その指先はひどく冷たい。


「お手間を、かけました。申し訳ない」


 瞬間、ユリは自分が意識を失う直前の出来事を思い出す。

 倒れ込んだ男の隣で、自分も横倒しになり眠っていたようだ。

 男は、意識はあるようだが、顔色は蒼白なままだ。


「……苦しいですか」

 ユリは、すばやく彼の傍らで起き上がり、自分の右手を握って魔力の戻り具合を確かめる。

 彼は目だけでユリの動きを追うと、微笑んだまま平静な声で言う。


「いいえ、おかげさまで。……しかし、……不甲斐、ないな」


 声を出すと苦しいらしく、息を切らしていた。ごろりと仰向けになり、顔をしかめる。彼のそんな顔を見るのは、初めてだった。

 そのまま腕で顔を隠す様子に、しばらくそっとしておくことにする。


 男は、いつもの彼とは違う、変わった服装をしていた。ユリの知っているところだと、神社にいる神主さんの服装に近い。

 まだ失血で身動きできない様子の男に点滴を入れ直しながら、ユリはつぶやく。


「お客さん……一体何が」

「俺の名前は、アベと言います」

「アベ、さん」

「仕事を、しくじりました。面目ない」


 彼は、横たわったまま、自分の手首の鉄枷をしげしげと眺める。


「これは、……兄貴も、本気だな」


 低いつぶやき。


「ユリさん。ここに人が来たら、俺を置いて、とにかく、逃げてください」

「まさか」

 ユリの返答に、やや苦し気な息遣いのまま彼は続ける。


「……いや、俺より、あなたの方が、危ない。追ってくるのは、俺の、身内です。あなたの術を、……あなたを、おそらく、消そうとする」


 その言葉に思わずユリは眉をひそめた。


「アベさん……仲間に、こんなことをされたって言うの」

「……追手のやり口の苛烈さは、見ての、通りだ。標的と決めれば、身内だろうが、女子供だろうが、容赦はしない。……お願いだから、逃げてくれ」

「出来るわけ、ないでしょう」


 アベさんは数回、荒い呼吸を繰り返す。


「……一生の、不覚だな」


 その声音に、ユリの胸は訳の分からない痛みに疼く。

 そっと、彼の腹部に手を当てる。自分の戻った魔力を、渾身の力で、送り込む。少しでも早く、傷の回復が、進んでくれますように。


 彼は身じろぎし、彼の手が、身体に当てたユリの手を、握った。

 冷たい、指。

 触れ合った箇所から、凍えそうな何かが、流れ込んでくる。

 彼の静かな、慟哭の波動。


「アベさん……」

「……これは死ぬ、と思ったところから、次に、目を開けたら、あなたがいた」


 かすれた、アベさんの声。


「かたじけない。ここに、来るべきでは、なかったのに」

「……馬鹿ね」


 ユリはつぶやく。


「来てから言っても、遅いのよ」


 ユリは左手で、彼の頬に触れる。


「……アベさん。生きていてくれて、良かった」


 早朝の薄明かりが、店内をぼんやりと照らし始める。扉の外の雨の音はもう、やんでいた。




「……おやおや、何の騒ぎ」


 ガチャガチャと派手な音を立てて鍵を開け、扉を開いたマスターは、そこにいた二人の様子に眉を上げた。

 

 男は座り込んだ状態でふらつきながらも、手を印に構え、鋭い視線を放っている。その前にかばうように片腕を広げたユリの顔は、緊張で引きつって見えた。

 二人はマスターの顔を見たとたん、ほっと全身の緊張を緩める。男はそのまま横倒しに倒れ込み低くうめいた。


 ユリの左手首にあるはずの腕輪がないことを見てとり、マスターはため息をつく。


「ユリちゃん。……思い出したの。もしかして、術を使った?……体調は、大丈夫?」

「はい」

 

 彼女の短い返答と青ざめた顔に、マスターは気づかわし気にもう一度息をつく。


「アベさん。何なのその恰好は」

「……これは、私の一族の正装で……」

「いやあね、違うわよ。聞きたいのは、そのジャラジャラつながってるもののこと。何なの、その、鎖と鉄の球。大昔の奴隷そのものじゃない」


 マスターが右手をすくうように動かすと、男の身体が数センチほど、ふわりと浮いた。


「いやだ、重いわね」


 つぶやきながら、店の中を横切りへの扉を押し開け、入っていく。その後を引かれるように男の身体が滑って行った。


「ユリちゃん、とりあえず、店の掃除をお願い。店全体は結界が張ってあるから、侵入者の心配はないわ。……この人の事情は今から、確認するから」


 有無を言わさぬマスターの声に、ユリは黙ってうなずく。パタリとしまったの入り口のドアを眺め、ぐるりと辺りを見回すと、ユリは細く震える息を吐いた。




 しばらくして出て来たマスターは、いつもの落ち着いた表情をわずかに曇らせていた。


「ユリちゃん」

 その声に、ユリは覚悟を決める。


「何を話すか、話さないか、アベさんから任されたから、まず私が話すわね」

 ユリの顔を見て、マスターはふ、と目元を緩める。


「その顔。あの人とおんなじね」


 あの人の話をする前に。マスターはつぶやくと、ユリの額に右手を当てた。ひんやりとした掌に、過熱した頭の中が鎮められていくのが分かる。


「腕輪を外したのは、あなた自身の決断よね。そのことを、後悔はしていない?」

「……していません」


 ユリは目を伏せ、自分の内に問いかけ、答えた。


「封印を解くには、強引なやり方だったわね。力を取り戻すと同時に、辛いことを一気に、思い出したでしょう。体調は本当に、大丈夫なの」

「……少なくとも、今は心も体も、大丈夫、だと、思います」

「……そう」


 マスターの声が少し遠くから聞こえる。


 2年と少し前。ユリは突然家族を失った。母と、祖母。それがいつか起こるかもしれないということは、幼いころから繰り返し、言い聞かされてきた。覚悟はしていたつもりだったけれど、それでもユリは、自分の身に降りかかった出来事を受け止めきれなかった。ずっと、その時には自分も一緒にいなくなるものだと、思っていた。たった一人で取り残されるとは、夢にも思っていなかったのだ。


 感情が制御しきれずに力を暴走させかかったユリの前に不意に現れたのが、マスターだった。その時ユリは初めて、この世界に自分たち以外にも魔女が生き延びていたことを知った。


 一人で背負うには、この力は、血は重すぎる。死なせてほしい、と懇願するユリに、全てを忘れてただの人間として生きる道もある、と、マスターは静かに言った。ユリは、自分の力と、先祖たちから脈々と引き継がれ自分に与えられた、その力を使うわざを、マスターに記憶ごと封印された。


「いつかどうしてもその力を使いたいと願ったとき、あなたはその血の重さを背負って生きる覚悟ができるでしょう。その時、あなたはこの腕輪を外すことになる。あるいは、そんな出来事は一生、起こらないかもしれない。それはそれで、きっと、幸せな人生よ」


 ユリの左手に腕輪をはめてくれながら、マスターは微笑んだ。




 ユリの手から外された腕輪を弄びながら、マスターはあの時と同じ、静かな声で話し出した。


「あの人は、落人になった。幼いころから養われ、従属してきた組織を、抜けようとして。……許されず、あんなひどい折檻を受けて、逃げ出してきたのよ」


 ユリは息をつめた。

 

「どうして彼が組織を抜けようとしたのかは、彼に直接、聞きなさい。私が今、ユリちゃんに話すべきことは……彼にも、私たちとは違うけれど、似たような力がある。そして、彼を追う者達にも。私には彼を匿う力があるけれど、もちろん、完璧ではない。いつか、あの時あなたの家族に起こったのと同じことが、ここで、彼や、私たちに起こるかもしれない。それでも、彼を助ける、覚悟はある?」


 今、彼をここから追い出すことは、すなわち彼の死を意味する。でも、もしも彼を一時的にでも匿ってしまったら、おそらく彼の属していた組織は、ユリも、マスターも、見逃しはしないだろう。


「私は、もうずっと昔に、魔女として生きる決断をした。この世界から抜け出すことはできないし、こうなった以上、これから一生、追われ戦う以外の道はない。でも、今のユリちゃんは、もう一度すべてを封印して、ただの人として生きる選択をすることも、可能なのよ」


 あくまで静かなマスターの声に、ユリは深く息を吸い、答えた。


「腕輪を外すとき、覚悟を決めました。でも、……アベさんと直接話して、確認したいことがあります。最後のお返事は、そのあとでも、構いませんか」

「分かったわ」


 マスターは静かに微笑む。


「それにしても、さすがに癒し手の一族ね。彼の怪我の処置も、そのあとの補液も、完璧だったわ。まあ、失血がひどいから、まともに動けるようになるまでには1,2週間はかかるでしょうけど」


 マスターの言葉に微笑みを返し、ユリはへ続くドアを開いた。




 の手前の部屋は、マスターが使う、占いや治療関係の道具が雑然と積み重なっている。普通の人が見れば、あまりの怪しさに眉をひそめずにはいられないようなものばかりだ。


 その道具たちの間をすり抜け、奥のベッドのある部屋のドアを開ける。

 そして、ユリは息を飲んだ。


 ベッドには男が起き上がっており、額に手を当て何やら唱えていた。その身体は僅かに発光し、そして半透明になっている。


「ちょっと、アベさんっ」


 慌てて駆け寄り、彼の、額に当てられた手をつかむ。びりりと痛みが走ったが、かまってはいられなかった。


「何してるんですか。そんな状態で動いたら、死にますよ⁉」


 ユリの剣幕に、男は閉じていた目を見開き、瞬いた。息は荒く、顔面は蒼白で汗が滴っていた。


「……もう、大丈夫です。おいとま、します」


 しばらく息を整え、ようやっと絞り出されたセリフに、ユリの息も荒くなる。


「何言ってるんですか。座るのもやっとのくせに。おとなしく、寝ていてください」

「……いや、ここには、いられません」


 男は焦点の合わない目で一点をみつめたまま首を振る。


「アベさん。もう、私たちはあなたに、巻き込まれてしまっているんです。今更、どこかに立ち去ったところで、遅いんですよ」

「……そんな、ことはない」


 男の目が上がった。


「マスターの、結界は、凄まじい。ここは、まだ、嗅ぎつけられて、いないはず。今、俺が、出て行けば……」

「もう、遅いのよ。……私には」


 ユリの声音に、男の身体が強張った。


「お願い、どこにも、行かないで。……死なないで、アベさん」


 しばらく、部屋には男の荒い息遣いだけが響く。

 やがて、男の口から、ふうう、と長い息が吐き出された。


「……ありがとう」


 ぽつりと、狭い処置室に掠れた言葉が落ちる。ユリは、微かに震える男の右手を離して息をつき、傍らの椅子に腰かけた。




「俺は、どこかから拾われてきた子供だった。それを知ったのは、つい最近のことだ」


 ユリがマスターから聞いた話を確認した後、残りの全てを話したいがいいか、とアベさんは言った。ユリが頷くと、アベさんは起こしたベッドの枕にもたれて、掛布団に目を落とし話し始めた。


「昨晩、俺が着ていた服で分かったかもしれないが、俺はこの日本の、古来からある術使いの一族として、育てられた。表向きは絶えたことになっているその術は、君たちの術と同じように、密かに受け継がれていた」


 アベさんは微笑むと、掌を開いて見せる。そこにある切り抜かれた和紙に息を吹きかけると、それはふいにむくむくと膨れ上がり、巨大な白犬となり「ワン」と吠えた。


「アベさん、ぎりぎりの状態なのにそういうサービスはいいですから……」

 ユリは驚きを通り越して呆れてしまう。


「……すまない。昨日、夜に君に話をするときに、使おうと思っていたものだから……」

 アベさんは苦笑いをする。


「俺は、一族で今生きている人間の中では、生来持つ力はおそらく、一・二を争っていた。だからこそ身内――と俺が思っていた人たちは、俺を大事にしてくれていたのだと思う。でも俺は、勘違いをしていた。家族として、彼らに愛されていると、そして、自分は自分の意志で、愛する家族のために、時には辛い仕事も、しているのだと、思っていた」


 彼はひとつ息をついた。


「数日前、俺は、どうしても実行することのできない指令を受けた。俺は、その仕事を受けないこと、そして、術使いそのものを、辞めることを決めた」


 ユリは、アベさんから目を逸らし、尾を振り満面の笑みを寄越す白犬を眺める。少し、息が苦しい。彼の顔を見続けることが、できなかった。


「……その指令とは、君を探し出し、殺すことだった」


 アベさんの声が、暗く平坦になる。


「俺の一族は、古来からこの国の神通力と呼ばれるものを管理し、伝統を守り……ありていに言えば、外来の魔力使いを排除する役割を担ってきた。身内の者達も、俺自身も、そのためには罪とされることも、汚いことも、数限りなくやって来た」


 ここで一度、アベさんは息をつめた。それから、大きく息を吸うと、変わらない平静な声で言葉を続ける。


「2年前、君の家族を襲ったのは、俺の身内だ。そして、死んだことになっていたはずの君も、生き延びていることを、気取られてしまった。――俺は、術使いをやめ、力を封じて普通の人間として生きると身内たちに告げた。この店のマスターはおそらく、俺以外からは、君を、守り抜けるだろう。君を守るためには、それが最善の決断だと思った。その時まで俺は、自分の申し出が、簡単に受け入れられると、自分の意志は尊重されると、信じて疑っていなかった」


 彼の口元に、自嘲の笑みが浮かぶ。


「――そして俺は、最大級の仕置きを受けた。逃げ出せたのが、幸運なのか罠なのかは、分からない。とにかく、今もこれからも、俺の首と手足には、この鎖と鉄球がぶら下がったままだ。ほとんどまともに術も使えず、かといってただの人にもなり切れない。ひたすらに元身内の追跡に怯えて生きる、それがこれからの俺の、人生だ」


 そこでふいに、彼の声音から濁りが消える。

 語る言葉は絶望なのに、彼の瞳には、何故か澄んだ明るい光があった。


「でも俺は、今、人生で一番、幸せだよ。俺の生きる意味は、君だから。君が今、俺の隣に座ってくれている。……夢みたいだ」

「……」

 

 ユリは黙って、そっと、彼の右手を握った。


「どうしてそれほど、私のことを」

「どうして、だろうね。今でも、分からない。術使いには、それぞれに宿命の半身がいる、なんていう、都市伝説もあるけれど、そんなことが本当にあるのかもしれないと、夢想したりもしたよ。……とにかく2年前のあの日、見張り役だった俺は、学校帰りだったろう、家に向かって歩いてくる君の姿を目にし、声を聞いた瞬間に、囚われた。仲間たちに気取られないように、君に気配を完全に無くす結界を張り、遠く離れた土地まで飛ばした。そこに強大な存在がいて、おそらく君を匿ってくれることは、分かっていた」


 彼は目を落としたまま、話し続ける。その姿はまるで、懺悔をしているようだった。

 

「本当は、二度と関わらないのが一番だということは、分かっていた。でも、俺はここを、訪ねてしまった。この店でもう一度君の声を聞いた時、君が作ってくれた酒を飲んだ時、俺は、……」


 彼はユリの手をぎゅうっと握り、深呼吸をした。


「それから、この店で、君の声を聞きながら過ごすひと時だけが、生きている歓びを感じられる時間だった。何ていうか……君にしてみれば、身勝手すぎる、気持ち悪い奴かもしれない。それなら、ほんとうに、すまない」

「……気持ち悪い、なんて」


 ユリは思わず吹き出す。

 

「あの時、助けてくれたのは、……あなただったんですね……」


 自分の手を握る、彼の震える手に、ユリはもう一方の手を重ねる。


「私たちの血族が、侵略者としてこの国でしてきたことも、犯した罪も、子供のころから言い聞かされて来ました。いつか、償いを求められる日が来ると。……それでも、私は自分の家族を殺した人たちが、憎いです」


 アベさんの目がきつく閉じられる。


「でも……少なくとも、今、私にとっては、アベさんは、恩人です」


 その瞼に向かい、ユリは静かに言葉をつなぐ。


「この店に来て、マスターもお客さんも、温かい人ばかりで。でも、何故だか私、うまく息ができませんでした。――アベさんが、気にかけてくれているのは、分かっていました。何故だか、アベさんがいる時は、お店の空気が吸いやすくなるような……呼吸が楽になるような、そんな感じでした」


 ユリは、男の瞳をのぞき込む。

 青みがかった、不思議な色味を宿す瞳。


「好きです、アベさん」


 なるべくさらりと言ったつもりだったのに、アベさんの顔がみるみる真っ赤になって行くのを見て、ユリは慌てる。


「アベさん、アベさん。あんまり興奮すると、死んじゃうから、落ち着いて」

「……今、俺が死んだら、貴方のせいだ」


 次の瞬間には、ユリは男の腕の中に引き込まれていた。

 細身に見える身体が、がしりと力強くユリを囲い込む。そっと顎をすくわれ、上向いた唇に、男の唇が優しく触れた。

 ユリの、閉じた視界がぐるぐると回る。


「っ……」


 突然唇が離れ、ユリの肩に男の頭が乗った。


「……ほんとに、限界だ……」


 切れ切れの、苦笑いの声。ユリは我に返り、彼の手首を取る。脈は恐ろしい速さだが、乱れてはいなかった。


「アベさん。これ以上、無茶をしたら、ベッドに、縛ります」

「……」


 何故だか悪くなさそうな表情かおをする男を軽くにらんで、ユリは立ち上がる。ベッドに倒れ込んだ男のため息の甘さに、厳しい顔を保つのに苦労した。




 アベさんの体は一週間で回復した。

 それからの彼は、表向きは、バーの用心棒として、店が開いている日は、いつもの壁際の席に静かに居座っている。

 

 回復して初めのひと月、彼は、の部屋にこもり、早朝から夕方、疲労困憊するまで、技の修練をしていた。毎日夕方に顔を合わせる彼の表情から、その努力の成果があまり上がっていないことは、ユリにも分かった。


 ひと月経った時、店を出て行く、と、アベさんはマスターに申し出た。

 マスターの眉が上がる。


「どういう、つもりなの。私の結界が信用できない?」

「……いいえ。マスターには、言葉では言い尽くせないほど、感謝しています。しかし俺は、最終的には自分で自分の身を守り、生きていく必要がある。この暖かい壁の中にいては、どうしても感性が、鈍って行ってしまう。外の空気に身をさらさなくては、駄目になってしまうんです」


 アベさんの決然とした目を見返し、マスターは軽くため息をつく。


「止めても、無駄みたいね。……分かったわ。私の条件は、私がいいと言うまで、この店が開く日は必ず顔を出して、店が開いている間は、ここの結界の中で過ごすこと。……約束、できる?」


 アベさんの目に迷いが浮かぶ。やっぱり、もう来ないつもりだったんだ。グラスを磨きながら、ユリはこっそりと唇を噛む。

 彼の視線がちらりとこちらに向いたことを、横顔で感じる。


「……お約束、します」


 ユリはそっと息をつく。彼が、恩人との約束を破るような人でないことは、分かっていた。




 アベさんが落人となってから、季節は巡り再びの春が訪れようとしていた。

 彼は、律義にマスターとの約束を守っていた。毎日、店の看板の明かりを灯すとしばらくして、押し開けられた扉からするりと滑り込んでくる黒い影を見つめ、ユリはほうっと安堵の息をつく。


 初めて唇を交わしたあの日以降、彼がユリに触れようとしたことはなかった。何なら、店のカウンター越し以外では、二人きりになることすら、避けているようだった。

 ユリには、どうしたらいいのか、まるで分からなかった。

 壁際に座る彼の動かない横顔から放たれる気配は、変わらず優しく甘やかにユリを包む。それでも、彼の視線がまともにユリをとらえることはない。


「……周囲を警戒することから、自分の意識が一瞬でも逸れることを、恐れているのよ。鎖と重りをぶら下げた状態で、術使いが自分の気配を同業者に隠し続けるのは容易なことじゃないわ。……でも、この結界の中でくらい、ゆるめないと、あの緊張感では長くはもたないと思うんだけれどね。そのためにわざわざ毎日店に来てもらってるっていうのに、全然気を緩められないのね。まあ、彼らしいか」


 二人の関係をからかわれて、思わずぽろりと弱音を漏らしたユリに、マスターは穏やかな声で言う。


「ユリちゃんと見つめ合っちゃったりしたら、夢中になって他のことなんてそっちのけになるって、自分が一番よく分かってるんでしょ。不器用過ぎて、気の毒だけど、まあ、事実よね……」


 ふふ、と、悪戯っぽく笑うマスターの言葉に、ユリはますます、どうしていいか分からなくなる。

 せめて自分ができることで、彼を労わりたい。

 ユリは、毎日の仕事終わりにいつも、一番得意なカクテル、ロングアイランドアイスティーをアベさんの前に滑らせる。

 彼はそれを、ゆっくりと味わう。そして最後まで飲み干すと、ありがとう、と一言を残して、扉を押し開け店を出て行くのだった。




 今年の桜は、開花と同時に訪れた花冷えのおかげで、長く美しさを保っていた。

 からん、とドアが開き、薄紅色の花びらをまき散らしながら入って来る老紳士に、ユリは知らずに笑顔になる。


「あら、今日は素敵な、同伴者が」

「ああ。遠回りして桜並木の下を歩いてきたら、連れてきてしまったね」


 老紳士の口調も笑みを含んでいる。

 薄手のコートを受け取りながら、その肩口についた花びらをつまみ上げ、瞬間、ユリは違和感を感じた。


 その花びらにはあるべき滑らかな感触がなく、ざらざらとしていた。そう、まるで、和紙のように。


「ユリさん‼」


 アベさんの厳しい叫び声が聞こえる。しかし次の瞬間、ユリの周囲の空間が歪み、その声の残響も掻き消えた。


 ぐわりと空間が裏返るような感触がして、気がつくとユリは、球状の空間の中にいた。周りは薄暗く、 がらんとして何もない、ように見える。しかし、ユリは数m先の淀んだ闇の中に、禍々しい気配を感じた。


(恐ろしい、魔力。……魔獣? 多分私では、太刀打ちできない)


 微かな唸り声と、舌なめずりするような獰猛な気配に、全身が総毛立つ。あきらめるつもりはなかったが、事実として、おそらく自分はここで、この魔獣にいたぶられて死ぬだろう。ユリは静かに息を吐く。

 右足を軽く下げ、半身になる。今自分にある武器は、この肉体だけだ。


 その時、背後から声がした。


「……ちょっと、下がっていて」


 いつの間にか後ろに立っていたアベさんは、ユリの肩に軽く手を置くと、普段通りの声で言った。

 振り返ると、その目は軽く細められて、正面の何かを凝視している。特段、その顔のどこかが普段と変わっているわけではないけれど、なぜだかユリの背中には悪寒が走る。

 ユリは慌てて、アベさんの後ろに回り込む。


 ふいにアベさんの右手が、自分の首にかかった。パキンと、ごく微かに氷が爆ぜるような音がする。

 その瞬間、透明な煙のような何かが、ぶわりとアベさんの背後に湧き上がった。

 パキン、パキン。微かな音は、しばらく続く。

 やがてアベさんの手が首から離れると、アベさんの首元と手足にはめられていた、重たそうな金属の枷は、粉々に砕けてばらばらと地面に落ちた。

 風が吹いているわけでもないのに、アベさんの髪と上着が、つむじ風の中にいるように、舞い上がる。

 

 突っ立っていたアベさんが右足を上げ、とん、と軽く前に踏み出した。

 その瞬間、稲光のように青白い光がジグザグと地面の表面を走り、数m先に、突然トカゲの化け物のようなものが現れ、声も立てずにばったりと倒れるのが見えた。


 ぎゅるりと、再び空間が裏返るような感触。


「兄貴、いるんだろ、出て来いよ。それとも、引きずり出してやろうか」


 聞いたことのない、底冷えするような、アベさんの声がする。

 空間の壁を割り、長身の男が姿を現わした。裾の絞られた、平安装束のような服装。鋭い切れ長の目は冷たく底光りしている。酷薄そうな薄い唇は引き結ばれ、顎には汗が滴っていた。


「おのれヨシナリ。お前ごときが私の術を破るなど、身の程知らずな。……思い知らせてやる」


 鋭い声と共に、長身の男の右手が横に払われると、その指先から、黒い旋風が巻き起こりアベさんに殺到する。その威力とスピードに、ユリは思わず目をつぶる。

 何の物音もしなかった。

 目を開けると、アベさんはほとんど姿勢も変えず、無造作に右手を前にかざしていた。旋風はその掌の前で静止しており、やがてもやもやとした黒い霧となり、掌に音もなく吸い込まれる。


「なっ」


 長身の男の目が見開かれる。


「……兄貴。俺は、安倍の家のみんなには、幸せに、穏やかに暮らして行ってほしかった。みんなに憎まれようとも、育ててもらい、魔力と共に生きるすべを教えてもらった恩は消えはしない。みんなが安心するなら、この枷をはめたまま、日陰者として何とか生きて行こうと、思っていた」


 アベさんは静かな声で話しながら、一歩、踏み出した。長身の男は一歩、後ずさる。


「でも。……俺だけではなく、俺の愛する人に、こんなやり方で危害を加えようとするなら、話は別だ」


 もう一歩後ずさろうとした長身の男の体がよろめいた。カシン、と金属音が響き渡り、その足首に、金属の枷が現れる。


「な、何をする」


 カシン、カシン。狼狽した声を絞り出す男の首元にも、そして両手首にも、金属の輪が次々と填められていく。


「お、お前ごときに、秘伝の術が……」

「どうして、自分にできることが、俺にできないと思ったの。そこまで愚かになってしまったの、兄さん」

 アベさんの声は、哀しげだった。


「手取り足取り教わらなくたって、兄さんにできることは、俺には何だって造作なく、できるんだよ」

 丹念に相手の自尊心を折り取る、優しく残忍な声。


「兄さん、分かるかな。その枷は、兄さんが俺に付けたものとは、少し違う。少し、強力だよね。でも、それだけじゃない。その枷を外そうとしたものには、同じように枷がはまる。そして、俺がこの指を動かしさえすれば、そいつは、ぎゅうっと、締まるんだ。……こんな風にね」

「ぐっ」


 長身の男が一声呻き、くずおれた。球状の空間の外側から、微かなざわつきが聞こえる。


「みんなも、分かったよね。これからも、彼女に手を出すものは、容赦はしない。良く、頭に叩き込んでおいて。……兄さん」


 膝をつき荒い呼吸を繰り返す男にかけられるアベさんの声は、あくまで優し気に淡々としていた。


「鎖のついた身で生きるのは、大変だよ。四六時中、そこらじゅうの術使いや悪霊たちに、狙われ続ける。……ああ、兄さんは、俺にしたのと同じように、自分の式神たちも、痛めつけて遊んでいたよね。これから、彼らにどんな風に遊んでもらえるのかも、楽しみだね」


 すう、とアベさんの右手が動く。途端に、歪んだ空間はぎゅるりと動き、うずくまったままの長身の男も、空間の周りに見えた無数の影たちも、掻き消えていく。




 そして気がつくと、ユリは先程までと変わりない、店内にいた。


 壁際のいつもの席に座っていたアベさんが、静かに立ち上がる。そして、周囲の客にも頓着せず、まっすぐにユリに歩み寄ると、彼女の右手首を無造作につかんで引っ張った。


「え、ちょ、ちょっと、アベさん」


 アベさんはカウンターに回り込み、への扉を押し開けると、ずんずんと進んでいく。そして手前の部屋で書き物をしていたマスターが目を上げるのとほぼ同時に、一言、発した。


「代わってください」

「……おやまあ。はいはい」


 ざっとアベさんの全身に目をやり、マスターは軽い調子で立ち上がる。そしてすれ違いざまにユリにウインクし、軽やかにへと出て行った。


 アベさんはそのまま足を止めず、奥の部屋のドアに手をかける。


「アベさん、どうし……」


 奥の部屋に引き込まれた瞬間、きつく抱き込まれ息が止まる。


「無事で、よかった」


 震える声で男がつぶやく。

 ユリを抱きしめたまま、身体を震わせ荒い息を吐く男の様子に、ユリの胸が締め付けられる。


「アベさん……」


 彼の、激しい動悸。徐々に、先ほどの恐怖が、実感を持ってユリの胸に迫って来る。


「アベさん、怪我は。鎖が外れて、体に負担は……」


 ユリの言葉は、男の熱い唇で遮られた。ユリの胸に、熱く激しいものがこみ上げ、先ほどまで支配されていた恐怖を押し流していく。


「アベ、さん」


 唇が離れる。

 眼前に、燃え上がる炎を宿した、青みがかった双眸がある。


「……愛してる」


 熱をはらんだ声。

 胸に湧き上がる激情に、身の内が焼けるようだ。この熱を、切なさをどうしていいのか分からず、ユリは目の前の男に縋りつく。


「アベさん、アベさん」


 うわ言のように繰り返されるユリの声に、男はユリを抱き上げ、優しくベッドに横たえると、もう一度、きつく彼女を抱き寄せた。

 伝わって来る、震え。肌の、温もり。彼は、私は、生きている。

 ユリの嗚咽を、男は押し付けられた胸で受け止める。

 やがてユリの肩の震えが止まると、男は彼女の目尻に優しく口づけを落とした。


 二人は、身体の奥から突き上げる切望のままに、ぬくもりを求めあう。

 男の顔が押し付けられた首筋に、暖かい雫が伝うのが分かる。

 ユリはたまらず、男の頭を両腕で抱き込む。その彼女の目尻からもまた、涙がとめどなくあふれ出ていた。




「ひっ……」


 目覚めのけだるさの中、ぼんやりと、隣に横たわる男に顔を向けた瞬間、眼前で自分に向けられている見開いた双眸に、思わずユリは悲鳴を上げた。


「アベさん、黙って動かないのに目が開いてて、怖すぎです……びっくり、しましたよ……」

 思わず抗議の声を上げるユリの唇に、彼の唇が軽く触れる。


「ごめん。目を閉じると、全部、夢でしたってことに、なりそうで……」

「……もしかして、私が寝ている間、ずっと、見てたんですか」


 うん、と照れ臭そうに笑う男の様子に、ユリは言葉を失う。

 そんな彼女の頬に、微笑んだ男の指が、愛しげに触れる。


「まだ、信じられない。君の顔を見つめて、君に、触って、抱きしめて。……そんなことが、もう一度、許されるなんて……」


 彼のこれほど無防備な笑顔を見たのは初めてで、ユリの胸は甘く疼く。


「ずっと、触りたくて触りたくて、気が狂いそうだった……」


 ユリの肩口に鼻先を埋め、熱い吐息とともに男がつぶやく。

 ユリの胸はまた、甘い疼きでいっぱいになる。


「……これからはいつだって、好きに触って、良いんですよ」


 思わず男の頭を撫でてしまいながら、ユリはささやく。

 男の顔が上がり、二人は優しく、口づけた。



 コンコン。

 その時、の入り口の扉が軽く叩かれ、二人はさっと身を起こす。


「お二人さん。そろそろ、店じまいよ。身支度整えて、出てらっしゃい」


 いつもの朗らかな、マスターの声。

 敵わないな。二人は顔を見合わせて苦笑いをする。



 表の店内には、夜明けの薄明かりが差し込んでいた。マスターは、ずいぶん時間を潰してくれていたに違いない。ユリは身が縮こまる思いがする。


 その薄闇の空間には、かぐわしい香りが漂っている。


「今日は本物の、アイスティーよ」


 マスターは、測り入れた茶葉にぐつぐつと沸き立つ熱湯を注ぐと、きっちりと蒸らし、それからゆっくりとかき混ぜる。そしてこれまたきっちりと計った氷に紅茶を注ぎ入れ、冷えたグラスに注ぎ分けた。


「……おいしい」


 一口、口にして、ユリは思わずつぶやいた。


「そう? やっぱり、味の安定のキモは、基本に忠実に、いつでもきちっと計量するってところよね。カクテルもお茶も、変わらないわ」


 マスターはいつもの静かな笑顔で、二人を交互に見比べた。


「結局、あなたたち二人とも、普通の魔力使いになっちゃったわね。……どう、私の仕事、継ぐ気はない? ……表も、の仕事も」


 ユリと男は、顔を見合わせる。


「二人がかりなら、私一人分ぐらいの仕事は、こなせると思うわ」


 マスターの、微笑む瞳の奥にちらりと見える不敵な光に、隣の男が身じろぎをする。彼の、隠しているつもりの負けず嫌いに火が付いたのが分かり、ユリは思わず微かに笑い声を漏らす。


「……何が、おかしいの」

「……ううん、別に」


 アイスティーのグラスにもう一度口を付けながら、ユリは思う。


 春の朝日と、アイスティー。

 この、ふくよかな幸福の味。

 きっと、私は一生、忘れない。


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[良い点] 最初は普通のバーだと思ってました 雨の日 > その男はいつも、壁際に座る 」 =ワケアリ ふふん、お酒の飲めない私にだって、それぐらい分かるわ… あらあら これは キャー 恋よ恋 大人の…
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